2011/12/31

Japanese Red and White Song Battle

大晦日。「年末恒例」とは言われなくなってきた、NHK紅白歌合戦。

NHKは、「NHKワールド」というので、テレビ、ラジオの番組を海外に配信している。テレビは有料で、NHKの番組が見られる。受信設備があり、視聴料を払っていれば、紅白歌合戦も生中継で見られる。

日本では夜7時あたりから11:45までの放送である。紅白を見ながら年越し蕎麦を茹でてすすって、紅白の参加者が「蛍の光」を歌うのを聞き、NHKホールのひきの絵でパ~ンとキラキラしたテープが飛び出す(これこそ恒例だ!)を見たその刹那、画面が一転して、東北の雪に囲まれた寺の鐘をつく場面に切り替わる。ゴ~ン、ゴ~ン。「ゆく年、くる年」である。

ああ、一年が終わっていくんだねぇ…、としみじみしながら、0時を回った途端、各地で迎春を祝う花火の打ち上げ場面。今年は穏やかな年でありますように…。

NHKの「紅白歌合戦」から「ゆく年、くる年」に続く番組の流れは、多くの日本人の年越しの心性を形作っている。

海外でこれらの中継を見られるのは、多くの在外日本人にとって嬉しいことであろう(私は見られないが)。しかし、ここに「時差」という問題がある。場所によっては、日本の真夜中は現地での早朝、真っ昼間である。

キルギスは日本からマイナス3時間。首都ビシュケク在住の日本人たちは紅白を見る集いがあるのだそうだが、見終わった後、まだ3時間も年が替わらないというのは、なんか違和感があるのではないだろうか。キルギスに限らず、世界中のあちこちで、紅白は見られているのだが、早朝や真っ昼間に紅白を見るというのは、何か背中がムズムズするような感じがしてしまう。現地に永住、長期在住している人は、毎年そうやって紅白を見ているだろうから、それが当たり前になっているのだろうけれど。

今年、私は協力隊仲間と、とある山の温泉施設で年越しをする予定である。山に短波ラジオを持っていき、紅白歌合戦を受信し、皆に聞かせるつもりである。さて、電波は良く入るか?

2011/12/30

新年の祝い

今週頭、配属先の障害児者センターの子供たち向けの新年会があった。

日本で「新年会」と言うと、暦が1月になってから以降にやるものだが、ロシア語文化圏では、12月末から新年会をするもののようである(この話は昨年も書いたような気がする)。

2011年も残すところあと1週間を切っているが、既に人々の挨拶は「新年おめでとう」となっている。このあたりは日本人的にはちょっと違和感を感じるところである。

日本では年末の挨拶は「よいお年を」である。これは年が明けてからは使えないという感じがするが、国語学てきにはどうなんだろうか?

ロシア語の「Поздравляю вас с Новым годом.」は「あなたに新年の祝いをします」みたいな言葉だが、これは12月の下旬から使われている。逆に、この言葉は年明けにも交わすものなのだろうか?

キルギス語でもロシア語と同じ様な挨拶がある。ひょっとすると、これはロシア語文化が入ってきた後に、キルギス語を対応させた結果かも知れないと想像する。

なんにせよ、1月1日を基準に挨拶言葉が切り替わると思っていたら大間違いのようで、文化によっては12月中にすでに新年の挨拶をしているのだ。

中国では、今も旧暦の正月のほうが盛大のようで、西暦の新年はそこそこに、2月頃に来る旧正月に人々は故郷に帰り、新年を祝うようである。マレーシアの華人たちも、旧正月の時には1週間くらい仕事を休んでいた。華人以外の民族も、それに便乗して一緒に祝っており、微笑ましい光景であった。

新年の迎え方にこのような地域差があるなら、天の邪鬼の私としては、6月25日あたりに「明けましておめでとう」と言ってみたくなるのだが…。

newyearparty
(子供たちの新年会。もみの木も設置されている。)

小沢昭一さん出演番組

12月31日(土) 午後0時15分~1時55分(日本時間)に、「思い出の昭和歌謡 ~小沢昭一・長田暁ニ~」という番組が、NHKラジオ第1放送である。

すでに恒例化している大晦日企画のようで、2年前、日本にいた時に聞いた。ナマ小沢昭一を聞ける数少ない番組。

恒例化しているのは嬉しいが、出演者の二人が82歳と81歳だって。こりゃ別の字のコウレイカだ。来年も聞ける保証はどこにもない。日本にいるラジオファンは是非聴くべし!

(私の知り合いで、誰か録音しておいて下さ~い!)

 

 

 

 

 

 

※ 書くまでもないと思うが、「コウレイカ」は「高齢化」のこと。

2011/12/29

日本では会えない…?

あと1週間足らずのうちに、キルギスの21年度3次隊協力隊員たちが任期を終えて帰国する。

協力隊は2年の任期。1年に4期(隊次)に分けて派遣される。私は22年度1次隊だから、活動期間が重なる可能性があるのは19年度2次隊から23年度4次隊まで。しかし、19年度2~4次隊は派遣がなかったか、任期短縮で帰国してしまったようで、キルギスには隊員はおらず、一番古い先輩隊員は21年度1次隊であった。

一方、本来ならば24年度1次隊の隊員とは入れ違いになるはずなのだが、我々キルギス22年度1次隊は派遣日が1ヶ月ずれ込んだため、24年度1次隊も予定通りの日程で派遣されれば、約1ヶ月、赴任期間が重なる。

21年度3次隊とは約1年半(正確には1年5ヶ月間)、キルギスで協力隊員として共に過ごした。共に過ごすと言っても、普段は別々の町や村で生活していたわけで、たまにJICAの会議などで首都に集まる時、あるいは、誰かの呼びかけで旅行などに行く時に顔を合わせるという感じであった。

赴任時期の重なりが多かったこともあり、21-3次隊の人たちとはよく遊んだと思う。自分と同年輩の人から、10歳以上も若い人までいたが、そういう連中がほぼ同じ目線で(と年上の者が言うのはいやらしいとは思うが)遊べるというのは、なかなか日本の一般社会の中ではないのではないだろうか。たいていは上司-部下、先輩-後輩といった上下関係の中での付き合いになってしまうから。

半年くらい会わなかったと思えば、3週続けて会って飯を食うことがあったりと、1年半の付き合いの中での濃淡というのもあった。会えば「日本に帰ったら…」という話をすることも多かった。一緒に旅行をしたり、誰かの家に集まったりと、あれこれ帰国後の同窓会の話で盛り上がるのであった。

が、一度、協力隊に参加したことのある私の実体験から言うと、帰国後に日本で会うというのは、派遣国で会っていたようには、思うに任せなくなるものである。

帰国後、それぞれ出身県などに戻っていくのだが、日本の国土は狭いと言われるが、いざ県を2つ3つ越えて会おうとすれば、そこそこ難儀する距離である。会おうと思っても、なかなかその時間が取れない。人によっては日本以外の国へ、再び行ってしまうこともある(留学、就職)。

何よりも時間が合わなくなる。仕事、家庭生活など、日本に帰れば、皆、別々の環境で暮らし始める。今、キルギスという外国で暮らしてはいるのだが、JICAボランティアという共通項を持っているので、何かと集まる機会があるのだ。日本に帰ったらそれぞれは違う仕事・職場の所属となっていくので、会う機会が減るのである。

うん、それでもまた会いたいものだ。毎年は無理にしても、2年に一度くらいは集まれる連中でツーリングでもしようじゃないか、という話になっている。

そうそう、マレーシア時代の仲間達にもまた会いたいものである。消息が分からなくなっている奴もいるが‥。

Keep in touch! (連絡とってね!)

2011/12/28

エディニッツァ(携帯デポジット)

キルギスに限らず、日本や一部の国を除いて、携帯電話はプリペイド式になっている。通信会社ごとに販売しているSIMカードを、携帯電話端末に差し込めば、すぐにその場で通話が可能である。

料金は予め支払っておき(=デポジット)、そこから通話した分だけ引かれていき、デポジットがなくなれば通話ができなくなる。ただし、これは発信する場合の話であり、他人からかかってくる通話を受信するのはデポジットがなくてもできる。

そのためか、たまにワンコールだけ鳴らして電話を切る人がいる。いわゆる「ワン切り」というやつである。携帯に受信番号の履歴が残る(アドレス帳に登録してあれば名前も分かる)ので、かけ直そうと思えばかけ直せるのであるが、相手に料金を負担させんがためのワン切りというのはマナー違反だと私は思うので、そういう電話には出んわ。(←聞き流してネ)

携帯のデポジットのことをキルギスではединица /エディニッツァ/ と呼んでいる。ロシア語で「単位」を意味する言葉である。ロシアでもエディニッツァと呼んでいるのかは分からない。ロシア語辞書を見ても「携帯電話のデポジット」とは書いてない。携帯が普及して以降の語法であろう。

デポジットを入金するのは、キルギスの場合、入金の取り扱いをしている商店などで、電話番号を伝え、入金する額を店員に渡す。あとは店員が入金操作をしてくれる。この際、店側は手数料として5ソム(8円)くらいを定額で徴収する。3ソムの所もある。定額なので、入金額が大きいほど手数料は割安になる。

私は、大抵、一度の入金で200ソム(手数料を引かれて195ソム)を払うことにしているが、現地の人たちの入金額を見ると驚く(店の人は、依頼された番号と入金額をノートに書くので、他の人の入金額を覗くことができる)。

多くの場合、一度の入金額が20~40ソム。多い人でも50ソム。20ソムのうち手数料は5ソムだから、実に支払額のうち4分の1は手数料である。ということは、4回、20ソムの入金を繰り返せば、手数料だけで20ソム払ったことになる。そう計算すれば、少額で入金することの不経済は明らかだと思うのだが、キルギス人にとっては少額ずつ入金するほうが普通のようなのである。

「一度に200ソムも払う余裕がないのではないか?」という疑問もあるが、絶対に払えない額ではない。それに、手数料のことを考えれば、結果的に安いのはどちらかは明らかであるから、余裕がないならばなおさらまとめて多く払うべきなのである。しかし、どういう訳かそういう発想に到らないらしい。不思議で仕方ない。

2011/12/27

もうすぐ箱根

有馬記念に続いて、協力隊とは関係のないネタである。

年末の有馬記念で、年の暮れるのを確認したら、明けて正月2日は、今度は箱根駅伝である。自分の親が箱根駅伝のファンであるため、新年2日、3日の午前のテレビは箱根駅伝の中継で占められる。

自分は、第3区中継所の近くに住んでいたことがあり、2年ほど中継所近くで観戦したことがあった。

テレビ中継では、ずっとトップ集団を映しているので、その選手達を見続けているのであるが、コースの一ヶ所で見ていると、ランナーはあっと言う間に通り過ぎるのである。

大学の陸上競技では一大イベントである箱根駅伝なのだが、参加校は関東圏(山梨の大学も入っているから甲州くらいまで含まれているのか?)の大学に限られている、地方大会の一つに過ぎないのだとか。それを、ここまで全国的に注目されるスポーツイベントにしたのは、放映権を持つ某テレビ局の功績と言えるだろう。

しかし、あの演出もいい加減、止めて欲しいと思う人は少なくないと思う。OBの人気アナウンサーを沿道に立たせて、応援実況をさせるとかいうのは、相変わらずやっているんだろうか。それを見て喜ぶ視聴者が多いということか。

スポーツの番組では、試合当日に到る、或いは試合のその後の選手達の様子を扱うことが増えた。そこには、試合からだけでは知り得ない、選手や選手を取り巻くコーチ、支援者たちのドラマがあって感動する。

感動するのは確かなのだが、それは試合に勝った者だけでなく、負けた者にあるストーリーである。テレビ番組で勝者のストーリーだけを感動的に伝えるのを見ていると、「負けた側にもストーリーはあるだろ!」と、独り、突っ込みを入れたくなるのである。

【有馬記念】結果

今年の有馬記念が終わった。

一番人気オルフェーブルが快勝(したらしい。映像は見てない)。このレースで引退の決まっていた牝馬ブエナビスタは、人気の通りには順位は上がらず7着。

私の予想した馬券は、すべて当たらず…。

思い返してみると、2007年のマツリダゴッホ、2008年のアドマイヤモナークを単複(せこ~!!)で取った以降、的中からは遠ざかってますな。

仲間内では、オルフェーブルを単単(2.2倍)、トゥザグローリーを単複(7.4倍)で的中した人がいた。自分は当たりがなかったので、悔しいが、逆の立場になることもある。

さて、来年は自分は日本に帰っているわけだが、どこで、誰と有馬記念の予想をしていることだろう?(一度くらい、中山競馬場で生で見てみたいものだが)。

horses(※この写真は有馬記念の第3コーナーの模様ではありません!)

2011/12/26

動物写真

自分のパソコン内の写真データを整理していたら出てきた動物の写真をまとめて掲載。

camel

移動中の車から見たらくだ。野生のらくだなのか? カラコルの動物園では柵の中のらくだは見たが、原っぱにいるらくだを見たのは、後にも先にもこの一回のみ。

kagero

蜻蛉《かげろう》。今年10月下旬、ビシュケクのマンション内の階段の踊り場にいたところを見つけた。このマンション、私がキルギス到着直後の現地研修の間にお世話になったホームステイ先の家族が引っ越した新築の物件で、別の隊員と一緒に挨拶に行ったのであった。既に何部屋か入居して住み始めているというのに、エレベーターがまだ完成しておらず、私たちの訪問先の家族が住んでいる9階まで階段で上っていった。

内装は「高級マンション」感がアリアリで、当然、住人もかなりの高所得者だと思うのだが、その人達が階段を上り下りしているのがなんとも不釣り合いでおかしかった。まして、高層階に行くほど価格は高いはずだから尚更…。この蜻蛉の写真を見るとあのマンションを思い出す。

imomushi

今年9月、ボコンバエバ村から車で30分ほどの標高2000mあたりの山を歩いていた時に見つけた芋虫。どんな虫の幼虫なのかはまったく分からない。こういうのは、大抵、蝶とか蛾の類になるんではないのか? 成人男性の中指くらいの大きさ(と言われて、中指を立てないように!)。

 rabbit

うさぎ。この写真のうさぎは、鷹匠《たかじょう》のショー(と言ってよいのか?)のために人間が飼っているもの。野生のうさぎは、キルギスで私は2回見たことがあるが、2回とも一緒にいた人が「あ、うさぎだ!」と言うのでその方を見ると、岩陰に走って隠れていくうさぎの後ろ姿なのであった。本当に一瞬。一秒にも満たない間であった。

そういえば、今年は卯《うさぎ》年だったのね。来年は辰《たつ》年か。さすがに辰(龍、竜)の写真は撮れないと思うが、いやしかし、世の中何があるか分からんからね…。

2011/12/25

携行機材今昔 ~パソコン編~

9年前にマレーシアに持っていったパソコンに入っていたOSは「Windows XP」だった。XPの発売が2001年ということだから、当時にしてみれば最新という感じであった。

で、今、キルギスに持ってきているパソコンのOSもXP。赴任前に移動に便利な小型ノートブックを買いに行き、購入の際に家電店の店員から「VistaよりもXPのほうがサクサク動きますよ」と薦められて、XPのほうを買ったのだった。結果的に、XPにして良かったと実感している。Vistaも使っているが、XPのほうが使いやすい。

現隊員の持っているパソコンの趨勢を見ると、Vista、7が多くなっている。たまにパソコンのことで私のところに相談がくることがあるのだが、日頃使っていないせいもあって、Vista、7の設定となると覚束ないことも出てくる。動画編集に関しては、最新OSではWindowsムービーメーカーが入っておらず、Liveムービーメーカーとかいうのしか入っていないようで、これが使いづらい。

協力隊でMacを使っている人はほとんどいない。隊員は定期的に活動状況を報告することになっている。昔は紙に手書き、または刷り出した物として提出することになっていたが、今はネット通信で提出できる(というか、半強制的にそうなっている。まあ、事務処理の効率化という点では仕方が無かろう)。で、レポートの提出をするシステムがWindowsのInternet Explorer(IE)で構築されているとかで、Windows以外のOS、IE以外のブラウザではできないという状態…。Macユーザーにとっては不利なのである。よく知らないのだが、WindowsのIEでしか使えないシステムって、きょうびのネット環境で作れるものなんだな、と妙に感心したほどである。

年月が経てば当然、パソコンの基本性能もそれだけ向上している。昔のパソコンで動画編集をするとなれば大変なことであったが、今はかなり高画質な動画でも大抵は処理可能である。静止画にしたって、3MB程度のファイルを一つ開くのに数十秒かかっていた頃から考えれば、今は1秒もかからない(というか、昔、スペックの低いパソコンに無理をさせすぎていたのか?)。

拡張機能について言えば、DVビデオを取り込む際にIEEE1394という規格のコードでつないでいたが、今はなんでもUSB。デジカメのメモリーカードも、昔はコンパクトフラッシュ(CF)とか、スマートメディアとかあったが、今はほぼSDカードの一人勝ちか。CFは一眼デジカメで採用されているようだが、私は使っていないので知らぬ。

パソコンに関してはこの10年で驚くほど販売価格が下がったことも記しておこう。10年前なら、日本で使われていたパソコンの大半は日本メーカーの物だったという印象だが、今は海外の新興メーカーのパソコンのシェアが大きくなっている。かくいう私も、今、このブログを書いているパソコンは海外メーカーの物である。

