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2012/08/05

これまでのブログ閲覧統計

帰国してから10日以上経ってしまったが、2012年8月5日時点でのこのブログの閲覧に関する統計を記録として載せておく。

これらのデータは、GoggleがBloggerブログ作成者向きに提供しているもので、必ずしも正確な数値ではない。が、ある程度の傾向はつかめる。

国別閲覧数

日本    14,331
キルギスタン    2,498
アメリカ合衆国    1,425
ロシア    1,314
ウズベキスタン    680
ウクライナ    479
パラグアイ    201
ドイツ    186
ラトビア    139
タイ    94

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(Bloggerの管理者画面からコピー)

日本以外の国では、キルギス、ウズベキスタン、パラグアイなどは協力隊が派遣されている国々で、仲間が時々読んでくれていたのかと予想される。

それ以外のアメリカ、ロシアなどは、どういうわけか、私のブログのURLがまったく知らないところでリンクを貼られていたことがあり、そこから訪れてきた人もいたようである。何度か英語やロシア語で記事を書いており、そういうことも関係しているのかも知れない。

私のブログとは直接関係ないような国からも閲覧してくれている人はいたようで、たまたま何かの検索で私のブログが引っ掛かり、ついでに検索したページ以外の記事も読んでくれたのではないかと想像している。おそらく、それらの国に在住している日本の方だろう。

このデータには出ていないが、一桁の閲覧数の国もあり、インターネットはどこでもでつながるものだと感心した。

ブラウザ別閲覧数

Internet Explorer    13,701 (60%)
Safari    2,690 (11%)
Firefox    2,607 (11%)
Chrome    2,195 (9%)
Opera    618 (2%)
Mobile Safari    496 (2%)
(Palemoon    123 (<1%)
UP.Browser    114 (<1%)
Iron    99 (<1%)
Mobile    61 (<1%)

やはりInternet Explorerユーザーが多いが、それ以外のブラウザもある。Safari、Firefox、Chrome、Operaと続いているが、この順位は一般的なブラウザのシェア順位と同じような気もするが、どうだろうか。

OS別閲覧数

Windows    18,488 (81%)
iPhone    1,556 (6%)
Macintosh    1,038 (4%)
Android    521 (2%)
Linux    496 (2%)
iPad    195 (<1%)
KDDI    119 (<1%)
iPod    108 (<1%)
Other Unix    81 (<1%)
DoCoMo    23 (<1%)

OSの比率もこんなものか、という感じである。私のブログの場合、日本で携帯で読んでくれていた人も結構いるようで、ごく少数ながら日本の携帯電話会社のOSがリストに入っている。

閲覧数の多い記事

    1. 【東日本大地震】 海外でも関心は高い 2011/03/14    264 ページビュー
    2. Восемь бараны в огороде (ニワニワハチトウノヒツジ) 2010/10/18    198 ページビュー
    3. Babylonのインストールはお勧めしない 2010/12/22, コメント(3)    196 ページビュー
    4. ロシア正教寺院  2012/01/01    186 ページビュー
    5. サンスクリット語から来たロシア語  2011/12/01    147 ページビュー
    6. プロ野球交流戦、今年もパが優勝か…  2011/05/30    109 ページビュー
    7. メーデー  2011/05/02    103 ページビュー
    8. この夏にビッグチャレンジ!  2011/04/01    101 ページビュー
    9. 個人的なお知らせ  2012/04/01    90 ページビュー
    10. 新月。暗闇の恐怖。  2011/06/01    88 ページビュー

昨年の3・11の時、私はキルギスの村にいたのだが、テレビでは衝撃的な津波の映像が繰り返し流されていた。そんなことを書いたブログが、私の書いた記事の中では最も閲覧数が多かった。ただし、この記事は震災後2~3週間は訪問者が多かったが、その後、だんだんと読まれなくなった。当時は、誰もが、あの大災害についてなんでもいいから情報が欲しいと思っていたのかも知れない。

3位の「Babylon」関連の記事は、いまだに訪問者が時々ある。つい最近も、知らず知らずのうちにこのソフトを入れてしまった人を見たが、相変わらず質《たち》の悪いソフトである。

キルギスにはまったく関係のない記事も入っているが、まあご愛嬌ということで許してもらいたい。そういう記事に検索で引っ掛かったのをきっかけに、前後のキルギスに関係する記事を読んでくれた人も中には多少いるだろうから、キルギスのことを知ってもらうためには、それも良しと思っている。

2012/07/26

去りゆくものは美しい

本日、キルギスでの活動の最終日。2年間の協力隊生活が終わる。

「走馬灯のように.」は、思い出さないのだけれど、2年という時を過ごしたのだから、もちろんいろんなことを経験した。

村での生活、都市での生活。

活動の場がなかった時期、専門性を活かせた時期。

落ち込んだこと、高揚したこと。

独りでの旅行、仲間たちとの旅行。

節約をしたこと、贅沢をしたこと。

キルギス人が嫌だと思ったこと、キルギス人って良いねと思ったこと。

日本では見たことがない物・こと、日本と共通の物・こと。

暑~い夏、寒~い冬。

キルギスの楽器たち(コムズ、口琴、チョポチョール)、日本から持ってきた楽器たち(ウクレレ、三線、ハーモニカ)。

恋しく思った日本食、恋しく思うであろうキルギス料理。

こんなことは書き出せばいくらでも続く。

それを体験している只中は楽しく思えない経験でも、帰国する今は、それらを辛いという感じでは思い出さないから不思議なものだ。

去りゆくものは美しい思い出に変わっていくのだろうか。

ひょっとしたら、協力隊参加者の中にも、辛い、悔しい気持ちを抱えて帰国する人もいるかも知れないから、あくまでも自分のことだ。

キルギスで、青年海外協力隊員として出会った仲間たち。みなまで言うな。迷惑をかけたことは重々承知しておる。が、みんなが私から受けた迷惑の思い出も、帰国の時にはきっと美しい思い出になっているはずだから、大丈夫(何が?)である!