パソコンに付属しているディスクドライブも、「CD読み取り→CD読み書き→DVD読み取り→DVD読み書き」と機能が向上してきた。ここ最近に赴任した隊員のノートパソコンを見たら、なんと、ついに「ブルーレイ読み取り」ドライブが付いていた。当然の成り行きだろう。

そもそも、今回、「携行機材今昔」という話題を書こうと思ったのも、同期のパラグアイ隊員のブログに、「休日に映画鑑賞をしている」とあって、見ているソフトにブルーレイディスクが含まれていたので、驚いたからであった。

私なぞはブルーレイ搭載で驚いているのだが、数年後にはそれも当たり前になっているはずで、その頃には今のパソコンにはない機能が追加されているだろう。当然、協力隊隊員が携行するパソコンもさらに高機能化していることになる。

2011/12/24

携行機材今昔 ~カメラ編~

協力隊の任期は2年である。2年間の海外生活へ旅立つにあたって、日本から携行してくる物は色々ある。その中でもカメラ、パソコンの類は、時代と共に性能がどんどん変わっている。

9年前に、一度目の協力隊参加をした時は、デジカメが概ね世に普及して、スペックの競争期に入っていた頃だったという印象がある。自分より後に赴任してくる隊員たちが持って来るカメラを見ると、画素数がどんどん上がっていっていた。私が当時使っていたデジカメは、動画は音声無しでしか撮れなかったが、もう1年後には音声付きは当たり前の世界になっていた。値段も、自分が買った時と同じ値段で、スペックは全然高い機種が変えるようになっていた。

私のマレーシア隊員時代の後半には、一眼デジカメなる物を手にしている隊員もちらほら見かけるようになっていた。某C社のe●sというシリーズが、一眼デジカメに対する消費者のハードルを一気に下げた。マレーシアは、動植物の生態調査という職種で派遣されている隊員が多く、こういう人たちの多くは写真好きであった。「写真好き」というよりも、仕事をする上で写真を撮ることは必要不可欠の側面もあるようであった。そういう訳だろうか、この連中は真っ先に一眼デジカメを使用し始めていた(例えば野鳥の観測などでは、離れた所から撮影するために、望遠レンズに交換できる一眼デジカメは便利だということだろう)。

今、周りの隊員を見ると、一眼デジカメの所有率はかなり高い。以前は、一眼デジカメは写真撮影好きの人がわざわざ買う物だったが、今や「とりあえず一眼」という感も無きしも非ずで、一眼なのにずっと「オートモード」で撮っているという人も見かけるのである。

マレーシア時代、子供たちの付き添いでプールに行き、何かの拍子にカメラに水がかぶってしまい、そのまま使えなくなってしまった。デジカメはなんて水に弱いのかと痛感したものだ。当時は防水デジカメはまだ無かったのではなかったか。あったとしても一般ユーザー用のモデルは1種くらいだったはず。今は、複数のメーカーが防水カメラを製品ラインナップに入れている。

今や、防水カメラも単に「水がかかっても大丈夫」という域ではなく、水深10m対応の機種まである。マレーシアは南国でビーチリゾートも多く、私も何度かスキューバダイビングをしたが、海中の色鮮やかな珊瑚や魚を写真に納めたいといつも思っていた。キルギスではスキューバダイビングをすることはないので、防水デジカメを購入しなかったが、もし赤道近辺で海のある国へ派遣されていたならば、10m防水のカメラを買っていたと思う。

カメラの話のついでに、ビデオカメラについても。

9年前のマレーシア時代は、ビデオはまだテープ方式だった。S●NYの8mmアナログビデオを使っている人もまだいた。私はDVフォーマットで、パソコンにデータを取り込める物を持参していたが、パソコンにデータを取り込むのも、テープを再生しながら(つまり1倍速)なので、すごい時間がかかっていた。今やハイビジョン画質の動画が、DVテープの何分の一の時間で取り込める。

ビデオカメラのほうも、当然のことながら、スペックが格段に向上しているのだが、協力隊を見渡す限り、持参率は上がっていないように思う。これはデジカメに動画撮影機能が付いているのが当たり前になっており、デジカメの他にデジビデを持ってくる必要を感じない人が多いためではないかと推察する。

2011/12/23

【2011年有馬記念】 私の予想、決定

改めて断っておくが、このブログは青年海外協力隊・キルギス隊員のもので、競馬の予想ブログではない。ただ、個人的に、毎年、有馬記念だけは勝ち馬予想をすることにしているので、それを書いてみるだけのことである。真剣に有馬記念の予想をしたい方は、私の話など聞かず、もっと専門のサイトを探されるべし。

さて、今回、私が馬券を買うとしたら、

単勝

(3)ヒルノダムール
血統の中に、おもしろい名前があったというだけ。

(11)ジャガーメイル
昨年、テレビの取材で、ジャガー横田がキルギスに来ていた。ただ、それだけの理由。

馬連

(1)ブエナビスタ-(13)レッドデイヴィス
この2頭、 ブエナビスタは今年の有馬記念では唯一の牝馬《ひんば》。にも関わらず人気投票1番という実力。レッドデイヴィスはせん馬といって去勢されたオス馬である。言ってみればオカマ馬。この2頭を組み合わせて、“おねえ系”馬券と勝手に命名。
いや、だが実際に取る可能性も高い馬券であろう。

3連

(2) ヴィクトワールピサ
(9) オルフェーブル
(10) トーセンジョーダン

(2) ヴィクトワールピサ
(10) トーセンジョーダン
(13) レッドデイヴィス

どうなんだろう。そんなに穴狙いの予想でもないんじゃないかしらん? オッズが気になるところ。

一緒に予想をしていた隊員仲間は、「1頭1頭の戦績とか調教とかを見ていると、どの馬も来そうな気がしてしまう」とつぶやいていたが、まったく同感。2日後にはこの中の1頭が優勝となっているのだが、それまではどの馬も優勝するつもりで調教している。不思議な話だ(いや、別に競馬に限ったことではないな、これは)。

それにしても、毎日・毎週、予想を立てている人たちも大勢いるのだから、博打《ギャンブル》とは言え、それはそれで大変なエネルギーである。私は年に1回で十分である。

誕生日の怪

あくまでも個人的な感じ方の問題なのだが、私は誕生日を祝うというのに、どうしても馴染めない(前にもブログに書いたかな?)。

もっと若い頃には、周囲の連中にも誕生日を祝うことの不合理さを、口角泡を飛ばす勢いで説得しようとしたこともあったが、はなから「誕生日はめでたいもの、祝うもの」と信じている者にとっては、それを疑う契機自体がないようだから、私がみっともないほどに熱弁をふるおうとも、何でそんなことを言うのかが分からない。

ということに、私もよい歳になって少しずつ気づき、もう他人を説得する馬鹿はしないようになった。私自身が誕生日を祝うことに付き合わなければ良いだけのことだ(誕生日を祝いたい人たちにしてみれば、さぞかし随分と不愉快で迷惑な話であったろう)。

まあ、そんな訳で「誕生日祝い」というものには、何で世の人々がそんなにそれをしたがるのか、ということ以外にはまったく興味がない私なのであるが、最近、ちょっと気になったのが、誕生日祝いというのは、誕生日の前後どれくらいの日付の範囲で行われるのかということ。

まあ、友人・知人が集まって祝うというなら、祝われる当人の誕生日に一番近い週末で日程を組むのが一般的か。誕生日当日ではないが、皆が出席しやすいようにするには妥当なやり方であろう。でも、一番近い週末で都合が悪ければどうするだろう? 次に近い週末とかで調整するしかないのだろうなぁ。それも仕方あるまい。

でも、その第2候補の日も都合が悪ければどうしよう? さらに次に近い週末、あるいは出席予定者が集まれる最大公約数で平日に集まるか…。

まあ、そんな風に日程がどんどんと誕生日当日から離れていったと仮定しよう。ついに、前後4週間では都合が付かず、5~6週ずれた日程でみんなが集まって、やっと一件落着。

いや、それで一件落着だと言うなら、極端な話、2~3ヶ月ずらすのも有りいうことにならないのか? 誕生日当日の364日前、あるいは後の日に誕生日祝いをするというのは如何なのか?

「何のためにもならん話を延々と…」と呆れられているだろう。Ukulele chanは正気じゃないぞ、と。しかし、ごくたまに、「そんなスケジュールってあり?」というほど誕生日当日から離れた日程で祝いをしている人たちがいるので、私のような者でさえ、逆に集っている人たちの正気さ加減を心配してしまうのである。

まあ、私は、誕生日祝いを名目にして人々が集まることには、まったく非難めいた思いは無いのだ。ただ、名目なら名目で、それが許される一定の範囲というのもあるはずだと思う。いや、私の知らないところで、世間の人たちの誕生日祝いのやり方が変わってきているのかな…?

(蛇足ながら、今回のタイトルは「誕生日会」と「誕生日の怪」をかけた駄洒落也)。

2011/12/22

キルギスのリス

10月に撮った写真だが、ビシュケク市内で見かけたリスである。

squirrel

こういうリスは、北海道にいるのと似ているのではないか? エゾリスというのかな? マンガやアニメに出てくるシマリスとは違う種類である(「シマリス」と言えば、いがらしみきおの『ぼのぼの』。「いじめる?」のシマリスくん)。

手元にある電子辞書の『大辞泉』にはニホンリスの写真が載っていたが、これも上の写真のリスと似ているように見える。ということは、エゾリス、ニホンリスも同系統のリスなのか? シマリスは日本の固有種じゃないようだ。

私が住んでいるボコンバエバ村周辺ではリスを見たことがない。ビシュケク以外では、イシククル湖北岸のチョルポンアタ(Чолпон Ата)という避暑地で有名な町で見ただけである。

ところでリスは冬眠するのかしらん? 雪の積もったビシュケクやチョルポンアタの木の枝をリスたちは今も飛び移っているなら、見てみたいものだ。

2011/12/21

初雪

昨日(12月20日)、ボコンバエバ村にこの冬の初雪が降った。

snow1

首都ビシュケクなど、他の地域は1ヶ月半も前に雪が降っていたが、イシククル湖沿岸は雪が少ないのだ。ボコンバエバ村で雪が降るのも年に数回だと言う。

レーニンの胸像にも雪がかぶっていた。この写真、私のお気に入りの一枚になりそう。

snow2

2011/12/20

ニュース速報と短波ラジオ

キルギス協力隊とは直接関係ないので、大袈裟に取り上げるつもりはないが、昨日はある国の国家元首の死去が大きなニュースになっていた日であった。

昨日の朝、出がけに短波ラジオで日本時間正午12時のニュースを聞いていたら、「ただいま入ったニュースです…」と臨時ニュースが入って、他のニュースがすべてぶっ飛んでそのニュースのみを伝える内容になっていた。

「北」と呼ばれるあの国に関しては、今日のニュースを短波ラジオで聞いて、個人的に思い出すことがあった。

2002年に当時の日本の首相が「北」を訪れ、かねてから疑惑のあった日本人拉致をあの国が認めた、というビッグニュースがあった。その時、私はマレーシアで一度目の協力隊生活を始めたばかりの頃であったが、たまたま買ったばかりの短波ラジオでそのニュースの速報に触れて驚いた(拉致問題はそのまま一気に解決になるのかと期待していたが、大きな進展はないまま今日にいたってしまっている)。

もう一つ、短波ラジオで驚いて聞いたニュースは今年3月11日の東日本大震災である。当日は被害状況も詳《つまびら》かには伝わってこず、家族・知人の安否を心配しながらラジオを聞いていた。

昨日のニュースは、大きなニュースだとは思うが、個人的には上記2つほどではなかった。

2011/12/19

乗り物運賃

最近、首都ビシュケクに行く用事があり、マルシュルトカで移動した。300kmの距離を4時間弱の移動で運賃250ソム(約440円)。

マルシュルトカはコースが決まっているから、どこか適当なところで降りて、そこから宿(ビシュケク在住の隊員宅)までバス、タクシー、あるいはビシュケク市内マルシュを使って移動することになる。

驚くのは、村から首都まで4時間弱乗って250ソムの運賃なのに、市内でタクシーに乗ったら15分で200ソムであることだ。村から首都までマルシュではなく、タクシーを使ったとしても最大400ソム(季節によって変動)であるから、ビシュケク市内のタクシーがいかに高いかが分かるだろう。

村の感覚でいったらそうしょっちゅうタクシーに乗れるものではないが、首都ではタクシーが何百台と走り回って、客も乗っているのだから、やはり首都の住民は所得が高いということか。都市部と地方では、かなりの所得格差が存在するということだろう。

2011/12/18

ドゥンガン・モスク

キルギスのイシククル州の州都カラコルという町に、「ドゥンガン・モスク」と呼ばれるイスラム教のモスクがある。「ドゥンガン」とは、中華系のイスラム教徒のことで、キルギス国内にも在住している(ウィキペディア「ドンガン人」の項)。私なども、ロシア語もキルギス語もたどたどしく話しているのを聞いて、「お前、ドゥンガンか?」と尋ねられたことが何度かある。

カラコルにあるドゥンガン・モスクは、中華系の人が建てた物なので、キルギス人の一般的なモスクと建築様式が大きく異なる。

キルギス人モスクは下の写真のような感じである。

kyrgyz_mosque

キルギス人モスクについても、私がマレーシア隊員時代に現地で見たモスクと様式が違うので、別に取り上げたいとかねてから思っているが、とりあえず今回は対比のための参考として写真を載せておく。

さて、ドゥンガン・モスクのほうはというと、

Dungan_Mosque

こんな感じである。キルギス人モスクが土壁であるのに対し、こちらは木造建築。

Dungan_Mosque4

全体の景観、細部にわたる彫刻の施し方などを見ると、仏教寺院のようにも見えてくる。このあたりは、ドゥンガン人が漢族などの影響を受けているためではないかと思われる。

しかし、この建物がやはりイスラム教のモスクであることを示す物もあった。

Dungan_Mosque3 
(信者に礼拝を呼びかけるアザーンを放送するための塔「ミナレット」)

Dungan_Mosque5
(礼拝堂入り口に掲げられた、一日5回の礼拝の時刻を示す時計)

私たちがこのモスクを見学させてもらったのは13:15頃で、上の時計を見ればわかるように、13:30からの礼拝の間際だったため、礼拝のためにムスリムの男達がモスクに集まりはじめていた時間であった。

一番興味深かったのは、礼拝堂を案内してくれた年輩の男性が話すのを聞いて、一緒に行った協力隊隊員の一人がウズベク語なまりがあると気付いて、「どこから来たのですか?」と聞いたら、バトケン州というウズベキスタンとの国境付近のほうから来た人であったことだ。ドゥンガン人が建てたモスクであるが、今はドゥンガン人以外のムスリムも礼拝する場になっている(もちろん、他の地域のモスクでも、現地出身以外のムスリムは礼拝できるし、イスラム教以外の宗教でも基本的には同じだと思う)。

2011/12/17

寒い日に潜む危険

キルギスの緯度は北海道と同じくらいだから、冬は寒いのは当然である。ここのところ、一層冷え込んだ感じがする。室内は多少なりとも暖房をつけていて暖かいので、薄着で過ごしていたりもするのだが、油断してそのまま外に出る(例えば、トイレに行く時)と、えらい目にあう。

室内から外へ出た際、その温度差で後頭部のあたりがキーンと痛む時がある。あれは血管が急速に収縮しているせいなのか? 「ああ、冬場の脳梗塞とかって、こういうふうに起こるんだろうな」と恐怖を感じつつ、かき氷を食べた時のこめかみの痛みにも似た感覚に耐える。

風邪への対策は暖かくするのが基本であるが、私のホームステイ先、配属先の職場を含め、多くの場所で暖房器具が電気式の物であるので、停電になると暖房が使えなくなるのが困る。昔は石炭や薪を焚いて暖を取っていたはずだが、私の周りでは電気式暖房器の使用のほうが多いように見受ける。

日本でも、北国の住人なら常識なんだと思われるが、大気が冷え込んでいる時には息を吸い込むのにも注意が必要だ。一気に吸い込むと、肺が冷気でやられてしまう。実際に「やられて」しまったことはないが、吸い込んだ途端にむせ返ることはある。寒い時は、息は口をすぼめ加減にしてゆっくり吸い込む、あるいはマフラーのような物で口を被って、外気を直接吸い込まないようにする。

気温が氷点下になっているような時、しばしば私がやってしまう失敗が、鉄製門扉を開けようとして、取っ手を素手で握ってしまうこと。今回書いた中では「やばい」と思う事態ナンバーワンだ。冷凍庫から氷を出そうとつかんだ時、指が氷に張りついてしまう経験は誰にでもあると思うが、まさにあの状態なのである。

私のいる村はマイナス5度程度までの冷え込みだから、そう危なくはないが、マイナス10度くらいまで下がる地域ならば、焦って取っ手から手を放そうとすれば、手の皮が剥がれてしまうこともあるのではないか、と恐ろしい想像をしてしまうのである。この時季、素手で外出してはいかんのだ。手袋は必需品である(村人は素手の人もよく見かけるが…)。

monpi 
(寒い日の鉄門扉には注意)

2011/12/16

ユルタの骨組み

「юрта /ユルタ/」は遊牧民が住居として使う天幕(テント)のロシア語名。キルギス語では「ボズ・ウイ」。

草原の中のユルタ

この写真ではわかりにくいが、外側のカバーは羊毛から作ったフェルトのシートである。灰色がかっている。キルギス語のボズ・ウイは、「ボズ(灰色)」の「ウイ(家)」という意味だが、このカバーの灰色から来た名称であろう。

ユルタ(ボズ・ウイ)の写真は、モンゴルの草原が写った絵葉書なんかで見たことがある人も多かろう。ではさて、このカバーを外した内側はどうなっているのかはご存知だろうか?