とにかく、帰国を迎えた今日、「ありがとうキルギス、ありがとうキルギスの人たち」と思いながら、この任地を去っていけるのはラッキーなことには違いない。

このブログをずっと読んでいただいた方にも感謝である。ときどき読んでいただいた方、何回か読んでくれた方、今回たまたまこのページがヒットした方もありがとう。

活動終了とともにブログの更新も終了する人たちも多いが、このブログはまだ更新する予定である。キルギスで見聞したことで、書き残したことはまだあるし、それにブログ名を「千、尋ねる」としておきながら、1000回にはまだまだ遠い道のりである。

とりあえず、これがキルギスで書く最後の記事である。

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2012/07/04

封筒が売ってない

封筒が売っていなくて、自分で封筒を作ったわけ(というより子供たちの課題として作らせた)だが、本当にキルギスでは封筒は売っていないのだろうか?

手製の封筒(あくまでも教室内の課題に使うための物。これで郵便を出すことはたぶんできない…)を作った後だったが、キルギス人に「キルギスでは封筒は売っていないのか?」と質問してみた。

その相手によれば、「封筒は郵便局で売っている」のだという。なるほど、私が文房具店を探し回っても見つからなかったわけだ。日本で封筒を購入するとなれば、まずたいていは文房具店、もしくは今なら百均ショップへ行くだろう。日本の郵便局で封筒を買ったことなんか私はないから、そもそも郵便局で封筒が売っているのかどうかさえ知らない(文を書き込んで、それを折って封筒にするような郵便物があるのは見たことがある。配達料が普通の封筒で送るよりも安いはず)。

面白いもので、ここ(キルギス)は日本ではないのに、封筒を買おうとするとついつい日本と同じように文房具店を探してしまうのである。自分の中に「封筒=文房具店」という図式があるから、他の国でもそんなものだろうと疑わずにいるのだ。現地の人にしてみれば、「そんな所を探しても、あるわけないじゃん」ってなものに違いないのだ。

同じようなことが、別の物でもあった。

料理をするのに片栗粉がほしかったので、スーパーマーケットに行って小麦粉を売っている棚の近辺を探してみた。まあ、粉類はだいたいそのあたりで売られているはずである。簡単に見つかると思っていたので、「片栗粉」をロシア語でなんというか調べずに行ったのだが、これがなかなか見つからないのだった。

私の頭には「片栗粉=紙袋に入って販売」というイメージがあって、しかもその紙袋というのは細長い形状なのである。これは日本で売っている片栗粉の商品パッケージのイメージなのであるが、それと同じように売っているとは限らないとは思い至らずに、キルギスでも同じような紙袋で売られているに違いないと思い込んでいた。

しばらくは「キルギスでは片栗粉売ってないねぇ。コーンスターチとかで代用してるんだろう」と解釈していたのだが、片栗粉を使う料理をすることになり、あらためてロシア語でチェック(крахмал /クラフマール/ と言う)し、近くの小さな商店で尋ねてみたら、すぐそこにいくつも並んでいたのであった。

パッケージはプラスチック袋で、日本で言うならばお好み焼き粉なんかがそんな感じで売っていた気がする。さらに、その袋の中に別のビニール袋に入れてあった(二重の袋)。ハハハ、紙袋パッケージで探しても見つかるわけがない(ちなみに、кра.малは澱粉《でんぷん》の意味で、パッケージに「じゃがいもの~」とあるのが片栗粉、「とうもろこしの~」とあるのがコーンスターチになる)。

間違っていると気づくまでは、思い込み自体が自分にとっては正解だから、やっかいなものだ。

2012/07/03

楽して課題作り ~「援助」と「手抜き」~

封筒がほしいと思って、文房具店を探したのだが見つからない。どうも、キルギスでは封筒はあまり一般に使われていないようである。

封筒がほしかったのは、別に誰かに郵便を送りたかったわけではなく、自閉症児の指導教室で課題として使いたかったのだ。日本で障害者の作業所で勤めていたとき、ダイレクトメールの発送の下請けみたいな仕事で、封筒に広告チラシなんかを入れる作業があった。そういうのの練習と思って、今教えている子供たちにもやらせてみようと思った次第。

ところが封筒が手に入らないということがわかったので、さてどうしようかと思案し、手製の封筒を作ってしまおうと考えた。製図して、切り取り線、折り線、糊付け部分を示して、封筒を作ること自体を子供の課題にした。結構、手順・工程が多い作業だし、線に沿って切る・折るとかは連合した運動機能が身についてないとできないので、すべての子供にさせられはしなかったが、何人かの子供には工作課題になった。

こうして、私は封筒を自分で作る手間を省くことができて、子供たちも新しい課題を経験することができた(かつ、それは次の課題の材料として使われている)。

対象者が子供、障害児・者だという思いがまずあるので、こちらでお膳立てしておいて何かをやらせるという発想になりやすいのだが、過度にお膳立てをすることは、相手のできる(はずの)ことをこちらが奪ってしまっている危険もある。

福祉サービスの従事者は「援助者」という立場だから、「他者を援助する者」として自己規定するわけだが、「私」が他者を助けるばかりが援助とは限らない。時には「私」はあまり手伝わずに本人にやらせることも、その本人にとっては自立度・自律度を高めるための援助になる。

いわば、援助者が意図的に「手抜き」をすることになる。「手抜き」という日本語はイメージがよろしくないが、とにかくあんまり手を出さないということである。援助者である「私」なんていなくても、その子供、障害児・者はなんとかやっていけるようになるのであれば、それこそ援助者としては目的達成である。対象者がいつまでも「私」なくしては生活できないような援助は、相手に依存されるという点では、相対的な「私」の自己存在感を感じることはできるが、援助者としてはいかがなものか、と思う。

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(本文とは直接関係はないかも。いや、やっぱ、ある。)

2012/06/28

中古のほうが高いのはなぜ?