ユルタの骨組み

このようになっている。これがユルタの骨組みである。すべて木で、パーツはかなり細かいところまで分解できる。なにせ、遊牧民はこれを建てては畳み、移動してはまた建てる、という生活であるから、持ち運びの便が考えられている。そうは言っても、大きい物だから移動するのは大変には違いない。

キルギスから日本へ帰る時の土産にしたい物の一つがユルタであるが、これを輸送するのは只事ではない。金がかかる。一度、日本でユルタが建っているのを見たことがある。砂利敷きの駐車場に建てられていて、そこでラーメン屋が営まれていたのである。こんな変わったラーメン屋は日本に一つしかない(今も営業しているのかは不明)だろうから、これ以上書かずとも、特定しようと思えばすぐに特定できるはずである。

ここのラーメン屋で「さくらラーメン」というのがあって、どんなものかと興味をそそられて食べてみたら、これが馬肉(=桜肉)を使っていて、おそらくスープも馬の骨で取ったラーメンであった。ひどく不味いと感じる味であったが、あれはその店の調理の仕方が悪かったのか、それとも私が馬のスープを食べ慣れていないから不味いと感じたのか…。

ちなみにキルギスでは馬肉は高級食材であり、滅多に口にすることがない。

2011/12/15

もうすぐ有馬記念

最初にお断りしておくが、このブログは青年海外協力隊でキルギスに来ている者が、現地での生活の様子などを書いているものである。まずあり得ないと思うが、まかり間違って、「有馬記念」とネット検索した結果、今これを読んでいる方、ここには有馬記念の馬券予想に参考になることはまったく書いていないので、あしからず。

青年海外協力隊のブログを読むつもりでこれを読んでいる方も、「協力隊と競馬に、何の関係があるんかな?」と思っていると察するが、それについても申し上げるが、青年海外協力隊と競馬には何の関係もない

じゃあ、何なのか? 単に個人の趣味の話をするだけである。

と言っても、私は競馬愛好家ではない。ただ、一年に一度、有馬記念だけは予想する習慣が付いてしまっているのである。普段から勝ち馬予想の研究をしている訳ではないから、馬の良し悪し、騎手の力量、コースの特徴、天候による影響など、まったく分からん。外食1回分程度の金額内で、でたらめに買っているだけである(競馬愛好家からは嫌われるタイプであろう)。

でたらめとは言いながら、有馬記念の時だけは、出走馬の今年の活躍を見たり、スポーツ新聞の予想記事を読んだりして、「フムフム、今年は荒れそうだな」とか「やっぱディープを軸でいくしかないな」とか、通ぶったことをほざきつつ、過ぎゆく年の暮れを感じ、前年の今頃は何をしていたかなと思いを馳せるのである。私にとっては、有馬記念は暦の節目を感じるための年中行事になっている。

以前勤務していた職場では、競馬の「け」の字も知らぬ若いスタッフに、単勝・複勝、馬番・枠番、単式・複式などという、知らなくてもよろしい専門用語を注入し、有馬記念の予想に巻き込み、だめな大人への洗礼を施したものであった。

そして、今年は、キルギスの隊員を巻き込んで、有馬記念予想を楽しもうという算段。今年の有馬記念は12月25日開催である。

2011/12/14

帰国後に会えない…

もう間もなく21年度3次隊の隊員たちが任期を終了する。その3ヶ月後に21年度4次隊が任期終了・帰国。そして私が派遣された22年度1次隊もその3ヶ月後に任期終了である。

キルギス22年度1次隊は、派遣国の政情不安が落ち着くのを待ち、1ヶ月遅れでキルギスへ渡航したので、任期終了も1ヶ月あとにずれる。青年海外協力隊は、帰国後にJICA本部にて2年間の活動を報告するのだが、その時、他の国へ派遣されていた同期隊員と2年ぶりに会うのが楽しみの一つなのである。しかし、1ヶ月ずれて帰国する我々キルギス隊は同期隊員と会えない。

それを残念に思っている。

物価記録(2011年12月)

2011年12月、最近の物価の記録。

商品 現地価格(som) 日本円概算
生トマト(1kg) 120 210
生きゅうり(1kg) 140 245
塩漬けパプリカ(1kg) 9 16
コンセント交換プラグ 30 53
パン 30 53
サムサ(羊肉) 25 44
サムサ(じゃがいも) 15 26
牛肉(300g) 98 172
板チョコ 57 100
歯ブラシ(2本セット) 100 175
歯ブラシ(1本) 80 140
マルシュ(ボコンバエバーカラコル間) 120 210
DVD+R 4.7GB(1枚) 10 17
CD/DVD入れる袋(1枚) 1 2

「パン」は日本の食パンとは異なる。パン生地を幅30cmくらいの円形、または四角形に整えてオーブンで焼いたもの。

「サムサ」は肉、野菜を具にしたパイ。

「マルシュ」はмаршрутка /マルシュルートカ/ のこと。乗り合いバス、または大きめのワゴンという感じの車。キルギス人の移動の足。ボコンバエバーカラコル間は200km弱くらいかな…

冬場は生野菜が高騰している。トマト、きゅうり共に、夏場は1kgあたり20ソム程度で買えていたと記憶しているが、5倍以上の値段になっている! これは、野菜のハウス栽培はされていないために、夏野菜を冬場に作ることはできないこと、生鮮食品の保存設備がないことなどが理由だと思う。

CDやDVDを入れる袋(プラスチック素材でペラペラの物)までリストに書いた。こんな記録を公表していると、自分が何を買っているを話しているようなものだ。まあ実際には、値段を見ただけで、自分では買っていない物も入っているが。

2011/12/11

Лунное Затмение

В 10е декабря 2011 года, было лунное затмение. Я его смотрели в городе Каракола.

Народ кыгызов не выглядит интересоваться. Только официантки, которые работают в кафе, в котором мы с друзьям садили, интересовались, потому что мы снова и снова ушли на улицу.

В этом раз, лунное заимение было полное. Значит вся луна скрылась в тени Земли.

eclipase1
(18:59, 11/12/2011)

eclipase2
(19:27, 11/12/2011)

eclipase3
(19:58, 11/12/2011)


google map

2011/12/09

短波放送の番組

相変わらず短波放送を聴いている。

短波放送の電波は、その時々の気象条件によって到達距離(?)が変わるらしく、昨日はっきりと聞こえていた時間帯でも、今日はよく聞こえないこともある。

また、時間帯によっては、近い周波数で別の短波放送が流れていることもあるので、混線気味になることもある。特に、キルギスは国境を接していることもあるのだろうか、中国語(と思われる。中国語の中にもいくつもの主要語があるらしいが、そこまでの聞き分けはできない)の放送が目立つ。

いやしかし、日本において短波ラジオのダイヤルを回したら、日本語の放送がたくさん入ってくるということはないから、そもそもの話、中国では短波のラジオ放送局が多いのだろうと推測される。これはキルギスでも同じで、日本では主流の中波(AM)放送帯でダイヤルを回しても、あまり放送がないようなのである。その代わり、短波放送帯だといくつもキルギス語らしき放送(「らしき」というのは、隣国カザフスタンのカザフ語がキルギス語と方言同士のような言葉であるため、私がカザフ語をキルギス語と思っている可能性もあるためである)はいくつも入ってくる。

勝手な想像だが、短波放送は伝達距離が中波放送より長いので、その分だけ電波送信所、中継所が少なくて済むので、設備投資は少なく、かつ広域に番組を届けられるので、このあたりの地域では短波放送局のほうが多いのではないか。なお、ちゃんと確かめていないが、どうもFM(超短波)放送と両方で放送している局もあるようだ。

そんなこんなで放送電波の状態は一定ではないのだが、聞き続けていれば、どの時間帯が日本語放送が聞こえやすいかの傾向が分かってくる。その時間帯は雑音、混線が少なく、ストレスがないので、必然、そういう時間にラジオを付けることが多くなっている。

それにしても、最近、NHKのラジオ番組の雰囲気はだいぶ変わったなぁ。そんなふうに感じるのは、自分が歳をとった証拠なのかも知れないが、アニメ声優の番組なんかもあって、ちょっと民放局のノリに近くなってしまっている。最後の砦はラジオ第2放送だな…

2011/12/08

無くては困る物?

ボコンバエバ村に赴任し、生活をし始めた時、村の商店のどこにもティッシュペーパーが売っていないことを知り、困惑したことを思い出す。

途上国とは言え、首都ビシュケクではスーパーマーケットなどで普通にボックスティッシュ、ポケットティッシュは売られていたので、どこでも普通に購入可能な物だと高をくくったのだが、ボコンバエバ村ではそうではなかった。ビシュケクで買ってあったポケットティッシュを店員に見せながら「こういうのある?」と、何軒もの店を訊いて回ったがいずこも「ニェット(無いよ)」との返事。

「こういうのならあるよ」と示されたのはウェットティッシュであった。なぜかウェットティッシュは複数の店で置いてあった。さらに、赤ん坊の尻を拭くための大きいサイズのウェットティッシュも置いてある店もあり、洟《はな》をかむ用のティッシュは無いのに、ウェットティッシュはたくさんあるのが、順序が逆のような気がしたものだ。

村ではティッシュが買えないので、首都へ用事で出かけた時に、ティッシュを買い込んでくることで、とりあえずティッシュ確保の問題はなくなった。が、しかし、そもそも村人たちはティッシュが無くて困らないのだろうか? どうやって洟をかむのか?

“キルギス人は洟をかまないのか”とも想像しつつ村で生活しているうちに、村人たちが鼻をかむのを見る機会があった。もちろんティッシュペーパーは使っていない。ではどうやって? 何を使って?

手洟《てばな》をかむ、というやつである。

手の指で片方の鼻孔を押さえ、顔をちょっと前に突きだしてから、思い切り押さえていないほうの鼻孔から息を出す(顔を突き出すのは、洟汁が己れにかからぬようにするためであるのは説明するまでもない)。鼻を押さえる時は、親指を用いると様になる。これも手に洟汁がかからないようにするためには必然のスタイルなのだ。

なるほど、この方法ならばティッシュペーパーは要らぬ。洟はティッシュペーパーでかむものだという固定観念があると、こんな原始的な所作でさえ思いつくことが出来なくなってしまうものなのかと、自分の愚かさを恥じた。

しかし、これと似た話はいくらでもある。象徴的だったのは、東日本大震災が発生後、人々がトイレットペーパーの買いだめに走ったという現象ではないか。“尻はトイレットペーパーで拭く”という普段の習慣が、そのまま固定観念となり、“トイレットペーパーがなければ尻が拭けない”という強迫観念になる。

考えてみれば、トイレットペーパーが無かろうが、用便後の尻の世話なんて、いくらでもやり方があるはずだ。途上国の生活は、そういう場面で参考になることが多い。トイレのことも、近く書きたいと思う。

トーストを食べない

休日、同じ村の隊員とカフェで食事をしていたか何かの時、“日本に帰って食べたい物”という、本当に何の役にも立たない、しかし協力隊の任期中に何度もしてしまう馬鹿な話をしていた。

もちろん、寿司だとか、刺身、天丼、カツ丼、鰻重、等々、海外生活者にとっては定番の日本の食べ物が出ていた中で、一人が「トーストしたパンを食べたい」と言ったので、いささか不思議に思った。なにせ、キルギスでは毎食必ずパンは出ているのだから、いまさら「パンが食べたい」というのもおかしな感じなのである。

だが、よくよく考えてみると「トーストしたパン」というのは、確かにキルギスの食卓では見ない。

パンは、ほとんどの家で、その家にいる女性が焼いている。そして、食事の時はパンは欠かせない。日本人にとっての米飯とほぼ同じ感覚だと思う。しかし、そのパンをさらに火であぶって(トーストして)食べるのは、キルギス人に限っては見たことがないのである(確か、首都ビシュケクのホテルでは、モーニングのバイキングに、トースターが置いてあったような気もするが、記憶が定かでない)。

これだけパンを食べる文化であっても、パンの食べ方のバリエーションは多くないのであろうか? このあたり、都市部と村落部での違いもあるかも知れない。首都ではトーストして食べるキルギス人家庭もあるのかも知れない(ただし、渡航後最初の1ヶ月ホームステイさせてもらったキルギス人家庭でも、パンはトーストしていなかった)。

それにしても、他人というのは、私が気付かぬことも感じたり思ったりしているものだ。他の隊員から「帰国したらトーストが食べたい」と言われるまで、私はキルギス人がトーストを食べないことに気付かなかった。

2011/12/06

キルギスで見つけたチェブラーシカグッズ

日本でも有名になったソ連時代の人形アニメーションのキャラクター。あのキャラクターの絵が描かれた商品を見つけたので買った。

soap

この写真からだけでは大きさも分からないから、チョコレートなどの菓子の包装ようにも見えるかも知れないし、あるいは枕くらいの大きさの物が包まれているようにも見えるかも知れない。

ロシア語が読める人なら”ДЕИСКОЕ МЫЛО”と書いてあるので分かると思うが、これは「子供用石鹸」と書かれているのである。子供向けアニメのキャラだから、子供用商品のイメージに使われるのは普通と言えば普通のことだが、でも、ソ連時代にもこの手のキャラクター商品はあったのかしらん?

私は、アニメ作品としての「チェブラーシカ」は、何年か前にDVDを買って観ていた。ロシア語はキルギスへ来ると決まるまでは勉強していなかったので、当時はロシア語は分からず、吹き替えか日本語字幕で観ていた。

ロシア語の短期訓練が終わって、久しぶりに「チェブラーシカ」を観てみて、画面に出てきているロシア語(зоопарк = 動物園、ремонт = 修理、修理中、など)が読めたのは嬉しかった。こうして学習したことの成果を確認できることは、語学学習を続ける上では大切なことである。

「チェブラーシカ」は子供向けアニメだから、言葉遣いもやさしいものになっている。だから、ロシア語の入門書を終えた程度で、結構、表現が理解できる。それでも、まだすべては分からない私なのではあるが…

2011/12/04

もう見ない風景

協力隊の任期は2年である。私は2010年7月にキルギスに来て、2012年7月に帰国する。任期での2年目もすでに4ヶ月が過ぎた。

その国、地域のことを知らずに来るわけだから、最初の1年目は多くのことが初めて見聞きすることである。1年に1回、その時季に行われる地域の行事は、隊員は多くても2回しか見られないことになる。

2年目に入ってそういう行事を観覧していると、「ああ、来年のこの行事を、自分はもう見ることはないんだな」と思う。来年の今頃はおそらく日本にいるはずだ。キルギスでこの行事を見ることは、おそらく、もう生涯ないだろう。ちょっと寂しい気持ちになりながら、目の前で行われていることがすごく貴重な一コマであるように感じられてくる。

これは行事だけに限らない。季節の移ろいもまた同じように感じらる。ポプラなどの街路樹が一斉に紅葉(ポプラは黄色になるが)し、葉を落とし、村から緑が減り、剥き出しになった枝と舗装されていない道の茶ばんだ印象の景色。なんとなく心を沈ませる色合いの冬の村の様子も、次の春が来たら、もう私は二度と見ることがない。

winter_scene
(落葉した樹木、冠雪した山々)

Bishkek_winter_street
(ビシュケクの冬景色)

そんなことを考えると、一つひとつの風景、出来事がすべてもう取り返すことのできない貴重なもののようにも思える。そう思ったからといって、時間を大事に使うようになっている訳でもない。ただ、来年の同じ時季には自分がここにいないこと、自分がいなくてもこの国、この村の人々は同じように生活し、景色も同じように季節を迎えるということ、それがなんとなく不思議な心持ちにさせるのである。

lunch_party (国際障害者の日にちなんだパーティー。来年は見ることはない。)

2011/12/03

オリオン座

夜、トイレに行った際、星が良く見えていたので、今日なら星座が写せるかもと思い、撮影にチャレンジ。

オリオン座の撮影ができた。

orion(クリックで大きな画像を表示)

星の撮影は露出時間を長くしなければならない。1枚撮影するのにも30~40秒くらいはかかる。冬場の星撮影は、寒さとの勝負である。

2011/12/02

キルギス、新大統領就任

10月に行なわれた大統領選挙で当選したアタンバエフ氏が、12月1日に新大統領に就任した。

Almazbek Atambayev comes into office of the President of Kyrgyzstan

自分が分かるところだけ読んで理解したところでは、「アタンバエフが新大統領に就任した。神と国の前で、法律に基づいてこの国を良く導くことを宣誓した」「オトンバエフ前大統領は“新大統領が公平かつ誠実に働くことを信じている。我々は、キルギスの歴史において特筆すべき時を目撃している。我々は自分たちでこれからの方向を選んだ。この新しい政治的習慣が続いていくことを望んでいると語った」というところだろうか。