Amazonで本をあれこれ見ていて気づいたのだが、その本の中古が出品されている中に、定価(新品の!)よりも高い値段で売られている物がある。

たとえば、

http://www.amazon.co.jp/gp/offer-listing/4344982487/ref=dp_olp_used?ie=UTF8&condition=used

http://www.amazon.co.jp/gp/offer-listing/4344982487/sr=/qid=/ref=olp_page_next?ie=UTF8&colid=&coliid=&condition=used&me=&qid=&shipPromoFilter=0&sort=sip&sr=&startIndex=15

http://www.amazon.co.jp/gp/offer-listing/4480062459/ref=dp_olp_used?ie=UTF8&condition=used

とか。探せば、まだまだいくらでも出てくると思う。

これらの本は、別に稀覯本というわけではなくて、実際、定価よりも安い出品している業者もある。そういう中にあって、定価よりも高い値段で出している業者いるというのは、どういうわけ?

想像だが、うっかりな人が、間違えてそういう業者のところをクリックして購入してしまうのを狙っているとか? だとしたら悪質。

まじめに値段設定をした結果がこれなのだとしたら、それはそれで中古本を扱う業者としては問題であろう。

2012/06/22

食事会、プレゼント…

任期が残り少なくなると、任地での仕事の関係者、プライベートでの友人などから、「帰る前に一度食事を」と招待を受けることが増える。

もちろん、そうやって声をかけてもらうのは大変うれしい。障害児の指導をして、親がそうやって招待をしてくれるのは、私の指導の結果を好意的に受け止めてくれているから、ということもあるだろうから、ホッとする気持ちもある。

そうは言っても、帰国前というのは荷物の片付けやら、JICAへの報告の準備やらで、バタバタするのが常で、そういう時期に食事会が入ると、なおさらバタバタするのである。しかも、ボランティア同士のお別れ会みたいなものもあったりするし。

そういうのを見越して、帰国の準備を早くから済ませておける人もいるようで、私などは一生涯かけてもその段取りを身に着けることはできないものと諦めているが、要は帰国前にバタつくかどうかは個人の問題と言えなくもないわけだ。

食事の招待とともに、帰国時に悩まされるのが記念品のプレゼントである。プレゼントをくれる人の好意を台無しにする、人情知らずのたわ言を承知で言えば、帰国間際に荷物が増えるのはすごく気が重い。相手が好意・厚意で用意してくれたことがわかるだけに、置いていくのも心苦しい。

特に「勘弁してくれ~」と思ってしまうのが、陶器の皿とかコップの類である。「どうやって日本に持って帰ろう、これ?」となってしまうのだ。関係者には、あらかじめ「プレゼントは不要です」のお知らせを出そうかと本気で悩んでいる。

これは自分が「もらう側」として困っているという話だが、逆に自分が誰かを送り出す時には「あげる側」の悩みに転じる。形あるもので、かさばって壊れやすい物は、自分がもらったら困るので、人にもあげたくない。そんなことを悩んでいるうちに、別れの記念品なんてもらう必要もなければ、あげる必要もないと割り切って、握手して「ありがとう、さようなら」で十分だと考えるに到っている。

図書券、ビール券みたいな選択肢もなくはないだろうけど…。そういえば、キルギスではそういう金券の類を見たことがないなぁ。

2012/06/20

ブログ更新、停滞気味

このブログはできる限り、一日一エントリー(記事)と思っているのだが、更新が思うようにできていない。

新しい配属先に移って、自分の専門の自閉症に関わる仕事ができるようになって、前の配属先にいた時と仕事の状況が一変した。

自閉症児の個別指導を、私一人がやっている状況、かつ新しく開設した指導教室なので、教材の開発・作成や、個別支援記録などの書式作成、またそれへの記入を、ほぼ独りでやらなければならない状況となっている。

これは忙しいからと愚痴っているわけではなく、本当のところ、協力隊員として仕事が忙しいということは、それだけでも大変ありがたいことなのだ。協力隊で現地に行ってみたものの、さまざまな理由で仕事がなかったり、職場の中で役割が見つからなかったり、やってみても周囲の反応が薄かったり、ということで行き詰って悩んでいる隊員は案外と多いのである。

私自身も、前の配属先は、ある意味ではそういう状況で、ただ自分自身がいい加減なので、「相手がやる気がないのなら、何を言ってもやっても伝わらないな」と見切りをつけて、勤務時間中にパソコンでDVDを見ている同僚たちには構わずに、センターに来る子供たちと関わるというような感じであった。

それに比べれば、やることがあれこれとあって忙しいというのはありがたい。語弊があるかもしれないが、忙しいということは、それだけでも充実感を得られることも多い。やっている中身が有意義かどうかは別にして、とりあえず忙しいというそれだけでも「なんかしら活動はしている」という感覚はもてる(つまり、私が忙しくしているからといって、中身のある隊員活動をしているという保証にはならんということ。それは自覚しておかねばね)。