もう退任されたので書くが、前大統領のオトンバエバさん、個人的には日本のお笑い芸人ハ●センボンのは●なに似ていると、キルギスの隊員仲間にはずっと主張していたのだった。「言われてみれば」と賛同(?)する人も多かった。ネットで写真はすぐに探せるので、興味があればご覧あれ。

顔が誰に似ているかは別にして、中央アジア初の女性大統領であり、2010年の革命で当時の大統領失脚後から民主的な選挙による次の大統領への引き継ぎまで、きちんと仕事をしたと言えるのではないか。キルギスの周辺国が軒並み独裁色の強い政権運営をしているのに比べると、この国は特異な存在である。

同期の隊員と電話で話していたら、今日の新大統領就任のテレビ中継を見て、職場のおばちゃんが泣いていたそうである。2代続いて大統領の汚職→革命勃発→失脚という状況があり、オトンバエバ前大統領から選挙で選ばれたアタンバエフ新大統領の就任となり、この国の人にとっては感慨深いものがあるのだろう。

多少なりともキルギスに関わった者として、アタンバエフ新大統領がどのように国を導いていくのか見ていきたい。任期は6年で再選は不可。

2011/12/01

サンスクリット語から来たロシア語

呉智英(くれ ともふさ)著、『つぎはぎ仏教入門』(2011年、筑摩書房)を読んだ。

もともと、私は呉智英氏のファンであるが、この本も呉氏らしい視点・批評で日本の仏教について書かれていて、勉強になる本であった。

この本の中(p.40)にロシア語の話が出ていて、呉氏の博識ぶりにあらためて驚くと同時に、ロシア語の勉強になった。

ロシア語で「目覚めさせる」を表す言葉にбудить /ブディーチ/ というのがあるが、この言葉の語源はサンクリット語であり、仏陀《ぶっだ》、すなわち「目覚めた者」と語源を共にする言葉なのだそうだ。

(ちなみに、仏陀は人の名ではない。釈迦という名の人が、すべてのことを覚《さと》ったことで、「仏陀 = 目覚めた者」になったのである。)

前に、僧侶を表す「ぼうさん」が日本からポルトガルあたりを経て、ロシア語に入りбонза /ボンザ/ になったという話を当ブログ(2011.5.9「ボンズ頭」)で書いたが、ここにもまた仏教にゆかりのある語があったわけである。

外来語の中には語源から派生した末にニュアンスがかなり変わってしまうものもまま見かける。例えば、パビリオン(ロシア語でもповильон /パヴィリオン/。英語、仏語ではpavilion)の語源は「蝶」を表すラテン語なのだという。英語にpapilionid(アゲハチョウ)というのがある。そこから、蝶が翅《はね》を広げた形に似ているということで「テント、天幕」に転化し、今は「展示館」という意味で使われている。

それに比べるとбудитьは語源のニュアンスを残したままロシア語に定着した語ではないかと思われる。ただし、サンスクリット語の原語(bodhi)の意味は「目覚めること」であるが、ロシア語будитьは「目覚めさせる」と他動詞になっている点については、語のニュアンスが変わっているように思う。

さらにбудитьから派生したбудильник /ブディーリニク/ は「目覚まし時計」である。これはご愛敬という感じである。ロシア人たちも、まさか自分たちが朝起きる時に使う道具が、サンスクリット語起源の名称であるとは思い到るまい。

2011/11/30

潤む星影

夏より冬のほうが星がよく見えるのだと習ったと思う。多分、大気の温度の違いによって、光の透過度が変わるとか、そういうことなんじゃないかと素人考えで理解している。

キルギスでは、こちらにしてみればまだ冬本番と呼ぶにはあたらないとはいえ、関東出身の私にしてみれば十分に冬になっている(ちなみに、北海道にも在住経験がある。あの寒さと比べれば私がいる地域は、暖かいということになるが…)。

そんな寒さの到来したキルギス、ボコンバエバ村なので、星空はさぞきれいだろうから、天体観測も楽しいだろうと思っていたが、さにあらず。

一つには、以前にも書いたが、あまりの寒さに、家の外に出て5分も空を見上げているというのがしんどいのである。天体観測ファンは、そういうことも見越して、防寒の態勢も整えて観測に望むのだろうが、私にはそこまでの真剣さはないので、この時期の天体観測は億劫だと感じてしまう。

もう一つ、天体観測が楽しくない理由は、寒さが増して星がよく見えるようになると思っていたのに、むしろ夏場よりも星が見えづらくなっているのである。

ここ最近の天候は、雲がかかっている日が多く、日中でもどんよりしている。夜、そのまま雲が晴れなければ、当然、星は見えない。

だが、雲が晴れている夜でも、夏の時季よりも見える星が少ない。これ如何に? 星座の配置が変わって、今の時季は見える星が少ないのか? そんなことはあるまい。

夏場よりも星が見えないことを不思議に思っていたのだが、夜、トイレに行く際、隣家の家の煙突から煙が上がっているのを見て気付いた。

冬場は各家庭で石炭・薪を焚く煙が出て、大気が霞んでいる、のだ。

これなら冬場に星が見えづらいことが説明がつく。夏場も、炊事や風呂で薪を焚くことはあるが、冬場はそれに加えて暖房用にも焚く。しかもこの場合は石炭を使う家もある。現在は電気ストーブ、電気ヒーターを使っている家もしばしば見かけるが、それでも全家庭がそういうのを使っている訳ではない。ペチカ(ロシア語で「暖炉」)で石炭・薪を焚いている家もたくさんある。

と、勝手な観察と解釈で、新たな発見をしたのである。だが、それにしたって、日本の町で見るよりは全然たくさんの星が見えているだけれどね。

2011/11/29

本職の料理隊員

現在、キルギスの協力隊の中にはいないが、マレーシアに派遣されていた頃、先輩の中に職種「料理」という隊員がいた。
どんな活動をしているのかと不思議に思って尋ねると、現地の調理師専門学校に配属されて、そこで調理に関する授業を行っていると言っていた。
どんな授業をしているのか詳しく聞いたと思うのだが、多くは忘れてしまった。記憶に残っている話として、ホテルのパーティーなどに供される料理の盛りつけなんかも教えると言っていたこと。
何かの式典でテーブルに並べられた料理皿を見て、私が「あ、サーモンがありますね」と言ったら、「ああ、あれはね、サーモンのように見えるけど、多分にんじんですよ」と料理隊員が話したので、それをつまみ上げて見ると、果たしてそれはそれらしく切って盛りつけたられたにんじんであった。
こちらは趣味の料理隊員ではなく、本職の料理隊員なのであった。協力隊というのは、さまざまな職種の連中が集まってくるので、自分の知らぬ業界の裏話や、仕事の工夫点などを聞けるというのも魅力の一つだと私は思っている。

「料理隊員」なる存在

青年海外協力隊の隊員は、それぞれ活動にあたっての職種がある。仕組みとしては、途上国の側からの「これこれこういう仕事ができる人、何々についての知識・経験がある人にボランティアで来てほしい」という要請が出され、その要請に関する職種に対して、JICAが日本でボランティアの募集・採用を行った後、当該国にボランティアが派遣される。
私の職種は「養護」となる。JICAが募集している協力隊の職種については、ネットで確認できるので、関心があれば一度ご覧になってみると良い。
隊員一人ひとりは、それぞれに職種があるのだが、その中に「料理」隊員と呼ばれる隊員が存在する。協力隊の職種の中に「料理」というのがあるのだが、ここで言う料理隊員とは公式な職種ではなく、非公式な職種である。単純に言えば「料理が得意な人」のことである。
私の協力隊での経験、また見聞した所では、協力隊あるところに料理隊員は必ずいる。
料理隊員の中には、日本で本当にプロとして料理屋で働いていた人もいるが、そうでない人でも趣味の延長で料理を得意とする人は多数存在する。これらの料理隊員が、隊員仲間での家飲み会で大活躍するのである。どこの派遣国においても、料理隊員は貴重な存在であると断言できる。
私もたまに隊員同士の集まりで台所に立つことがあるが、私の場合は「料理隊員」ではなく「料理好き隊員」であって、味や出来ばえの保証は何もない。ままごとの延長みたいなものである。だが、真の料理隊員の作る物は皆を本当に満足させる。料理隊員には本当に感謝感謝である。
料理が得意な隊員がいるということは、当然ながら料理を得意としない隊員もいる。そういう人は料理を避ける傾向にあるようだが、それはそれで仕方がない。誰にでも向き不向きがある。
料理苦手隊員は飲み会の時どうするか。飲み会には料理を作る他にも仕事があり、料理をしない人は「皿洗い隊員」となる。皿洗いも苦手な場合、「買い出し隊員」として活躍する道が残っている。動くのも苦手(億劫なだけか…)な人は、最後は「飲み食べ隊員」として、料理隊員が出してくれたものをおいしく食べるのみである。
食べるだけの人はちょっとずるいようにも思われるかも知れないが、出された料理をおいしくいただくというのも芸のひとつである。おいしく食べる人がいるからこそ、料理隊員がまた次回にも頑張ろうという気になるところもある。
katsudon
(料理隊員が作ったカツ丼。キルギスにある食材で
おいしい日本食を作るのも料理隊員の腕の見せ所。)

2011/11/28

数年後の日本から、今の日本はどう見えるのか?

ここ最近の、日本の政治に関することで私が関心を持っているのは、TPP参加問題と大阪府知事・市長選挙の二つであった。そのうちの一つ、大阪ダブル選挙が、27日に投開票が行われ、既に結果が報道されている。

私たちは今生きている時代、生活状況の中で、色々な思いを持って投票をし、政治の方向性を選択している。いや政治に限らず、色々なことについて大小様々の選択をしている。

その時々には、それが自分たちの望むものに近づくベターな選択だと信じて選ぶのだが、後になって、その選択が自分たちに禍《わざわい》をもたらすこともある。

思えば、7~8年前に郵政民営化などの「構造改革」を唱道する宰相に、国民が熱狂し(あれは確かに熱狂、フィーバーだったと思う)、高い内閣支持率の下で国の制度が大きく変わった。「民営化」「構造改革」というキーワードは、市場の競争原理をさまざまな領域に拡大流布させることで、行政や諸々の公共サービスが効率化され、サービス料金の値下げ、優良事業者の選別(劣悪事業者の駆逐)が進むと期待された。

私が身を置いていた福祉業界や、また医療業界も、競争原理の中で、サービスの効率化と費用の削減が要求された。その要求は、一面ではまっとうなものであったかも知れないが、結果的には費用の削減のために、サービスの質・量を下げ、あるいはサービスの提供そのものが無くなるという事態を多く招いた。

何がいけなかったのだろう…?

個人的には、市場原理に対する過剰な・無批判な信頼を置き、また常に収益増大を指向する発想に、何か大きな見落としがあるのではないかと思っている。それらは私自身がこれまで当たり前のものと、疑いもせずに受け入れていたものであったかも知れないが、それらを野放しにしていたために、私たちはゆっくりと自らを崖っぷちに追いやっていたきたのかも知れぬ、と考えたりする。

7~8年前の政治的熱狂(本当に政治的に理解していたというよりも「コ●ズミ劇場」と例えられたように、ワイドショー的な興奮だったのが実体かも知れないが)の後、今になって、あの時の自分たちの熱狂が招いた事態の深刻さに青ざめている(少なくとも私は)。

今、私たちの目の前で起こっていること、その一部には自分も関与していることが、数年後に「ああ、あの時、あの選択をしていたのが、ターニングポイントだったね」という結果を招いるかも知れない。何か、そんなことが目の前で今起こっているのではないか、と考えてしまうここ最近である。

2011/11/27

【映画紹介】自閉症の妹と家族を記録した「ちずる」

自閉症の妹と、母、自分を撮ったドキュメンタリー映画が公開されているそうである。タイトルは『ちずる』。

キルギスとは関係のない話題だが、私、一応、福祉(知的障害者支援)業界に従事してしていたので、個人的には関心のある映画なのである。

ネット上のニュースを読むと、観た人の評判は良いようで、満足度では三谷幸喜の映画を抑えたりもしているようである。

Каша (3)

カーシャ(粥)の話の余話。

カーシャが使われていることわざが、ロシア語のテキスト(『アンコールまいにちロシア語 2009年度10~3月』p.261)に紹介されていた。

Кашу маслом не испортишь.(カーシャをバターでダメにすることはない。)

前の記事で書いていなかったが、カーシャにはバターを溶かして食べる。こくと香り出てよりおいしくなる。このことわざは、「カーシャにはバターはいくら入れてもいい」という意味で、そこから転じて「必要なものは多ければ多いほどよい」ということわざになっているのだそうだ。

(バターは貴重品・高価な物であったのかも知れない。そうだとして、このことわざを解釈するとまたニュアンスが変わってくる気がする。)

私が配属されている障害児者センターでは、昼食を提供するサービスもある。まかないの女性が雇われていて、毎回昼食を作ってくれているが、カーシャもよく登場する。私もセンターでカーシャを作っているのを見て、作り方を覚えた(と言うほどのことではなく、いたって簡単であるが)。

私はカーシャを好物としていて、一時は毎日のように自分の部屋でカーシャを作って食していたが、センターに来ている子供の中には、カーシャが嫌いで食べないという子もいる。

カーシャは米などを水・牛乳で煮込んだ粥であることは既に紹介したが、どうも牛乳の風味が好きでないようである。日本でも「牛乳、乳製品はどうしてもだめ」という人はたまに見かけるので、カーシャ嫌い(=牛乳嫌い)の子を見て、「ああ、遊牧民の末裔のキルギス人にも牛乳嫌いは存在するのだな」と興味深かった。どうやら、牛乳嫌いというのは人口の一定数は必ず存在しているのではないかと推測するのである。

(今はどうか知らないが、学校給食で「全部食べましょう」とか言って、嫌いな牛乳を飲ませるような指導をする教員もいたが、あれはいかがなものかと思う。今はアレルギー反応のこととかあるからやっていないとは思うが。)

以前、隊員仲間の一人が体調を崩して数日入院していたことがあったが、その人から入院生活のことを聞いたら、朝と夕の食事はカーシャだったとのことだった。

釈迦が苦行の末にぶっ倒れたところに、スジャータが乳粥を運んだのも、粥は消化がよく滋養も付くからであったのだろう。日本でも病人には粥や重湯《おもゆ》を与える。古今東西、粥は病人食として共通していると言えるようだ。

しかし、先の入院経験をした隊員の話にはおまけがあって、「朝と夕はカーシャだったが、昼はがっつりとした肉料理が出ることもあった」のだそうだ。この辺は、以前、当ブログに書いたロシア語の「昼食(обед)」についての話題と関連があるように思う。こちらでは「昼にがっつり喰う」が三食の配分のようである。

Каша (2)

キルギス人が「каша /カーシャ/」と呼ばれる乳粥を食べるのを紹介したが、カーシャは元々はロシア語のようなので、ひょっとしたらキルギスがソ連に編入される以前には、このような食べ物はキルギス人は食べていなかった可能性もある。

しかし、カーシャの伝播には別の可能性を考えても良いかも知れない。

乳粥と言えば、仏教とも深い縁のある食べ物である。釈迦が覚《さと》りを開こうとして苦行を重ねた末に倒れたところ、スジャータと呼ばれる娘が釈迦に乳粥を与え、それを食べて元気を取り戻した釈迦が、その後瞑想の末に菩提樹の元で覚りに到った、という逸話がある。

これに関する話は、「釈迦 スジャータ 乳粥」などで検索すれば、詳しく書かれたサイトがたくさんあるので、そちらを参照されたし。

「スジャータ」と言えば、民放ラジオで正時の時報の前にスポンサーになっているあの商品と同じであるが、これはあの商品が釈迦に乳粥を運んだスジャータから名を取っているのである。この話は中学生の頃に聞いたと思うが、それ以来私の中で忘れることのない話である。

さて、インドでも乳粥が食べられていたのだから、乳粥の起源もあの辺である可能性もある。玄奘三蔵も辿ったシルクロードでの人・物・文化の交流の中で、乳粥が南方から伝わった可能性もある。

ということで、キルギス語固有の乳粥を指す言葉があるのか調べてみると、「ботко /ボコ/」という単語があるようなのだ。キルギス語固有の単語は、ソ連編入以前からあったと見てよろしいので、すなわち乳粥もソ連以前からあったと考えてよい(ひょっとしたら、村のキルギス人も「ボコ」と言っているのかも知れないが、私のキルギス語聴取力が弱いために聞き逃していることも考えられる)。

まあ、これだけの情報では、南方経由で粥が伝わったことの根拠には何にもならんが…

2011/11/26

Каша (1)

каша。「カーシャ」と発音する。「粥《かゆ》」のことである。

キルギスの人も粥を食べるのにはいささか驚いた。いや、正確には、キルギスに派遣される前の日本国内での訓練中に、食べ物に関するロシア語を学習する中に「カーシャ」、すなわち粥があるのを知った時に、ロシア人も粥を食べるのだと知って新鮮であった。

こちらの粥が日本のと決定的に違うのは、煮込む際に牛乳を加えていることである。いわゆる「乳粥《ちちがゆ》」である。牛乳で煮込んだ粥を、砂糖と塩で味を調《ととの》えて出来上がりである。

米を牛乳で煮込む(※100%牛乳ではなく、水と牛乳で煮込む)なんて、日本人の中には「ちょっと…」と敬遠する人もいるかも知れないが、食べてみると、私には美味しい物であった。隊員仲間に「米を牛乳で煮込むなんて、日本人には馴染まないよねぇ」と言ったら、「いや、リゾットみたいなもんでしょ」と返され、なるほど、確かにリゾットとかドリアとか、米と牛乳の組み合わせで調理する料理があると気付いた。

リゾットやドリアと同系統の物と考えれば、乳粥も日本人にとっては大して違和のある物ではないはずである。粥に砂糖で甘く味付けするのを嫌がる人もいるかも知れぬが、おしるこ、きんとんのように、穀物を甘く味付けするのはむしろ日本では伝統的な調理法だとも言えるのではないか。

日本で粥と言えば、たいていは米粥のことを指す。こちらでも米粥はあるが、米以外の穀物も粥にして食している。正確には分からないのだが、粟《あわ》や稗《ひえ》と思われる粥もある。粟、稗というと、極貧生活者の食べ物というイメージが私にはあるのだが(昔話とかではそういう物として登場していたと思う)、こちらではそういうことではないらしい。

日本で、中規模以上のスーパーマーケットならば、コーンフレークなどを売っている棚に「オートミール」というのが売っていて、あれは麦(oat カラスムギ)が主になっている食べ物であるが、昔、好奇心で買ってみて箱の調理方法には、牛乳で煮込む(あるいはホットミルクをかけて混ぜる)みたいなことが書いてあったと記憶している。あれも穀物の乳粥の一種なのであろう。

2011/11/25

うんこくさい

11月23日に落語家の立川談志が亡くなった。

談志は若い頃から天才だとか落語会の風雲児だとか言われていて、その才能を認められていてファンも多かった。ただ、個人的には、テレビで談志の噺を聞いてみても、ファンになるということはなかった。まあ、これは好みの問題である。談志が旋風を巻き起こしていた時代を共有していれば、また違った受け止め方をしたかも知れない。

(ちなみに、私は談志一門を破門になった快楽亭ブラックという落語家の大ファンである。ただし、世間的には快楽亭ブラックのファンであることは、声に出しては言えないような噺をする落語家である…)

談志死去のニュースの中に、談志が生前から自分の戒名を決めていたというニュースがあった。

戒名決めていた・声帯摘出手術を拒否…談志さん

立川雲黒斎家元勝手居士(たてかわうんこくさいいえもとかってこじ)

大物落語家らしいオチをつけたな、という感じである。

NHKのニュースで戒名について触れるかと思って、雑音まじりの短波ラジオを聞いていたが、残念、戒名についてはノータッチだった。民放のワイドショーなんかでは扱っているだろうか…? アナウンサーが「談志さんの戒名は立川雲黒斎家元勝手居士(たてかわうんこくさいいえもとかってこじ)です」と読み上げるを聞いてみたい。

上記のニュースでもう一つ新鮮だったのは、戒名は自分で付けてもよいらしい、ということであった。快楽亭ブラックによれば、師匠の談志は大の吝嗇家だと、しょっちゅうネタにしていたから、戒名代もケチったか? これもまた“心温まる”エピソードである。

2011/11/24

まな板

女性に向かって「まな板」と言うと、蔑称にあたるのだとかなんとか(何のことか私には皆目分からないが)。そういう話ではなく、キルギスの調理の話である。
キルギス人が調理で、野菜を切る時、基本的にまな板を使わない。まな板を使わずにどうするか。すべて手の中で作業を済ます。
じゃがいもの皮を剥くような時は日本人もまな板の上ではなく、手で持って作業するが、野菜を刻む際にはまな板の上に置いてやる。
下に受け皿を置いておき、手の中で野菜の向きを変えながら、ナイフを入れていき、下に落としていく。傍らで見ていると、だんだんと野菜が刻まれて小さくなっていく様が面白い。
この時、ナイフの刃は持っている人自身のほうに向けて使う。手前手前に刃を入れていくのである。日本では調理をしている場面で、あまりこういうナイフの使い方は見ないような気がするが、結構日本以外の地域ではやっているのかも知れないし、日本でも、プロはこういう作業をしているのかも知れない。
さすがに、みじん切りくらい細かく切る場合はまな板を出して作業をしているが、玉ねぎなんかは、玉ねぎ自体の層になっているのを利用して、うまいことナイフを入れ、まな板を使わずに細かく切っている(サラダに入れる時など)。
私もこちらに来て、見よう見真似でやっているうちに、まな板を使わずに野菜を切るテクニックが身に付いた。西瓜《すいか》一つをまな板を使わずに切るのもできるようになった(ただし、西瓜は汁がしたたるので、作業場所は選ばなければならない。私がやったのは湖のビーチであったから、汁が垂れても大丈夫なのであった)。

2011/11/23

焚き火、焼き芋 (2)

子供たちに見られぬようにと場所を探して始めた焚き火であったが、焚き火を始めれば当然のことながら煙が上り、それを見つけてか、向こうで遊んでいたはずの子供たちがたちまちに寄ってきてしまった。

「何してるの?」から始まり、「なに人? 中国人? 韓国人?」などの質問の連続である。それくらいのこと相手をしてやれよ、と思われるかも知れないが、これが際限なく続くのである。なにより、こちらは“焼き芋”という調理をしている最中であるから、焚き火の中に芋を入れていることが分かると、ますます彼らの注意を引いてしまうかもしれないと恐れ、子供たちの質問に答えながら、芋が包まれたアルミホイルが外に見えないよう落ち葉や灰をかぶせていた。

焚き火

こちらから「もう向こうで遊んできな」と何度か言って、やっと子供たちが去ったと思ったのだが、すぐにまた戻ってきてしまった。今度は、その辺から枝や枯れ草を拾って、それを抱えて持ってきた。我々が枝や草をくべているのを見て、手伝うというか、自分たちも混ざりたいということか。

持ってきたのはいいが、まだ枯れ草になりきっていないあおい草まで持ってきて、それをくべた途端に白い煙がもうもうと立ち上り、さすがにキルギスの村でも近所から苦情が来るかも知れぬというほどであった。

その頃合いでちょうど芋にも火が通ったので、その場を退散。ちなみに、こちらでは焚き火の火の始末はしないで、そのまま放置しているようなので、我々も消火はあえてせずにその場を去った。

その後、焼いたさつまいもをカフェに持ち込んで、買ってきたバターをつけて食した。日本でも焚き火で焼いた芋なんて食べる機会は少なくなっているから、本当に久しぶりの食味であった。日本で売られているさつまいもよりも甘みは少なかったが、それでも十分満足できる出来上がりだった。

なお、焚き火の煙を浴びて、全員、髪の毛からジャケットまで煙くさくなったのは言うまでもない。

2011/11/22

焚き火、焼き芋 (1)

寒くなって木々の葉が落ち始めると、村のあちこちで、家の前に落ち積もった葉をまとめて、焚き火をしているのを見かける。昨年から自分も焚き火をしたいと思っていてできなかったが、今年は隊員仲間で焚き火をした。

我々の焚き火の最大の目的は焼き芋であった。ところが、ここキルギスではじゃがいもは冬場の野菜の主人公として豊富にあるのだが、さつまいもとなるとまったく見たことがない。昨年は、さつまいもが入手できなかったのと、焚き火ができそうな場所を見つけられないままシーズンが終わってしまった。

ところが、今年、隊員仲間の一人が、首都の中華系食材店でさつまいもが売られているのを発見したということで、さつまいも入手の目処がついた。じゃがいもは1kg=20ソム(約45円)くらいだが、さつまいもは1kg=80ソム(約150円)くらいだから、4倍程度の値段である。さつまいもを使う料理を見たことがないし、4倍もの値段となると、現地のキルギス人がわざわざ買って食べることはないと思われる(中華食材店に置いているということは、キルギス在住の中国系住民には需要があるはずである)。

そうそう、昨冬は、焼き芋の際に芋を包むアルミホイルもなかったのだが、それも首都のスーパーで売っているのを仲間の一人が買っていたので、こちらも解決。さつまいももアルミホイルも村では入手できない。首都は物資が豊富ということである。

必要な物がそろって、さてどこで焚き火をしようかと考え、村の学校の校庭の隅でやることにした。日曜日なら生徒はおらず、目立たずにやれるだろうとふんだのである。なにせ、何かしていれば必ず子供が寄ってきて「何してんの?」と訊かれ、まとわりつかれることは必至であるから、できるだけ目立たずにやりたいのであった。

校庭に行ってみると、数名の子供たちが遊んでいて、どうしようかと迷ったが、我々も焚き火&焼き芋をやる気満々になっていたので、中止にするつもりもなく、遊んでいる子供たちから陰になる場所を見つけて、そこに落ち葉、薪《たきぎ》を集めて焚き火を開始した。

冬の星座観察

「冬の星座」という歌があったが、あの中では確かオリオン座が歌詞に出てきたように記憶している。

そんなことがあってか、冬の星座と言えばオリオン座が筆頭に思い浮かぶ。オリオン座は見つけやすいというのもある。冬の星座の代表格と言えるだろう。

10月の半ばには、夜1時頃にトイレに行くことがあれば、東のほうの空にオリオン座の姿を認めるようになっていた。「ああ、オリオン座が出てきたな」と思っていたのだが、そのオリオン座の出現時間は日に日に早くなってきている。

夏場、日本から持ってきた星座観察の入門書を片手に、夜、外に出て星座を眺めていた。街明かりがほとんどないので、観察条件はすこぶるよろしい。おかげで、この歳にして夏の大三角、はくちょう座、こぐま座などが、どの天体を指すのかを知った。

その調子で、秋・冬の星座も観察したいと思ってはいたが、いかんせんこの寒さ…。屋外にあるトイレに行く往復に空を見上げるが、とてもとても、本を片手に10分はおろか5分程度でさえ外にいるのは嫌になる。

冬のほうが気温が下がって、空気の透明度が上がるのだとか。だから、星座観察には冬のほうが条件はよいのだろうが、寒さという点では、冬のほうが条件は悪いのである。

2011/11/18

タイガン

キルギスには「タイガン」と呼ばれる、狩猟犬の固有種がいる。

細身で全長80~100cmくらい。見ればすぐにタイガンだと分かる特徴を備えている。毛は長いものもいれば、短いものもいる。色・模様も数種類ある。

taigan3
(クリーム、黒、茶などの色がある。まだら模様もある。)

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(白と黒のまだら)

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(顔と足先だけ短毛、あとはモジャモジャタイプ)

タイガンは狩猟犬として優秀で、キルギス人は珍重している。タイガンに獲物を追わせる競技も各地で開かれる。

このタイガン、イシククル湖周辺が産地として有名だと聞いた。

私が住んでいるボコンバエバ村の中でも、綱もつけられず、自由気ままに歩き回っているタイガンを見かけることがあるが、そんな状態で飼っていて、他の犬種・野良犬と交配してしまわないのか、と心配になる。繁殖期だけは管理するとか、やり方があるのかも知れない。

2011/11/17

「小水力発電」というのを知った

ネットで見つけた記事。灌漑用水を引き上げるなどのために、地域に小規模の発電施設を作って運営している農村が多いそうである。日本では古くから歴史があるのだそうだ。

一部コピペ。

農文協の主張:原発から農発へ──いまこそ農家・農村力発電を

原発の寿命は当初30年で設計されていた。しかし経済性を重視した延命を重ねるうち福島第一原発の事故は起きた。また、事故が起きなくても、すべての原発は廃棄物、使用済み核燃料、廃炉の問題など、ことごとく問題の解決を先送りにして運転されており、たかだか1、2世代の経済的繁栄のツケは、未来永劫子々孫々に回される。

 一方、土地改良区や農協の発電所の多くは、江戸末期から昭和初期にかけての先駆者たちがひたすら地域と子孫の繁栄を願って開削した用水路を生かしたもので、開削に私財を投じた先駆者のなかには困窮して故郷を離れた一族も少なくないという。しかし、その水路を生かした発電事業のおかげで、冒頭で紹介した歌碑のように、現代を、そして未来を生きる子孫が恩恵を享受する。

「大規模集中型電力システムは、中越沖地震の柏崎刈羽原発や東日本大震災の福島第一原発の例をみるまでもなく、災害に対してきわめてもろく、リスクが桁違いに大きい。また、福島第一原発の処理に地元がまったく関与できないという事実が示すように、地域の技術・人材や意思決定を排除して、集権的になりやすい。さらに、これがもっとも大きな罪かもしれないが、資源が生み出される環境や生産の現場を壁の向こうに追いやることで私たちを無知にさせている」(小林久:茨城大学農学部教授)

福島原発事故、その後の電力供給問題を通じて、発電事業について注意が向くようになった。電気の作り方、買い方には色々な方法があるのだと、今さら知ることも多い。

2011/11/16

キルギスのボールペン

ボールペンの話題のついでだが、こちらで使われるボールペンは青(濃紺)が多い。

日本でも青・紺のペンを使う人はいるが、それでも黒が主流ではないか? 黒を使うか、青・紺を使うか、それぞれの国の歴史が関係しているような気もするが、どうなのだろう…。

私が驚いたのは、学校の生徒も、ノートを取る時にボールペンを使っていることである。多くの生徒、クラスを見た訳ではないが、ボールペンでノートに書いている子供は多いようである。書き損じた場合とか、消しゴムで消せないから困るだろうと思うのだが、ペンでゴチャゴチャっと線で塗りつぶして済ましている。

職場のクリスマス会か何かで、ゲームの景品にいかにも安物といった感じのボールペンを受け取ったが、これは端《はな》から書けなかった。思えば、日本でもそういうボールペンにあたってしまうことは、昔はよくあった。今は百均ショップの10本で100円というような製品でも、かなり書き味は良いし、インクが出ないことも少ない。

だいたい生産国・地域は同じようなものだと思うのだが、こちらで買うボールペンにはハズレの率がやや高い気がする。

ボールペンがない

このブログを読んでいる方は、普段、身の回りにどれくらい筆記具を用意しているだろうか。

私は、新しいボールペン商品があると、(既に使っている分のインクは十分に残っていても)つい買ってしまうことがたまにある。そんなことだから、筆箱に、職場のデスクに、自宅のデスクに、と、それぞれ2~3本のボールペンが溜まり、ゴチャゴチャしてしまっていた。まあ、ゴチャゴチャするのは私が整理整頓を怠っているのも原因であるが。

日本で働いていた頃の周りの同僚を見ても、大抵、自分の愛用のボールペンの銘柄があって、それを使っているという具合だった。

話はキルギスになるが、こちらの人ももちろんボールペンは使うのだが、自分でボールペンを用意している人が驚くほど少ない。しょっちゅう「ボールペンを貸して」「ボールペン、どっかにない」と言っている。

仕事をしていれば毎日使う物だろうし、自分で用意しておけば事足りる話だと思うのだが、そうは考えないのが不思議である。ボールペンを買う費用ももったいないのだろうか…。安い物なら5ソム(約8円)、ただし「安物買いの銭失い」で、安物はすぐに書けなくなるから、15ソム(約25円)以上くらいの物が良いのだが、いくら途上国の村と言っても、村人に買えない金額ではないと思うのだが。

でも、ジャガイモ1kgが20ソム程度であることと比べると、ボールペン1本が15ソムというのは高いのかも知れぬ。日本人にしてみるとジャガイモが安すぎる気がしてしまうが、キルギス人にしてみればボールペンが高すぎるということかも。

そうだとしても、ボールペンは(ある程度の品質の物であれば)ずっと使える物なのだから、1本くらいは持っておけば良いと思う。

もう一つ解せないのは、ボールペンをしょっちゅうなくすことである。なくすことが多いから、「どこに行った?」と訊くことが多いし、「貸して」となる。しかも、貸した場合、返ってこないことも多い。借りた事すら忘れてしまうようなので貸した方は困る。私も何度かそういうことを経験して、多少は学習し、ボールペンに限らず物を貸したら、自分から「○○は使い終わりましたか?」と尋ねるようになった。

借りた物を返さないのは、別にその人に悪気がある感じでもない。「借りたまま、自分の物にしてしまおう」と企んで、返さずにいるのではない。ただ単に「借りた物は返さなくてはいけない」と強くは意識していないようである。

もちろん、日本社会の中にもその手の人はいるし、キルギスの中にもちゃんと返す人はいる(だろう)。ただ、そういう人の割合がある程度多ければ、私のようのよそ者から見れば、「物を返さない人が多い」と印象に残ってしまうものである。

「当たり前」と思われるようなルール、マナーも、その社会の構成員が共有して、次の世代に教えなければ、「当たり前」のものとして維持されない。もし日本人の多くが「借りたら返す」のルールを守れているとしたら、それを維持するための積み重ねがされているということである。

2011/11/15

ポプラギター

小高い山から村を俯瞰すると、集落には樹木が多いことが見て取れる。村内を歩くと道沿いに木が並んでおり、これらの多くはポプラである。

沿道のポプラ

こんな風に木が直線的に生えるということは自然には起こらない。「三本以上の木が直線で並んで生えていたら、人が植えたもの」と聞いたことがあるが、確かに、キルギスの沿道に植わっているポプラは人がそこに植えたものに違いない。

キルギスの人たちが、なんでこのようにポプラを植えているのか、よく分からない。並木を作って景観を良くするためだろうか? たまに、切り倒していることもあるようだが、あれは薪を作るためだろうか? あるいは、防風林とかの役割があるとか…?