そんな状況もあって、ブログが更新できない日も続いてしまっている。という言い訳を書きたかったのだ。

実は、このエントリーも、表示されている日付よりも後に書いている。投稿した日は、ページソースとかRSSとかのどこかに記録されているのかも知れないが、表示されている日とずれがあるのはそういうことである。ご勘弁を。

2012/06/14

Сорта Спортов(スポーツあれこれ)

国、地域によって人気のあるスポーツ、競技人口の多いスポーツは異なる。日本だったら、野球、サッカーが筆頭で、他にバスケットボール、バレーボール、テニス、ゴルフなどと続くだろうか。いや、日本で一番競技人口が多いと言ったらジョギングかも知れぬ。さらに幅を広く取れば、ラジオ体操なんてのもありかも。

世界で一番愛好者が多いスポーツはサッカーということになるのかな? まあ、単一のスポーツでとってみればたぶんそうだろう。野球なんてのは、世界全体で見れば、かなりマイナースポーツである。キルギス人は野球(ベースボール)をやっている人は見たことがない(キルギス在住の日本人、韓国人、アメリカ人で対抗戦をやっていたらしいけど)。

まあ、スポーツの愛好に地域差があるのは当然で、太平洋の真ん中の島国で、アイススケート選手が誕生するかと言えば、それは絶対にありえない。逆に、キルギスからサーフィンの名人が誕生することもなり(海がないからね)。

テレビを見ていて、映画、ドラマは登場人物の言っていることが分からず、いまひとつ楽しみ切れないことも多いが、スポーツはそれがないから楽である。ルールを知っている競技であればなお分かりやすいが、仮にルールを知らない競技でも、見ていればだいたいは分かってくる。そんなわけで、スポーツ番組を見る時間が多くなっている。

さて、スポーツ番組を見ていて、日本人である私にはちょっと違和感があるのだが、よくビリヤードの試合を中継しているのである。ビリヤードって、日本ではスポーツには入れないと思うが、海外ではスポーツ競技として扱われているようなのだ。

まあ、ビリヤードは棒で玉を突く動作が入るし、玉突きのコントロールの絶妙さは、かなりのトレーニングの積み重ねによるのは間違いないわけで、そういう点では身体的な動きの要素は大きく、スポーツと呼んでもいいのかもしれない。

しかし、チェスとなるとどうだろう。チェスもスポーツ競技として扱われていて、放送されるのはスポーツ専門チャンネルである。日本には囲碁・将棋といったチェスに類したゲーム(特に将棋)があるが、日本人で囲碁・将棋をスポーツだと思っている人は少ないのではないか。学校のクラブ活動でもそれらは「文科系クラブ」として分けられている。

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(チェスはスポーツチャンネルで中継されている)

もし、囲碁・将棋をスポーツとして捉えている人がいるとしたら、それはおそらくそれらのゲームをかなり本格的にやっている人(プレーヤー)自身ではないかと思う。囲碁・将棋のタイトル戦なんかでは、対戦は2日にまたがって、それぞれの持ち時間9時間をほぼ使い果たすような戦いをしている。これは体力がなければできることではない。しかもその間、頭はほぼ100%思考し続けているのだから、すごいことである。

そう考えれば、チェスも囲碁も将棋も、スポーツというカテゴリーに入れても間違いではないという気もするが、日本ではどういう経緯か、文科系(⇔体育系)としてカテゴライズされた。ずっと座っているからかね。

そういえば、中国では麻雀がスポーツ(体育)に入っているそうである。麻雀も日本人感覚ではテーブルゲームであって、スポーツではないと思うのだが、麻雀発祥地ではスポーツになるのだから面白い。

これらのことを見ていると、「文科系」だとか「体育系」だという区分自体が、そもそも恣意的なものであるのだと気づかされる。だって、思考を伴わない競技はないし、身体を使わない競技もない。だから、日本人にせよ、日本以外の各国・各地域の人たちが、何をもって「スポーツ」と「スポーツでないもの」を分けているのかは興味深い点である。

何らかの形で勝ち負けを決めるものであればスポーツとして認められるのかと思ったのだが、でもおそらく、ポーカーなどのトランプゲームやルーレットなんかはスポーツとは言われないんじゃないだろう。ダーツはスポーツっぽい感じがするけど。他にも、文化によってスポーツか否かが分かれるものってありそうだ。

う~ん、それぞれの文化において、何をスポーツと見なすかは面白いテーマだと思うが、今からそれを考える気力はなし。今日はここまで。

2012/06/09

あと2ヶ月、やっぱり健康第一

パソコンだの、デジカメだのが故障しないでほしいと書いたが、もちろん何よりも大事なのは命と健康。

ここまで大きなけがも病気もせずに過ごせた。マレーシアの時も2年間、体がもったのだが、、その時はそれが当たり前のように思っていたが、あれから10年経つと健康に対する意識というか、自分も歳をとったせいか、大けが・大病せずに過ごせたということがありがたい(漢字で書けば「有り難い」)ことだと感じる。

先日、隊員同士で外食した際、瓶ビールを頼んだら栓抜きがなかったので、どうしようかと話していて、歯で開けられる人がいないかということになったのだが、そんなことをしたら歯が欠けてしまうかも知れないという話になって、すると中の一人が「ukulele chanは、あと2ヶ月で日本に帰れるから、今、歯が欠けてもすぐ治せるからいいでしょ」と言った。