話は飛ぶようだが、ギター製作工房の人(アメリカ人?)のインタービューを読んでいたら、ギターの材としてポプラも使うようなことが書かれているのを見つけて驚いた。

http://www.gakki.me/c/?p=TCON004102

(※中段あたりの「異なる木材の音の違いは?」という質問への回答の中でpoplarという言葉がある。)

ポプラがギター材として使われているというのは、私には初耳だったが、このインタビューでは「すごく鳴りがいい」と書かれている。

ポプラと一口に言っても、実際にはいくつもの種類があるそうである。ここキルギスに何種類くらいあるのか知らないが、ここで植わっているポプラと、ギター材に使われるポプラが一緒なのかも分からない。どちらにせよ、ポプラ材のギターを、一度は手にとって試してみたいものである。

2011/11/14

右側通行と右ハンドル車

キルギスではソ連時代を除けば、国産車がない。ソ連時代の国産車と言っても、それはキルギス以外で生産されたものである。

現在走っている車両は、旧ソ連の車、また日本、ドイツからの輸入車である(ごくたまにフランス車も)。職場の同僚が言っていたが、「日本で中古になった車も、ここでは新車」という感じである。

随分前になるが、ロシアが、右ハンドル車を禁止する法律の施行開始を延期したというニュースがあった。この法律は、実質的には日本からの中古車輸入を制限し、締め出すためのものであったらしいが、日本製中古車の輸入業者や、日本車を求める消費者からの反発が強いことから、実施を見送ることになったと伝えられていた。

「日本車締め出し」と聞くと、感情的な部分ですぐに「なんだと!」と反応してしまう。しかし、単に経済的な締め出しという以外にも、交通事故を減らすためにロシア政府が右ハンドル車を減らしたいというのも一理ある。

ここキルギスもロシアと同様、車は右側通行である。右側通行の国では車の運転席は左側にあるのが基本である(逆に日本のように左側通行であれば、運転席は右側だ)。何でそうなのかとあんまり考えることはなかったが、キルギスに来て分かった。

片側一車線道路で、前の車を追い抜くために対向車線に出なければならないが、その時、対向車が来ているか確認するために、右ハンドル車は左ハンドル車よりも大きく左にずれなければならない。

oinuki01
右ハンドル車は、左前方の視野が狭くなる。

oinuki02
先を見るためには中央線よりにずれなければならない。

私が住んでいるバコンバエバ村から首都まで移動するのは、乗り合いワゴンかタクシーである。約4時間。首都のビシュケク市近郊に行くまで、3時間ほど信号機はひとつもない。

当然のことながら、ドライバーは飛ばす。舗装が傷んで凸凹した道でも、カーブでも、100km/hを超えて走ることも当たり前である。進行方向に遅い車があれば、どんどん抜いて行く。

この時、乗った車が右ハンドルの日本車だと、ヒヤヒヤさせられる場面が何度か訪れる。追い抜こうと左に寄ったら、対向車がすぐそこまで来ているというようなことである。この点において、キルギスでは私は右ハン日本車は乗るのを避けたいと思ってしまうのである。

2011/11/13

キルギス語とマレー語の共通語

キルギス語を勉強していると、どこかで見覚え・聞き覚えのある単語に出くわすことがある。覚えがあるのは、マレー語で見聞きしたことがあるからである。

これまで気付いたものを一覧にしてみる(//内は発音をできるだけ原語っぽく表した)。

キルギス語

マレー語

日本語(訳)

убакты /ウバクトゥ/ waktu /ワクトゥ/ 時間
аскар /アスカール/ askar /アスカー/ 軍隊
ду’йно’ /ドゥイヌォ/ dunia /ドゥニア/ 世界
кабар /カバール/ khabar /クバール/ ニュース、知らせ
жума /ジュマ/ jumaat /ジュマアット/ (共)金曜日/(キル)週
кызмат /クズマット/ khidmat /クドマット/ サービス、奉仕
о'му'р /ゥオムォール/ umur /ウムール/ (キ)命/(マ)年齢
заман /ザマン/ zaman /ザマン/ 世紀、時代
мечеть /メチェーチ/ masjid /マスジッド/ モスク
※キルギス語欄の「о'」「у'」は、キルギス語固有の文字を表す。これらの文字はフォントの制限で記述できない(また、使用するとすべてが文字化けする可能性がある)ので代替して表した。

これらはアラビア語を語源にする同じ言葉だと言って間違いない(ただし、「モスク」を表すメチェーチについてはいまいち確信がない)。

キルギス、マレーシアともにイスラム教の国であり、かつて、イスラム教の伝播して来た時に、これらの単語も入り、定着したのだ。

だいたいどれも同じ意味で使われているが、永い年月の中で、微妙にニュアンスが変わったものもあるようだ。「ジュマ」「ジュマアット」は、イスラム教の集団礼拝をする日を指し、それがすなわち「金曜日」である。キルギスではその集団礼拝を基準に一週間を区切ったのだろうか、「週、一週間」という意味でも使われている。ちなみに、キルギス語教科書にはジュマは「金曜日」だと載っているが、実際には、金曜日は「5番目の日(月曜から数えて)」という言い方が一般的なようである。

キルギス人、マレーシア人の中でも、それぞれ使っているのがアラビア語語源だと意識もしていないような言葉もあるだろう。日本人が「ミシン(はた織り機)」が元は英語のmachine /マシーン/に由来しているとか、「イクラ(鮭の卵)」がロシア語で「魚の卵」を表すикра /イクラー/ から来ているとか知らずに使っているようなものである。

もちろん、上記以外にも両言語に共通の単語はまだある。「テレビジョン」「ラジオ」「テレフォン」「チョコレート」「パスタ」などである。これらは、近現代に外部から生活に入り込んで来た品々であり、西洋語を通じてそれぞれの国に定着した物である。

かつてはイスラム教を通じて共通の単語が入り、今はまた別の形で共通の単語が入っている。共通語は外来語である可能性が高く、外来語はその国・文化の歴史を映している。

2011/11/12

TPP参加論議

今、日本のニュースでトップ扱いになっているTPP(環太平洋経済協定)への参加問題。
以下のサイトに、TPP参加論議に関する分析、コメントが載っていて、色々と勉強になった。日本でテレビからしか情報を得ていない人は、(ちょっと長いが)一読すると良いだろう。
田中宇の国際ニュース解説 2011年11月1日
TPPが日本の政界再再編につながる?
この中からいくつかコピペ。
TPP参加によって日本経済は10年間で2・7兆円の利得があるという。年間2700億円だ。約500兆円ある日本の経済全体(GDP)の0・05%の効果しかない。
オバマがTPPに力を入れるのは、米国製品を日本市場で売りやすくして、米国の輸出産業を復活させ、再選に向けた自らの政治的得点にしたいからだ。
日本の財界はTPPへの参加を支持している。米国からの圧力で、日本市場での規制が緩和されていくと、日本企業にとってもプラスだとの思惑からだろう。だが実際には、米国企業がロビイ活動によって米国政府を牛耳ってやらせている米政府の産業政策が、TPPを通じて強制的に日本に導入されると、得をするのは米企業であり、損をするのは日本企業だ。
日本の官僚機構はこれまで、官僚の権限を維持するために、各業界に対して厳しい規制を敷き、日本企業はその規制を満たす努力をすることで、環境や安全の面で技術を磨いてきた。規制を満たせない外国企業は入ってこれなかった。今後、日本の規制が崩されて米国型に変質していくと、この点での日本市場における日本企業の優位性が失われてしまう。
かつて一世を風靡した「規制緩和」は、実際、それが進むと弱者はさらに不利になり、格差は拡がるという現実を目の当たりにし、そこに出てきたTPP参加問題である。日本人がこれからの国の行く末をどうするかを考えるには、よい材料だと思う。
協力隊とは関係ない話と思われるかも知れないが、発展途上国の、さらに首都から離れた片田舎にいて、世界の大きな潮流であるグローバリズムとは何であるのか、本当に人々の生活を向上させるのか、という疑問が常にある。
「市場原理」や「規制緩和」といった題目は、ある段階までは経済・技術の発展にとって有効で社会にとって有益のようであるが、どこの段階からは行きすぎたものになってしまうのではないか。
平均寿命で考えれば、自分もあと数十年は生きるし、その後にも日本に日本人は暮らしていく。1日単位の株価変動や、1年程度の企業の利益に目を奪われていて良いのだろうかと思う。

2011/11/11

黒いあれこれ

前に「赤(色)」に関する単語の比較をした。今回は黒。

ロシア語で「黒い」はчёрный /チョールニー/。ここから派生したчернила /チルニーラ/という単語があるが、これは何だか想像が付くだろうか?

答えは「インク」である。日本語なら「墨」と訳す場合もあるだろう。

ならば、英語のinkも黒に関係のある単語から派生したものかと思って辞書を見たら、こちらは「焼き付ける」という意のギリシア語(?)が元らしい。インクを作るために炭を焼いたことによるのだろう。

キルギス語の「黒/黒い」はкара /カラ/。英語アルファベットならKARAになるが、日本でそんな名前のアイドルグループの人気があると聞いて、キルギスと関係があるのかと思ったら、こちらは韓国のグループであった。

ちなみにキルギス語で「雪」はкар /カル/。「黒」と「雪(=白いもの)」を表す単語が似ているのが、私には不思議な感じがする。

いまいち確信が持てないが、кара(黒い)から派生したらしい単語にкарагай /カラガイ/ というのを見つけた。これは「樅《もみ》の木」。常緑樹で、一年中濃い色をしているからか?

さて日本語で黒にまつわる単語と言えば「黒子」。歌舞伎で黒い衣装を着て、演技の補助する人を指す場合は「くろご」と呼ぶらしい(いつも「くろこ」と言ってしまっていた)。これは「黒衣」とも書く。

「黒子」の別の読みは「ほくろ」で、これは読めない人も結構いる。黒子《ほくろ》に対応する各語はこんな感じ。

ロシア語 - родинка /ローディンカ/
род(=生まれ、氏族、親戚など)、родина(=故郷、祖国)から派生した単語。「生まれつきの痣《あざ》」だからか?

英語 - mole
この単語は黒子以外にも意味がたくさん載っていた。モグラ、防波堤、モル(単位)など。モグラは地中の暗闇で生活するから、「黒」というイメージはかぶるような…

キルギス語 ー кал /カル/、мењ /メン/ の二つ載っていた。
калは日本語で読みを当てるとкар(雪)と同じカルになってしまうが、LとRの発音の違いがある。

日本語以外では、「黒」から連想された気配はない(英語のモグラは怪しい?)。

以上、黒にまつわるあれこれを書いてみた。

だから何?

というのは言わない約束ということで…

2011/11/10

【訂正】 O製紙 → D製紙

本日アップした弊ブログの記事「日本、日本人、日本企業のイメージ」で、不祥事を起こした2つの会社のイニシャルは共に「O」と書いたが、製紙会社のほうのイニシャルは「D」であった。



O製紙という別の有名企業があるので、そっちと思いこんでしまっていた。お詫びして訂正します(既にブログ本文は訂正)。

日本、日本人、日本企業のイメージ

この数週間で、日本企業の巨額(数百億円!)の不祥事が続いた。製紙会社のDと電子機器メーカーのOで、それぞれ事件の内容は異なるが、それだけの額を操作し、不正を隠そうとしていたことに呆れる。

D製紙のほうの社員は、「ティッシュを売って、100億円の収益をあげるのにどれだけの苦労が必要か…」と涙目で語ったとか読んだが、ホント、お気の毒という感じであった。それに、パルプを作るために、世界各地で森林を伐採しているわけで、住処《すみか》を追われた現地住民、動植物たちも浮かばれまい(まあ、企業の不正があろうがなかろうが浮かばれないのだが)。

電子機器のO社のカメラは好きで、これまでも何台か使って来たのに…。CMに出ているスケートの女子選手も気の毒と言えるかも知れない。

たまたまかも知れないが、こんな事件が立て続けに明るみに出れば、世界の人々の印象には「日本ではそういうことが頻繁に起こっている」と残り得るし、さらには「日本人はそういうインチキをする連中だ」と、(論理を飛躍させて)思い込む者もあるかも知れない。

そういうイメージが定着すれば、海外企業との取引きで不利になる状況も出てくるだろう。「どうせあんたたち(日本人)はずるをするんでしょ」「あんたらを信用できないから、取引きするなら保証金を倍出しぃな」とか、買い叩かれることが出てくるのではないか。

お世辞も多分にあるのは承知だが、海外での日本人の評判は結構良いと思う。国名は挙げないが、中にはどこでも概ね嫌われてしまっているような国・国民もいくつかある。嫌われる理由というのが根も葉もあるのかどうかは知らぬ。しかし、一度でも、その国の人から嫌な思いを味わわされた者は、「○○人は(全員)嫌な奴らだ」と信じるようになっても、由《よし》無しと一蹴はできまい。

逆に考えてみれば、もし、これまで海外における日本、日本人、日本企業のイメージが良いものであったとしたら、それは一朝一夕にできあがったものではなく、これまで我々の先人たちがコツコツと積み上げてきた「信用」という名の蓄えがあったからだ。

「オレは個人の力でやっていくから、日本とか日本人とかはカンケーねぇよ」と言う者も、自分の知らない何十年も前の日本人の作った信用貯蓄の恩恵を、どこかで受けていないとも限らない。また、自分が何年か何十年先の人たちのために信用貯蓄を積み重ねることもできるかも知れないし、逆に負債を作る可能性もある。

信用を得るには何年もかかるが、信用が崩れるのは一瞬、というのはどんな場合でも本当である。海外にいる身としては、自分自身が日本人代表だということを胸に、ここでの残りの暮らしをしなければと思う。

2011/11/09

押しがけ応援隊

「押しがけ」なんて言っても、ピンと来ない人も多いのだろうか? バイクや車のバッテリーが上がって、セルモーターでエンジンがかからない時、バイク・車を押して勢いをつけたところでギアを入れて、エンジンを始動させる方法である。これはマニュアル車でできる方法で、詳しくは分からないのだが、オートマ車ではできないはずである。

※ネット検索をしたら、やはりオートマ車では押しがけはできなかった(以下のサイトなど参照)。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q138184598
http://oshiete.sponichi.co.jp/qa5107734.html

日本で乗っていたバイクが、たまにセルモーターでエンジンがかかりづらいことがあり、押しがけでエンジンをかけたことがよくあった。車(マニュアル車)でも下り坂を利用してやったことがあったが、今の日本なら、ほとんどそういうトラブルは起こらないだろう。

キルギスで、特に田舎で走っている車の多くは、ソ連時代の「(ソ連の)国産車」で、私はキルギスに来るまで見たことも聞いたこともない車種・車名の物である。ソ連時代の車ということは、一番新しくても1990年製、実際にはそれ以前の物だろうから、30~40年くらい使われている車両もあるはずである(外車マニアとかなら、車両モデルを見れば「19xx年製だ」と分かるのだろうが)。

車両の古さ、当時の生産技術、使用環境(ほこりっぽい、寒いなど)があって、エンジンがかからない車はしょっちゅう見かける。村内を歩いていると、エンジンがかからない車を2~3人の人たちで押している光景にしばしば出くわす。

 押しがけ
(バッテリーあがり、ガス欠などで車を押している人はよく見かける)

私は、押しがけを手伝うのが好きで、押しがけをしている車を見ると、駆け寄っていって一緒に押してしまうのである。小さな達成感がある。車の所有者にしてみれば毎度のことだから、押しがけで始動するのは当たり前。手伝っても礼を言わない人もいるが、礼の言葉があるなしに関わらず、私は押しがけが好きなのである。

2011/11/08

『南極料理人』と青年海外協力隊

映画『南極料理人』(監督:沖田修一、出演:堺雅人、生瀬勝久、きたろう、他)のDVDがあったので観た。

南極にある日本の観測基地には、天文や地質などの調査、また基地の機械の保守などの人が派遣される。その彼らの健康管理をする医師や、毎日の食事を提供する調理師も必要ということで、この映画のタイトルは、南極観測基地で調理師として派遣された男を主人公とした物語である。

青年海外協力隊と重なるところが色々あるように思いながらこの映画を見ていた。

まず、青年海外協力隊も南極観測隊もともに、派遣される人は「隊員」と呼ばれる。「○○隊」というと、ウルトラ警備隊のように、何らかの使命を負って任務にあたるという勇ましいイメージである。協力隊も、途上国に赴いて、「その国・地域の抱える問題の解決や、諸分野の発展に寄与する」という使命を負っているが、現地での生活を通して、現地の文化を味わい楽しむということもあるので、私自身が協力隊に持つイメージはのんびりしたものである。

一方、同じ「隊員」であっても、南極観測隊のほうは、現地には人はおろか、どんな生物も住めないというマイナス70度の世界での暮らしである。生活環境はとても厳しい。協力隊は派遣期間が2年間であるが、南極観測隊は1年のようである。10人程度の固定した面子で、長期に渡って暮らし続けるのは結構ストレスが溜まるはずだ。協力隊は、なんだかんだと言って、夏休みなどにその国の中を旅行したり、現地に友達ができたりと、人間関係に変化がある。