いやいや。あと2ヶ月だからこそ、こんな時期に歯が欠けると悔やみきれないことになるのだ。

任期開始直後に健康トラブルになるのも気が滅入るが、任期終了間際に健康トラブルのも「あ~あ、もったいない」という気になる。じゃあ、その中間だったら良いのかと問われれば、もちろんそれも歓迎できる話ではない。健康を害するのは、いつだって嫌なのに違いないのだ(なんという平凡な結論…)。

それにしても、この2年間を振り返ると、腹を下したことが二、三度、発熱もやはり二度くらいあったかというくらい。季節の変わり目(だと自分では思っているが)になると、咳が続くことがあるが、これは日本にいる時からだからそんなものだとあきらめている。

協力隊の中には、任期途中で健康問題で帰国せざるを得なくなる人もいるわけだから、大けが・大病をせずに来られたのは、やはりありがたいことだ。あ、ただし、私の場合、基礎体力はかなり落ちたという実感はある。ま、これも歳だから仕方がない。

2012/05/24

そしてアリストン登場

ビシュケクでは、5月中旬からの1ヶ月間、市内への温水の供給が止まるのだが、その間、各家庭ではどう対処するのか?

もちろん、すべての家庭の状況を知っているわけではないので、私の見聞する範囲の話になるが、ビシュケクで温水供給が休止になる時期は、それぞれの家庭では備え付けの電気湯沸かし器で湯を沸かしている。

ちなみに、我が家(借家)ではトイレ内にその湯沸かし器が設定されている。

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(トイレの天井近くに設置されている湯沸かし器)

温水供給が止まるまでは作動させていなかったが、温水が止まる日に大家さんが来てくれ、湯沸かし器の電源を入れ、配管を開けるのをやってくれた。

そのおかげで湯が使えるのはありがたいが、なにせ湯を沸かすわけだから、この機械自体が熱を持ち、トイレ内の温度がこれまでよりも高くなってムシムシする。温度が高くなって、コバエの繁殖スピードが速まるのか、羽がハート形をした、日本でもおなじみのコバエがたくさん発生するようになっているように思う…。「ムシムシする」は「蒸し蒸し」と「虫虫」の両方に係っているのか…

この電気湯沸かし器、一番有名かつ人気があるのが「アリストン」という会社のものらしく、キルギスの人たちはその商品名で湯沸かし器のことを指して使ってる。「アリストンの電源、切っといて」みたいな感じ。

固有の商品名が、その商品全体を表わすものとして使われる例はほかにもたくさんある。「パンパース=おむつ」「ピンポン=卓球」「エレクトーン=電子オルガン」「オセロ=白黒陣取りゲーム(リバーシ)」「マジック=油性マーカー」などなど。昔はテレビゲームと「ファミコン」も同義語だったような気がする。ここに挙げた商品名以外にも、私が気づかずに「○○」と言っている物が、実は商品の固有名詞だということはあるのである。

私、こういうのはなぜか好きなのである。その商品を開発した人、会社にしてみれば、そこまでその商品がビッグネームになるとは思っていなかったはずのものが、いつの間にか商品群の代名詞になっている。開発者・社にしてみれば、ちょっと感動ものの話ではないだろうか。

NHKは、特定の商品名を出してはいけないのが原則らしく、視聴者参加の生放送なんかで、一般の人が何の気なしに「最近、○○に凝ってましてぇ…」なんてことを言って、アナウンサーが慌てて言い換えているのを見たり聞いたりするのが、なんとも言えないスリルを感じてしまうのである。

特に、ラジオ第一で平日の午後にやっているラジオ電話相談では、DIY(Do It Yourself、日曜大工)や園芸の相談の日は、相談者が呑気にも商品名を口走りはしないかと、ハラハラしながら聴くのがちょっとした楽しみであった。

だいぶ話がそれたが、そんなわけで、今は我が家のアリストン(本当の製品名は“thermex”と書いてあるが…)が活躍中であり、トイレは熱がこもらないように扉を半開き、という状況である。

2012/05/23

マナスチュと琵琶法師

キルギスの英雄物語『マナス』を語るマナスチュについて書いていて、日本の琵琶法師のことをちょっと考えた。

日本でも琵琶法師も、マナスチュに類似したストーリーテラーであった(まだいるのか?)。口承で物語を覚え、それを語る。それが廃れてしまったのはなんとももったいない限りである。かたやキルギスではマナスチュは今も健在である。

両者の一番大きな違いは、琵琶法師の場合、琵琶という楽器が弾けなければならないので、これは大きなハードルであることは間違いない。マナスチュのほうは、今でいう“ラップ調”に語るスタイルなので、楽器演奏はしなくていい。

琵琶法師は盲人がなるものだったようだが、手元の電子辞書に所収の「ブリタニカ国際大百科事典」でその項を見てみると、当道《とうどう》という琵琶法師の自治組合があったのだが、明治にはいって当道制度がなくなり、それに伴って琵琶法師も激減したそうである。

かつては、一般の職には就けない盲人たちの自活手段として琵琶法師という道があったのだろうが、そのことが逆に「琵琶法師=盲人の仕事」という固定化につながり、盲でない者の中からは『平家物語』の語り部になろいうという者が出ない構造になったのではないか。このあたりの、なり手が絞られてしまった点も、琵琶法師とマナスチュとの違いだと思った。

ベベベン。

2012/05/15

横浜DeNA、返金チケットに思う

日本のプロ野球。今年は横浜が球団売却されて新球団になった。もう5~6年、最下位が定位置になっているチームで、今シーズンも戦力的にはかなり厳しく、成績もよろしくない。それでも、中畑新監督が就任して、なんだか他のチームにはない、独特の面白さを醸し出しているように見える。横浜のファンではないが、セリーグの中では断然、このチームを応援したい。

さて、その横浜だが、球団は勝敗に応じて返金できるチケットを販売していた。このチケット、「横浜が負ければ全額返金、横浜が勝っても、試合に満足しなければ半額返金に応じる」という企画であった。「勝っても返金」って、なんか変だなと思っていたのだが、この企画が終わってニュースサイトで評判のようなものが載っていた。

トイレ混みすぎ…好調DeNAに「金返せ」行列

試合とは関係のないところで「満足、不満足」が語られていて、要は安売りチケットとして認識されていただけではないかと思われる。この企画の結果について、特に勝っても返金申請が多数出ていたことについて、中畑監督は「選手の士気に影響する。二度とこのような企画はしないでほしい」旨、語ったそうな。監督も選手もかわいそうに…。

この企画について、伊集院光もラジオ番組で触れていたようで、面白いことを言っている(ラジオ番組の内容を文字に起こしている「世界は数字で出来ている」から一部引用)。

伊集院光「横浜DeNA 返金チケットは失敗だ」

この場合、自分の中に『これは返金できる/できない』じゃなくて、『負ければ全額、勝ったら半額っていうチケット』だって思ってるのかな、と。2千円の、もしくはただのチケットってことで買ってるなら、もう出さないほうが良いよ。まともなお金で入ってる人に対しての、むしろ購買意欲を下げるチケットに過ぎないから

これ、本当にそうだと思う。私は、このチケット企画の話を聞いた(読んだ)ときに、まさにそのように受け取った。もっと言えば、「横浜が負ければチケット代がタダになる。ならば、横浜、負けろ~」と逆応援をすることになるんじゃないか、と。これでは、現場で戦っているチームはやりきれない。

その後、伊集院は面白いアイデアを出している。

負けた回では、チケットを切らず、『勝った試合5回見られるチケットですよ』ってことではダメなんかね?負けた試合では、チケットにハサミは入らないけど、勝った試合は入るから、『これは5勝分見られるチケットですよ』っていうんなら分かるんですけど(略)

伊集院光のオリジナルアイデアなのかどうかは知らないが、これは面白い。もちろん、いつチケットにハサミを入れるのかとか、そのチケットを持った人が蓄積した場合、座席が不足しないか、などの課題はありそうだが、考えれば解決策は見つかりそうなレベルである。

伊集院光のアイデアを聞いて、それを発展(?)させたアイデアを私も思い付いた。

ホームゲーム(横浜スタジアム)で、横浜が勝利したらシートにスタンプをもらえるようにし、スタンプが××個集まったら、1試合分のチケットと引き換えられる。

というのはいかが? これなら、横浜が勝利することを積極的に応援できる。さらに、スタンプを集めるまでは何度も球場に足を運ぶから、来場者数は上がる可能性もある。さらに思い付いた!

たとえば、5勝分のスタンプを集めたら、1試合分のチケット1人分と引き換え。
しかし、5勝分で引き換えずに、9勝分までスタンプを集めたら、1試合分のペアチケットと引き換え。
そこでも引き換えずに、15勝分までスタンプを集めたら、2試合分のペアチケットと引き換え。

なんていうのはいかが? 「15勝分を集める」って、ある意味、横浜の勝率で考えると40試合くらい見に行かなければいけないし、そのスタンプを集めている人が見に行った試合が負け試合ばかりにあたることもありうるわけで、達成はかなり厳しいかもしれないが…。こういう企画内容では法律上の問題があるのかしらん?

横浜の親会社となった企業は、無料ゲームで利用者を集めるというところらしいのだが、その「無料ならば人が集まる」という発想が基本にあるのかも知れない。企画の奇抜さで集客を狙ったのだろうが、その時、現場の監督、コーチ、選手、また今まで応援してきたファンのことはどのように考慮したのだろう。球団経営は、もちろん、ビジネスであるから、売上を上げることが目標であるが、野球チームは球団経営者だけのものではない。

野球チームはファンのものであり、そして現場(監督、選手、コーチたち)のものである。この人たちが、チームの勝利を喜べないような企画・仕組みを考えるようならば、そのうちファンも現場もチームに愛想を尽かしてしまうだろう。

2012/05/07

弦楽器兄弟たちの離散

気づけば、帰国まで残り3ヶ月を切っていた。ぼちぼちと荷物の整理も始めなければならない。

荷物の中で懸案なのは楽器類である。ギター、ウクレレ、三線《さんしん》、コムズ(キルギスの民族楽器)と、やたらと楽器があるのである。それらを「弦楽器4兄弟」と呼んだりもしているのだが、帰国の際に、これらをすべて持って行こうとすれば、かなり厄介である。

そこへ、たまたまのタイミングでもあるのだが、新隊員のうちでギター、ウクレレを練習してみたいという人が現れ、それぞれ譲渡なり、貸し出すなりする形で、私の元から引き渡した。これでだいぶ帰国時の荷物は楽になった。

コムズは、今のところハードケースがないから、手荷物で機内持ち込みになる。機内持ち込み荷物は、他にもパソコンとかがあるから、必要最小限にしておきたい。楽器はできるだけ機内持ち込みが望ましいから、数を減らせたのはよかった。

そういうことで、私の元にあった弦楽器4兄弟のうち、ギターとウクレレは別の人の所へ移って、兄弟立ちは離散することになった。

2012/04/29

短波ラジオ聴けない

ビシュケクに引っ越してから、生活の中で変わったことの一つはテレビを見られるようになったこと。ロシア語放送は何を言っているかほとんど分からない情けない状況ではあるが、映像があると理解のヒントにはなる。また、テレビは文字表示もあるので、それも辞書で調べるのには役に立つ。