人間、なんだかんだ言っても、人間関係の問題は精神状態に大きく影響する。映画『南極料理人』の中にも、協調性のない隊員がいて、他の隊員と摩擦が起こる場面があるが、固定メンバーの中で軋轢を抱えたまま、かつ途中で「もう辞めた、日本に帰る!」ということもできない。これはきつい。

一方、協力隊のほうは、異国へ行って、そこの言語を使って、そこで暮らす。たまに自分で和食を作ることはあるが、基本的には現地の物を食べる。日本とはまったく異なる食文化(米がないのが一番堪える)の地域に行く隊員は食生活では苦労すると聞く。南極観測基地は、映画で見る限り、日本からの食料が潤沢に貯蔵されているようで、この点は羨ましかった(まあ、現地調達は不可能だから、そうせざるを得ないのだが)。

「隊員」同士とは言え、まったく異なる青年海外協力隊と南極観測隊だが、映画を見ながら比較をしていた。

ひょっとして、この二つの「隊」に、両方とも参加したことがある人もいるのだろうか? 南極観測隊は主に自然科学分野の研究員か技術屋だと思うが、協力隊にもそれに重なる職種はある。だから「ひょっとしたら」と思うのだが…。

2011/11/07

今年は蜂が少なかった

あくまでも主観的な印象だが、今年の夏は村で見かける蜂が少なかったように思う。

3~4年前だったか、全世界的に蜂が大量死して、農業で果樹の受粉作業ができず、収穫量が減ると騒ぎが起こっていた。日本のミツバチが足りないので、海外から輸入するとかいう話もあったが、あの騒動はその後どう収束したのだろうか。

今夏、蜂が実際に減っていたのかは分からない。単に私のホームステイする家で、今年は蜂蜜を卓上に出していなかったから、蜂たちが寄ってこなかっただけかも知れない。

ソ連時代、キルギスは連邦内では蜂蜜生産の上位だったそうである。生産者はロシア系住民が主で、ソ連崩壊後、ロシア系住民が彼らにとっての本国であるロシア、またはキルギス以外の旧ソ連圏の国に「流出」したため、キルギス国内での蜂蜜生産量は、以前の20分の1にまでなってしまっている、と新聞で読んだことがある(最盛期の生産量がどれくらいだったか失念してしまった。2000t/年だったか…?)。

キルギスで民族の自治が高まること自体は喜ばしいことなのかも知れないが、一方で、ソ連時代に技術を支えていたロシア系住民の流出を招いており、蜂蜜生産に限らず、諸分野で技術力の低下という事態も起きているようである。

キルギスの蜂

外出の際には冬の格好をしている今の時季に、ちょっと季節を戻って蜂の話を書く。

昨年、村に赴任した当初、蝿と蜂がやたらと飛び回っていることが印象に残った。食事をしていると、テーブルの上にあるパンやサラダに蝿が留まるので、いちいち手で追い払っていた。村にいた先輩隊員は「すぐに慣れますよ」と言っていたが、確かにじきに慣れていった。

蜂もテーブルの回りをブンブン飛び回っていて、彼らの狙いはジャムや蜂蜜などであった。蜂と聞くと刺されると思って怖がってしまうのだが、当地の蜂は攻撃的ではなく、向こうから襲ってくる(刺してくる)ことはない。私は一度だけ指を刺されたことがあるが、それもたまたま蜂と私の手が鉢合わせ(ダジャレじゃないよ)してしまって、蜂が刺してきたのだろう。

honey_bee2(キルギスの蜂。日本のミツバチとは違う種類のようだ)

キルギス人はパンを毎食必ず食べるから、どの家の食卓にもジャムがある。蜂蜜はちょっと値段がはるので、いつもとは限らないが、これも紅茶に溶いたり、パンに付けたりするために食卓にある。蜂はそのジャムや蜂蜜をあつめに来るのであるが、そもそも蜂蜜は彼らが集めた物を、人間様が奪ったのだから、彼らにしてみれば奪い返しに来たと言いたいかも知れぬ。

家では茶碗・小鉢のような入れ物に蜂蜜が入っているのだが、蜂は「それ、ごちそうだ」と飛び込んで来る。花からちまちまと集めるのに比べたら、山盛りの蜜があるのだから、蜂にしてみればこれ以上ない宝である。

ところが、蜂たちが蜜集めに精を出す夏場は、温度が高いから、蜜は溶けて粘液状になっている。宝の山と喜び勇んで蜜に飛び込んだ蜂たちは、哀れ、蜜の池の中で羽や足がからめ取られ、身動きできなくなってしまうのであった。

honey_bee 
(蜜地獄にはまった蜂たち)

たまに、蜜地獄から這い出す蜂も見かけるが、羽が蜜まみれになって、もう飛び立つことはできず、テーブルの上に蜜の痕を残しながら、ずるずると這いずっている。「蜜地獄」と書いたが、蜜にまみれて息絶えていくのは、彼らにとってはむしろ本望だろうか…

イスラム教 犠牲祭

今年(2011年)の11月6日は、イスラム教では「犠牲祭」という日にあたるそうである。

はて、どんな祭日なのかと思い、ネットで調べてみた。

イスラム教の祭日ということであれば、マレーシアにいた時もあったはずだと思うのだが、「イード・アル=アドバー」なんて言葉、聞いたことがあったかな?? と思って、マレー語のウィキペディアも開いて見ると、

「Hari Raya Haji」という別名があるそうで、この呼び名には何となく聞き覚えがあるように思う。

日本語ウィキペディアに「アブラハムが進んで息子のイシュマエルをアッラーフへの犠牲として捧げた事を世界的に記念する日」と書かれている。

この話、『旧約聖書』で読んだことがあると思い、「創世記」の中にこのエピソードを探してみた(聖書も昔の翻訳は電子テキストとしてネットで閲覧可能である。便利である)。

これらの事の後、神はアブラハムを試みて彼に言われた、「アブラハムよ」。彼は言った、「ここにおります」。 神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。(創世記22:1-2)

あれれ?

聖書のほうでは「イサク」を犠牲にすることになっている。イスラム教では「イシュマエル」である。これは読み方が違うとかの問題ではなく、そもそも別の人物である。聖書にも「イシマエル」という人が出てくる。両名ともアブラハムの息子であり、詳細は「創世記」を読むなり、ネットで検索するなりしてもらえばよいと思うが、イシマエルはアブラハムの妾が産んだ子、その後本妻が産んだのがイサクである。

このどちらが犠牲としてささげられるかで、ユダヤ教・キリスト教(聖書)とイスラム教(クルアーン)では違いがあるということだ。ただ、エピソードとしては共通のものであり、これらの三宗教がきょうだい関係であることが顕れている。

ちなみに、私の身の回りでは、特にこの祭日にまつわって家で祝いをしたりとかいうことはなかった。キルギス人同士が知人に会った時に、何か「○○おめでとう」(←聞き取れず)という感じの言葉を交わしていたので、それはおそらくこの犠牲祭を記念して言っていたのだと思う。

2011/11/05

滅びゆくサイ

ネットで見たニュース。

この話で思い出したが、私がマレーシアに協力隊に行った時、配属先はオランウータンの生息地として有名な「ボルネオ島」のサイのこと。

あのあたりはほぼ赤道直下で熱帯だから、動物も植物も、生物の種類はとにかく多種多様である。ただ、ご多分に漏れずというか、ボルネオでも人間が森林を伐採するなどして、生物たちの生息地がなくなり、多くの生物種が絶滅の危機に瀕している。オランウータン、象、猿(オランウータンとは別の)などと共に、サイも絶滅危惧の仲間に入っていた。

ボルネオ島がある島は、マレーシアとインドネシアに分割されていて、マレーシア側のことをボルネオ島と呼び、インドネシア側はカリマンタン島と呼ぶ(ボルネオの中にブルネイ王国という国ある)。

このボルネオ、カリマンタンを合わせた島全土でも、8年前の時点で、サイは残り数頭だと言っていた。ボルネオのジャングルでサイの保護活動をするNGOがいたのだが、この団体の人たちでさえ、実際にサイを目撃したことはないとのことだった。だから、本当のところ、8年前のその時にすでにボルネオのサイは絶滅していたのかも知れない。8年後の今は言わずもがなであろう。

2011/11/04

судとсад

ロシア語のсуд(スート)は「法廷」、сад(サート)は「庭」の意。ロシア語を知らない人でも、この二つの単語は綴りが1字違いで、似ていることが分かるだろう。

似ている綴り、発音の単語というのは、学習者にとってはやっかいな代物で、私は結構使いまちがいをしてしまう(「ちょっと、法廷(=庭のつもり)へ行って来る」とか、「この庭(=裁判所のつもり)で裁判が行われる」とか)。話し相手が「??」という顔をするから、何かを言い間違えたことはすぐ気付くが…。

судとсадはロシア語の綴りが似ているだけでなく、対応する日本語(というか漢字)においても似ている。両方とも「廷」の字が含まれている。ムム! これはひょっとして、漢語の「法廷」「庭」とロシア語のсуд、садの語源には共通のルーツがあるのか?

漢字の「廷」の字義は、えんにょうが「階段」を表し、「階段の前につきでたにわ」のことで、政事や裁判を行う場所を意味する(→朝廷、法廷)そうだ。

「庭」もほぼ同じ字義。まだれは「建物」を表すもので、「門から表座敷の階段までの空き地」ということらしい。

一方、судの語源は「契約、結合」を表すサンスクリット語にあるそうだ。「契約」「結合」は二つのものが結びつく感じが共通していると思うが、そこからロシア語の「法廷」という意味に到るには、どういう変遷があったのか…。私の手持ちの辞書では分からず。

садについては語源が記述されておらず、分からなかった。が、たぶんсудとは関係はなさそう。

という訳で、日本語(漢語)の「法廷-庭」とロシア語の「суд-сад」がそれぞれ似ているのは、たまたまということだろう。

っていうか、こんな話題、あんまり関心は集めないと思いつつ。

2011/11/03

赤ちゃんは人間か大根か、はたまたペンキか?

日本語では、生まれて間もない動物の子供を「赤ちゃん」と言う。「赤ちゃん、赤ん坊、赤子」などの言葉は、生まれて間もない人間の子供の体が赤みを帯びているところに由来する。

さて、キルギス語で「赤色/赤い」はкызыл(クズル)という言葉である。これに派生語を形成する接尾語ча(チャ)を付けるとкызылча(クズルチャ)となり、あるものを指す単語になる。クズルチャとはどんなものか?

ロシア語では「赤い」はкрасный(クラースニー)。ちなみにロシア語では「赤、赤色」を名詞一つで表す単語は存在しないようで、「赤い(形容詞)+色(名詞)」と言うことになる。ロシア語の「赤い」は、形容詞の「美しい」красивый(クラシーヴィー)に派生する。赤いものは美しいということだったのかしらん?

ロシア語の「赤い」が派生してできたと思われる名詞がкраска(クラースカ)。これもどんなものか想像していただきたい。

キルギス語の「クズルチャ」、ロシア語の「クラースカ」。それぞれ「赤」から派生した単語である。その示すものは「クズルチャ→ビーツ、甜菜《てんさい》」「クラースカ→ペンキ、塗料」である。

ビーツは名前だけしか知らない野菜だったが、日本でロシア語を教えていただいた先生にボルシチ(ロシアのスープ料理)を作っていただいた時に初めて見た(そして味わった)。ビーツは赤というよりは赤紫という感じの色の野菜で、これで作るためにボルシチはその独特の赤紫のスープになる。砂糖大根という別称もある。

ロシア語では、「赤っぽいもの」が塗料の代名詞的な単語になっているのが面白い。

ついでなので、英語にも同じ様なのがないかと調べてみたが、redから派生したらしき単語は見つけられなかった(知っている方、教えてください)。ただ、「深紅(色)」を意味するcrimsonという単語を調べたら、crimson lakeというのがあって、これは「赤の顔料」を意味するのだそうな。lakeは「湖」ではなく「顔料」のことで、lakeだけで「深紅色」として使えるらしい。「顔料(塗色材)=赤、紅」という図式で考えると、ロシア語のクラースカと似ている。やっぱ、こいう点で言語的な発想が近いんだろうか?

2011/11/02

TPP加盟論議と国外脱出

日本の外交・経済政策の中で、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)への加盟の是否が大きな案件になっている。TPPとは何のことかもわからず、ぼんやりしていたのだが、こう連日「TPP」の文字がニュースに出てくる状況で、知らないでは済まされない。
TPPに加盟することで、日本の経済はとてつもない国際競争にさらされ、数年~十数年後にはその競争の中で破れて、日本経済は農業も工業も金融も、その他サービス業も、ほぼすべての分野で没落してしまうのではないか、という危惧を感じる。
しかし、政界・財界にはTPP加盟を推進しようという動きが強いようで、ここのあたりが私には不可解であると同時に、不気味で恐ろしい。
で、これまでにも何度かこのブログで引用したことのある内田樹(たつる)氏のブログに、腑に落ちるものを感じたので、今回も一部を引用する。
雇用と競争について (2011.10.20)
  • 当節はやりの「グローバル人材」とか「メガコンペティション」とかいうことを喃々と論じている人たちはおそらく「この一億二千万人は日本列島で生活するという運命から逃れることはできない」と言い切ることができまい。
    「競争で勝ち残らなければひどい目に遭う」という命題を彼らは国際競争についてだけでなく、実は国民間の「生き残り競争」にも適用しているからである。
    「競争で勝ち残れない日本人はひどい目に遭ってもしかたがない」と彼らは思っている。
    あれほど「競争力をつけろ」とがみがみ言い聞かせて来たのに、自己努力が足りなかった連中にはそれにふさわしい罰(列島からでられず、貧苦に苦しむという罰)が下るのは「しかたがない」と思っている。
    そういう人たちは別に何のやましさもなく、日本列島を出て、愉快に暮らせる土地に移って行くだろう。
    下村は逆に「その手」を封じて、経済について考える。
    「まずオレが食って行くためにどうするか」ではなく、「まず一億二千万が食ってゆくためにどうするか」を考える。
    話の順番が違うのである。 生産性を上げなければ国際競争力はつかない。
    生産性を上げるためには人件費を最低限まで抑制しなければならない。
    だから、「生産性が高くなればなるほど、雇用機会が減少する」というスパイラルが起こる。
    (略)
    「生産性を上げる」というのは端的に「人件費コストを減らす」ということである。
    だから、付加価値生産性の高いセクターでは、雇用はどんどん減る。
グローバリストを信じるな (2011.10.25)
    • 「生産性の低い産業セクターは淘汰されて当然」とか「選択と集中」とか「国際競争力のある分野が牽引し」とか「結果的に雇用が創出され」とか「内向きだからダメなんだ」とか言っている人間は信用しない方がいい、ということである。
      そういうことを言うやつらが、日本経済が崩壊するときにはまっさきに逃げ出すからである。
      彼らは自分のことを「国際競争に勝ち抜ける」「生産性の高い人間」だと思っているので、「いいから、オレに金と権力と情報を集めろ。オレが勝ち残って、お前らの雇用を何とかしてやるから」と言っているわけである。
      だが用心した方がいい。こういう手合いは成功しても、手にした財貨を誰にも分配しないし、失敗したら、後始末を全部「日本列島から出られない人々」に押しつけて、さっさと外国に逃げ出すに決まっているからである
      「だから『内向きはダメだ』って前から言ってただろ。オレなんかワイキキとバリに別荘あるし、ハノイとジャカルタに工場もってっから、こういうときに強いわけよ。バカだよ、お前ら。日本列島なんかにしがみつきやがってよ」。
      そういうことをいずれ言いそうなやつ(見ればわかると思うけどね)は信用しない方が良いです。
      私からの心を込めたご提言である。
是非、本文全体も読むことをお勧めしたい(私のブログを読む暇があったら、内田樹氏のブログを読まれるほうが余程よい)。
上記のブログは、TPP加盟推進の論理を理解するのに役に立つと同時に、私自身、痛いところを突かれた気がした。「日本がダメなら、外国で暮らせばいいじゃん」という発想が、自分の中のどこかに無かったと言えば、それは嘘のように思ったからである。
もちろん、私は高級外車を乗り回し、日本国外に別荘を所有するような「勝ち組」ではない(と断るまでもない)。だが、これまで日本以外、それも発展途上国という日本よりもはるかに物価の安い国で生活した経験から、「日本で生活できなくなったら、物価の安い国へ行けばなんとかなるんじゃないか」と考えたことはある。
内田氏はそういうケースについては書いていないが、国外脱出を発想している点では同じように卑怯であると、私自身は受け止めた。余談だが、このように、内田氏の著述物を通して、自分の考えをひっくり返されることが何度かある。氏の書いたものを読み続ける所以である。
TPP加盟推進派は、加盟によって発生する国益を強調するが、本当にそのシナリオ通りになるのかどうか。成功・勝利のシナリオと同時に、失敗・敗北のシナリオも想定しておくべきだろう。もちろん、反対派も同様である。加盟しなかった場合の成功シナリオと失敗シナリオの両方を提示するべきだ。加盟しなければ、そのこと自体は現状と変わらないが、他国の市場に参入できないなどの機会喪失という形の損害が考えられるからだ。
私の「国外脱出計画」にしたって、日本経済が没落した後に、他国へ移住しようとしたって、その時に日本円の価値が今と同じだとは限らない。今は発展途上国として、経済面では日本の格下にある国々が、十数年後には日本を追い越している可能性もある。
これはグローバリズムという潮流も併せて考えなければならないが、いつまでも「発展し続ける経済」を前提にしていては、我々はもうどうにも立ちゆかなくなりつつあるのではないか。今の豊かな生活よりは縮小せざるを得ないが、まあそこそこは喰っていけるというレベルで維持安定していかざるを得ないのではないか。そこの覚悟が、私も含めて日本人はまだ持てないでいる。