ラジオも好きだから付けるが、こちらは映像・文字の補助情報がないので、単語が聞き取れなければもう手も足も出ない。村では入らなかったのだが、ビシュケクだと英語メインのFM放送局もあるので、最近はそこにダイヤルを合わせることが多い(実際は英語を聴きたいからというより、そこの局はジャズ、クラシックを多く流しているので、自分の好みに合うせいである)。

テレビを見られるようになった一方、ビシュケクに来てから、短波放送を聴くことはほとんどなくなってしまった。

ラジオ好きの人なら分かると思うが、ラジオは建物の建材や、周囲に電波を発生させるものがあるかなどで受信状態が大きく影響される。

今、私が住んでいるのは、コンクリート建材の団地建物(しかも1階)で、こういう場所では短波電波は受信が困難なようである。引っ越して最初のころは、ラジオ受信機を持って部屋の中で受信状態のよい場所を探してみたが、どこもよい場所がないようなので、もうそれ以上の努力はしなくなってしまった。

そういうわけで、村ではほぼ毎日聴いていた日本語の短波放送も、今はすっかり聴かなくなってしまった。私のラジオはもっぱらFM放送専用になっている。

2012/04/19

ソファ寝

どういうわけか、私はソファで寝るのが好きなのである。

ソファに寝そべりながら、テレビを見ながらだんだんとウトウトとしてそのまま寝る。本を読みながらウトウトしてきてそのまま寝る。ソファで食事をして、満腹の心地よさにウトウトとしてそのまま寝る。

いや~、頽廃的ですなぁ。

別に大豪邸に住んでいるわけではないから、ベッドまで行こうと思えば10秒で済む話である(マレーシア時代は一軒家を借りて住んでいたので、1階から2階に行くという面倒はあった)。

要は根が無精者なのである。でも、世の中、そういう無精者が多いらしく、ソファベッドなんていう家具もたくさんの種類が売られている。

ソファベッドは、ソファとして使っていた物を、就寝する段になったら変形させてベッドにして寝るのであるが、私が望むのはソファそのものに寝ることである。いちいち背もたれを倒したり、シートを引っ張り出したりといった作業なしで、そのまま眠りに入れることが無精者の理想である。

3人がけのソファであれば、大抵、横になるには十分な幅がある。2人がけだと足がはみ出して、姿勢に無理が生じて、起きた時に、体のどこかしらが痛くなっている。シングルソファで、フットレストが出てきたり、背もたれがリクライニングできる物があるが、あれはまさにソファ寝愛好者(=無精者)が考え出した物に違いない。

2012/04/11

髪の毛をめぐる異文化間の共通点

日本の大相撲(の2012年春場所)がキルギスでも2ヶ月遅れで放送されていたことをブログに書いた(大相撲の放送)。

この2年くらいの間に幕内に入った力士の名なんてほとんど把握していない。協力隊でキルギスに来ていることもあるが、日本にいても果たして新入幕力士なんてどれくらい関心を持っていたか…。日本国内でも大相撲への関心は下がっているのではないだろうか。この前、キルギスで見た大相撲の放送でも番付の下のほうの取り組みでは、土俵周りの砂かむりの席でも空席があったぞ。

昔は力士ののど自慢歌番組(プロ野球選手と対抗戦みたいな)とかもあったくらいだが、今はそんなのない。力士が出ているコマーシャルは何本あるのだろう?

まあ、相撲人気が下火になっていることはさておき、大相撲の放送を見ていたら、番付の下のほうの力士だったと思うが、髷《まげ》のボリュームがだいぶ淋しい人がいた。別の言い方をするならば、「頭が薄い」「禿頭症状の進行」ということである。確か、大相撲では、髷が結えなくなったら引退しなければならない。どの時代にも、残された頭髪を大事に結って、小さな小さな髷をのせているおすもうさんはいるものである。涙ぐましいほどの努力であり、そのことだけを以て応援したくなる人も多いに違いない。

それにしても、この「髷が結えなくなったら引退」という決まりは、相撲をスポーツとして考えてみれば奇妙である。第一、学生相撲ではみんな髷を結っていない。坊主頭で相撲をしている。大相撲になると髷ルールが出てくるのである(当たり前だが、入門したてで短髪の間は髷ルールは適用されないようだ)。

これは、相撲が本来、神事であることに関係があるのではないか。ふんどし一丁の“ほとんど裸”状態で行なうことや、四股を踏む・塩を撒くことなどに加えて、髷を結うことも宗教行事としての相撲の由来に関係があるのではないかと、勝手に想像するのである。

仮に、髷に宗教的な意味づけがあるとすると、そこから連想されるのは、髪にまつわる他の宗教・文化圏での考え方である。

以前から不思議に思っているのであるが、多くの宗教では「髪を剃る」あるいは「髪を隠す」という決まりが設けられている。仏僧は剃髪する。カトリックの修道女は髪を隠す。イスラム教徒の女も髪を見せない(肌も見せてはいけない)。異なる宗教なのに、なんか似てまへんか? 髪に対する、何か共通した意味づけでもあるのかと思ってしまうほどである。

旧約聖書にサムソンという戦士が出てくる。彼はむちゃくちゃ強いのであるが、髪の毛を切られるとたちまち力が出せなくなって、敵にやられてしまうのである。そして、また髪がのびたら力がみなぎってきて、再び強くなるという話である(正確なストーリーは旧約聖書を読むか、ネットで調べられたし)。

ここでは、髪は力の源という意味があるようである。髷も、ある程度以上の長さがなければ結えないものだから、サムソンと同様に長いほうが力が出るという信仰があったのだろうか…。もしそのように信じていたなら、昔の人にしてみれば、髪には本当にそういう力があった(髪が長いと力が出る気がした)のだろうと思う。

どうして我々は頭髪の扱いに色々と気を配るのかというのは、私にとっては不思議なことである。なにか人類の原初的な、あるいは生物的なところに根拠があるのかしら?