2011/11/01

世界人口70億人

2011年10月31日、全世界の人口は70億人を突破したと推計されるとのこと。

今世紀末には100億人を突破すると予測されているのだとか。もちろん、私は世界最高齢の記録を20年くらい更新しない限り、その時に居合わせることはないはずだが、80~85億人あたりなら居合わせる可能性はありそうだ(2035年頃?)。90億人も2050年頃の予測だから、ギリギリいるかも。その頃には当然、40年前にこんなブログを書いていたことは忘れているに違いないが。

人口の増加は、食料、水、エネルギーなど、すべての物資の不足をもたらすと言われている。いや既に起きていることなのだが、日本では私も含めて、まだ自分の身に迫った危機として実感がない人がほとんどなのではないだろうか。

日本は人口減少の傾向が続いているから、相対的に世界の中での日本人の比率は下がっていく。個人的には、1億人ぐらいのところで維持していれば、国内経済は回っていくのではないかと漠然と思う。もちろん、経済指標での世界上位にいることは困難になっていくだろうが。

「少子化対策」とここ20年以上も言い続けている日本がある一方で、人口の増加が止まらずにいる国々がある。不思議というか、皮肉というか…。

100億人もの人間が生息する地球は、一体どんな様相を呈しているのだろうか? 自分は見ることはないが、興味はある。いや、実際にその時に居合わせる人間たちにとっては笑い事ではない問題が山積しているのかも知れない。100億人の人々が「こんな時代に生まれなければよかった」と嘆いているような不幸で悲しい時代になっているのだろうか…。

そうそう、こんなニュースもあった。

ツケは将来世代に回しているということ、か…

2011/10/31

キルギス大統領選 当確者発表

昨日(10/30)行われたキルギス次期大統領選は即日開票作業が行われ、アタンバエフ候補の当選確実が報じられた。

事前の予想通り、アタンバエフ候補が強かった。1回目の投票で過半数の得票があるかが注目点だったが、それもクリアした。

2011/10/30

NHKラジオでキルギス大統領選報道

短波放送でNHKの海外向け放送(NHKワールド)を聞いていたら、日本時間10月30日午後8時のニュースで、キルギスの大統領選挙について報じていた。これは日本国内でもラジオ第一で同時に放送されているもの。一応、この時間のトップ項目扱い。

A候補の優位を伝えていたが、今回の投票で有効投票数の過半数を得なければ、決選投票に持ち越しとなることと、選挙のよって大統領が決まれば、中央アジアでは初めて平和的なプロセスで大統領が決まることなどに言及していた。

こちらの時間で、あと30分ほどで投票は締め切られる(午後7時まで)。その後、開票作業に入る。

私のいる村はいつもと変わらぬ日曜日という感じで、道の並びの別の家では、結婚式があったようで人がワイワイと集まっていた。投票日だからといって、治安部隊が巡回し、厳戒態勢になるような状況のほうが怖いわけで、村人たちがいつも通りの生活をしていること自体、少なくともこの村では選挙が平和裡に行われている証だろう。

珍しい動物

キルギスの首都、ビシュケクにある遊園地(公園のような感じで、入場料はない。アトラクションごとにお金を払う)で、珍しい動物を見つけた。

シマロバ

シマロバ。

もっと寄ってみると…

シマロバ

世の中には、珍しい動物がたくさんいるもんですな。

(ただただ、ケチな動物愛護団体がケチをつけることがないことを祈るだけだ。)

キルギス大統領選、本日投票日

何度かこのブログで書いてきたように、本日10月30日はキルギスの次期大統領を選出する選挙の投票日。

前日から、選挙の情勢を伝える報道は禁止されたらしい。「○○候補が一歩リード」「○○候補は伸び悩む」などの報道が、有権者の投票行動に影響を与える(なんとか効果って名前があったと思うが、忘れた。「アナウンス効果」だったか?)ので、それを制限したということだろう。

日本ではどの程度報道されるか分からないが、テレビならNHKの日曜夕方に世界のニュースをかいつまんで流す番組があったような気がする。いつも日本でのキルギス報道について連絡をくださる方からは、NHK-BSの「World Wave」という番組でキルギス大統領選のことが触れられていたという情報もあった。

私はたまたま協力隊でキルギスに来たから、こんなふうにキルギスの大統領選のことを書いているわけで、もし違う国に行っていたら、キルギスのことなんて、一生、気にもならなかったかも知れない。

このブログを呼んでいる諸兄諸姉も、キルギスという国にはほとんど関心もないだろうが、まあ、このブログを読んだのも何かの縁、日本のニュースメディアでキルギスのことが報道されていないか探してみてはいかがだろうか。

2011/10/29

時差とメール送信

時差で困るのがメールである。

メールは電話と違って、相手が都合の良い時間に読めるから、電話よりも迷惑がかからなくて便利、という面はあるが、最近は、携帯電話(今流行の「スマホ」ってやつは携帯電話には入るのかどうか?)でメールをする人も多く、ーー実際、私がメールを送る人のうちの何人かは携帯電話のメールアドレスしか知らないーー。

携帯でメール受信をするのは、着信があればすぐに気付けるので便利なのであるが、送信と同時に相手方の携帯がピロピロ鳴るので、電話と同じになってしまっている面もある。

そこで困るのが、こちらは普通に起きている時間でも、時差があるために、日本にいる先方にしてみれば深夜ということがある。例えば、私が深夜0時にメールを書いて送ろうと思うと、日本は午前3時である。メールアドレスが携帯メールであると、「この時間にメールをすると、起こしてしまうな。明朝にしよう」と思い、翌朝起きて8時にメールをする。それを受ける相手方は既に昼に近い11時である。

時間が7~8時間ずれるだけのことである。別に急ぎのメールをすることはないので、特に問題が発生したことも、(おそらく今後も)することもないのだが、そのちょっと待つのがストレスに感じられる時がある。

携帯電話の普及で、連絡の即時性は高まったが、一方で待つことの耐性が下がったと言われる。私自身にもその傾向があてはまるようだ。

時差3時間

日本とキルギスは時差が3時間ある。日付変更線を基準に見れば、日本が3時間早い。キルギスは夏時間はないので、一年中、3時間の時差は変わらない。

時差3時間なので、こちらで9時に職場に出勤する頃、日本で働く人たちは昼休みに入る頃である。こちらで仕事が終わって帰る夕方4~5時は、日本では風呂に入って夕食を食べている頃か。

私は相変わらず短波ラジオ受信でNHKの海外向け放送を聞くことが多いのだが、日本で放送されているものと同時に流れているものは、アナウンサーが「皆さん、おはようございます」と言う時間は、こちらはまだ未明だし、「こんにちは」という時間は、ぼちぼち職場に行きますか、と腰を上げる時間。その度に「日本はもう朝(昼、夜)なんだなぁ」と思う。

「今」という瞬間に、違う場所でそれぞれ生きているのは間違いない。それが証拠に、こちらから日本に電話をしても、3時間先の未来の人と話す訳ではない。日本から見れば、3時間後の過去の人と話している訳でもない。当然の話である。

しかし、生活場面としては、向こうは朝でこちらは未明、向こうは昼でこちらは朝、となっている。同じ瞬間に生きていながら、それぞれ生活場面は異なるのが、いつも不思議なように感じる。

2011/10/28

マルシュのパンク

  先日、長距離マルシュ(乗り合いミニバス)に乗っていたら、「パーン」と音がしてガタガタと車の挙動がおかしくなった。すぐにパンクと分かる状態。右後部のタイヤから音がしたのだが、私はちょうどその真上の席に座っていた。

運転者は徐々にスピードを落とし、道端に停車。タイヤ交換が始まった。

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やはり右後部のタイヤがパンクしていた。

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乗客は、作業(ジャッキで車体を上げる)をしやすくするため、自主的に外に出て作業を見守っていた。タイヤ交換は15分程度で終わり、再出発。

マルシュの故障は多いと聞くし、実際、路肩で修理をしている車はよく見かけるのだが、自分が乗っているマルシュにトラブルが起こったのは初めて。事故につながるものでなくてよかった。

それにしても、交換したタイヤも溝が浅かったが、中古か何かで買ったのか…?

2011/10/27

分かれて訓練言語

協力隊は、それぞれの国に渡航する前に、日本国内で約2ヶ月間の訓練を受ける。発展途上国という、現在の日本とは大きく生活環境の異なる国々で2年間生活するにあたっての、異文化適応の心構え・方法、犯罪や交通事故などのリスクを避けるための安全確保などなど。そういう講座もあるが、なんと言ってもメインは行き先で使う言葉の訓練である。私の場合はロシア語であった。

訓練は1年半前のことだから、今さら何をという感じもするのだが…。

キルギスの協力隊の場合、派遣地域・職場によって、訓練をする言語がロシア語とキルギス語に分かれていた。キルギスではその2つの言語が使われているので、それに合わせて隊員もクラス分けがされていた。

隊員が集まることがあると、現地語の決まり言葉(日本語で言うなら「すげぇ」「やべぇ」「オーケー」など)使ってやりとりすることがあるが、キルギスの場合、習得した言語が異なるので、これがいまいち盛り上がらない時がある。

そう思って思い返すと、マレーシア時代は、現地で使われている言語はキルギスよりもさらに多かった(マレー語、中国語、ヒンドゥー語、その他先住民族の言語。中国語はさらに北京・広東・福建などに分かれていた)が、協力隊が訓練を受けるのはマレー語ひとつであった。

ひょっとしたら1つの派遣国で2つ(以上)の言語に分かれて訓練をしている国は、協力隊全体の中でも珍しいのではないだろうか?

キルギスの隣国、ウズベキスタンもロシア語とウズベク語に隊員は分かれて訓練をしていた。ウズベキスタンも旧ソ連の一部であり、英語がほとんど通じない点がキルギスと似ている。同じ派遣国で、訓練言語が異なるのはこの2国しか私は知らないが、他にもあるのだろうか…

2011/10/26

「政治的な安定」について

ここ数年の日本の政治は、ほぼ一年ごとに首相が変わっていて、国内外から批判を受けたりもしているのだが、それで独裁的な政治になりにくいメリットもあるという論もあるようだから、良いのか悪いのかは一概には決められるものではなさそうである。

首相・内閣が一年周期で変われば、政治方針も変わるから、政治は不安定になるように思う。だが、この「政治が不安定」というのは、そういうことを指す言葉なのだろうか? と、ふと疑問に思った。

日本では、選挙結果が自分の支持政党・候補者に有利なものでなかったといって、革命が起きるという話は考えられない。だが、選挙の度に治安状況が悪くなり、投票前から各陣営が一色触発、場合によっては内戦になりかねないという国のニュースはいくつも聞く。

今年は「アラブの春」と呼ばれる、北アフリカ・中東の複数の国で、独裁者が民衆に打倒される歴史的な事件が起きた。つい数日前も40年独裁を続けた支配者が反対勢力に殺害された。独裁者が排除されたので、これで国民は安寧な生活が始められるのかと思えば、既に政治・宗教の立場の異なるグループの勢力争いが始まっているという。独裁政権がなくなればすぐに平和・自由な社会になる訳でないところに、人間社会の難しさか。

そのような問題は、政治の安定性というよりも、社会の安定性の問題なのかも知れぬ。社会が安定しているから、政権が短期間に変わり、政治が多少不安定になっても大丈夫なのか。

キルギスも大統領選挙前後で、一応、治安情勢の悪化に注意はしなければならない(村で生活している限り、不穏な雰囲気は今のところないが)。選挙の度に、暴動などの危険度が高くなるというのも、日本では想像しがたいことなのだが、世界にはそういう国が多くあることも事実なのだ。

2011/10/25

日本で見られるキルギス映画 『明かりを灯す人』

キルギスの映画が日本で公開されているようだ。

タイトルは『明かりを灯す人』。イシククル湖ほとりの村が舞台だというから、私の住んでいる村とも似ている風景かもしれない(私のいる村は湖のほとりではないが)。

ネットで紹介されているのをたまたま見つけた。そういえば、キルギスの協力隊の誰かが、キルギスの映画が上映されていると話していたような気もする。

明りを灯す人

手作り風車で村中に明かりを灯そうとする男の姿に見る、本当に豊かな生活とは?

<注目映画紹介>「明りを灯す人」 マンガのような素朴な村人たちが大きな力に翻弄される

全国どこでも上映館があるわけでないだろうが、もしチャンスがあったら見に行ってはいかがだろう。映画館のスクリーンで見たら、キルギスの自然の美しさを実感できることだろう(村の中は、路上にごみが散乱しているのだが…)。

キルギス大統領選挙の状況

10月30日の大統領選挙の投票日を控え、JICAキルギス事務所のほうから関係者に、大統領選挙の状況や投票日前後の注意事項の説明があった。

前に大統領選挙の候補者が30余名いることを当ブログで書いたが、現在は17名になっているそうである。その中で有力と目される候補は5名。

選挙で過半数を超える候補者が出なかった場合は、(上位2名による?)決戦投票が行われるそうである。

注意事項として、今回の選挙で、特に暴動等に結びつきそうな気配は今のところないが、開票結果に不満を持つ(支持した候補の得票が少ない等)一派が抗議行動をしないとも限らないので、開票作業のあたりは外出を控えるなどの注意をするように、とのことである。

候補者数が17名で、有力候補が5名ということだから、おそらく1回目(10月30日)の選挙では過半数を超える候補者はないのではないだろうか。そうすると決選投票にもつれるわけだが、先回書いた「大統領選挙が盛り上がっていないみたいだ」という印象はこのあたりに原因があるのかも。

どうせ1回目の選挙では大統領は決定できないから、今からヒートアップしても仕方ない、というような感じか。決戦投票の時には、必ず決着がつくから、その時には選挙キャンペーンも大規模にやるのだろうか。

2011/10/24

大統領選挙は盛り上がっているのか?

いよいよ来週10月30日に迫っているキルギスの次期大統領選挙。

昨年の今頃は議会選挙があって、投票までの1ヶ月間は、各政党がキャンペーンで主要各地を回っていて、私の住んでいる村でも週末は必ずどこかの政党の集会があった。二つの政党が町の中心の両端でそれぞれの集会を開いていたこともあった。

村規模では党首が来ることはなかったが、幹部くらいのレベルは来て演説をしていたようである。キャンペーンでは政治演説だけでなく、歌手も来て、ステージ(選挙カーの上や村の広場)で歌を歌っていた。村人が選挙集会に行く目的はそうした歌手を見るほうが大きいのではないかと思うほどだった。

今回の大統領選挙でもそうした動きが入れ替わり立ち替わり見られるのかと思っていたのだが、これまでのところ、村ではただ一度あっただけである。

う~ん…

ひょっとして、大統領選挙は盛り上がっていないのだろうか? キャンペーンの華やかさと、有権者の選挙への関心はイコールではないだろうが、キャンペーンに関しては、昨年の選挙とは明らかに異なる。

残り1週間、選挙キャンペーンは行われなさそうな気がする。写真を撮っておきたかったのだが、それが残念である。

2011/10/23

両替所

キルギス、特に首都ビシュケク市内では両替所を到る場所で見かける。

両替所は、両替レートのボードを出しているから、すぐにそれだと分かる。

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両替で扱っている通過は、米ドル、ユーロ、ルーブル(ロシア)、テンゲ(カザフスタン)、ポンド、中国元である。場所によってはポンド、元はないこともある。残念ながら、日本円は扱っている店を見たことがない。

日本人の感覚では、こんなに両替所があるのは不思議である。それだけ外国人観光客が多いのか? いや、そんなに観光客がたくさんという訳でもないから、観光客向けに数が多いというのは正しくなさそうだ。

実は、利用するのはキルギス国民たちである。両替所に行くと、ドルやルーブル、ユーロなどの外貨を、ソム(キルギスの通貨)に替えている人を見る。

為替の変動を見極めて、ソム高の時に外貨を買い込んで、ソム安の時には売って差益で稼ごうとしている人もいるかも知れない。が、おそらくそういう人はほぼ間違いなくこういう町中の個人営業の両替所へは来ないだろう。

私の推測だが、人々は、貯金をする際は、ある程度の金額を外貨に替えて持っておくのではないか。つまり、自国通貨への信頼性が低いので、突発的な通貨価値の低下に備えて、信頼性の高い外貨に替えておき、必要な時に適宜、両替をしてソムにしているのではないだろうか。

日本では、そういう対策をしている人というのは、ごく少数の人ではなかろうか。それはつまり、日本国内において、日本円が一定の信頼性を持っているからで、外貨に両替する手間がなくてし済んでいるのである。