力不足ゆえ、私のブログではこれ以上は深められないが、禿頭差別・嘲笑には断固反対を唱える。そのことは書いておく(それで成り立っているビッグビジネスもあるんだけどね…)。まあ、ハゲを笑うのは百年後も千年後も続けているんだろうけどね、人類は。あ~、ばからし。

「七人の侍」やってた

深夜0時(そのくらいだと今は「深夜」と言わんのかな?)くらいに、テレビチャンネルを回していたら、何度も見たことのある白黒映像が出てきた。黒澤明監督作品の「七人の侍」である。

志村喬らの侍7人が村に入って、陣営の配置を決めるあたりから見始めた。まだ真ん中くらい。この映画、トータルで4時間を超える長さだったはずなので、「最後まで見ようか、見まいか」と思いつつ、結局、最後まで見てしまった。

放送はロシア語吹き替えであった。“吹き替え”というのはやや正確ではない。元の音声の上にロシア語をかぶせているのである。だから、日本語も音量は小さいがちゃんと聞こえる。こういう状況では、ロシア語のほうが音量は大きくても、かすかに聞こえる日本語のほうを聴いてしまうものである。母語の支配力というのはすごいものがある。

加えて、この映画はDVDで20回近くは見ているので、場面場面で、登場人物たちが何を言うのかは分かっている。忘れていたようでも、画面を見ていると「あ、ここではこう言うな」と思い出されてくる。だからなおさら日本語が聞こえてしまうんだな、きっと。

というわけで、2時間近く見ていたが、ロシア語の勉強には少しもなっていない。トホホ…。

そう言えば、哲学者内田樹がブログで、「七人の侍」の登場人物について論じていて、その中で、7人の中に1人だけ未熟な若侍・勝四郎が混ざっていることについて分析していた。なぜこのような即戦力にならない若侍をメンバーに入れたのか? という疑問に対する分析である(ブログ・内田樹の研究室『七人の侍』の組織論)。

内田樹曰く、他の6人の侍たちは、野武士たちとの戦いを通じて、自分の持っている武士としての経験を、この若い侍に伝えるべく戦ったとのことである。自分は死んでも、自分から若侍に伝えたものは残り、またさらに次の世代に引き継がれていくはずだ、という信念があるからこそ、彼らはこの戦いに命をかけられた(実際、7人のうち4人は死ぬ)という。

なるほどね。その内田の分析を念頭に置いて、この映画を見直してみると、なるほどそういうものかと思えてくる。

7人の侍たちは、野武士にいたぶられている百姓たちに同情し、野武士成敗に義を見出して、百姓たちと一緒に戦ったというふうに物語を解釈していた(表層的~、薄っぺら~)が、内田流の分析に基づいて見てみると、武士たちは自分が蓄積したものを次の世代に伝える場として、この戦を選んだとも言えるわけだ。以下、一部引用。

教育共同体は若く非力な人々に知識や技芸を伝授し、成熟に導くためのものである。医療共同体は病み、傷ついた人々を支援するためのものである。信仰共同体は隣人を慰め癒すためのものである。
そのような共同体だけが永続性を持ちうる。
集団成員のうちの相対的に有力なものに優先的に資源が配分されるような「弱肉強食」共同体は長くは続かない(いずれお互いの喉笛を掻き切りあうようになる)。
集団成員のうちのヴォリュームゾーンである「標準的な能力をもつ成員」の利便を最優先に配慮する「平凡」共同体も、やはり長くは続かない(全員が均質化・規格化して多様性を失ったシステムは環境変化に適応できない)。
もっとも耐性の強い共同体とは、「成員中のもっとも弱いもの」を育て、癒し、支援することを目的とする共同体である。
そういう共同体がいちばんタフで、いちばんパフォーマンスが高い。

内田樹の影響を受けた上で言うのであるが、次世代を育成しない組織というのはやがて衰退する。低賃金の労働力を使い捨てしながら、収益を上げようとする組織は、長期的には技術の蓄積ができず、衰退していくことになるのだろうね。

なんてことを、映画を見た後にさらにブログに書いているわけだから、こんな時間になってしまった…。やれやれ。

2012/04/01

個人的なお知らせ

協力隊ブログとして書いているこのブログであるが、今日は個人的なことを発表させていただく。

私、結婚をすることになりました。

相手は、キルギスで知り合ったキルギス人の女性。

詳細は書かぬが、とりあえずのお知らせということでブログ上で発表させていただいた。

2012/03/28

シルクロードの国に三蔵法師が帰って来た

キルギスのテレビを観ていて、面白いことをいろいろ発見する。

先日、仕事から帰宅してテレビを付けたら、夕方の時間帯に「西遊記」をやっていた。

おそらく中国で製作されたもので、キルギス語吹き替えになっているから、言っていることは99%分からないのだが、

西遊記

西遊記2

この写真をみれば、間違いないでしょ。

私の世代にとっては、「西遊記」と言えば、孫悟空・堺正章、三蔵法師・夏目雅子、猪八戒・西田敏幸(パート2では西田から左とん平)、沙悟浄・岸部シロー、加えて馬が人間に化けるた時の藤村俊二だ。ゴダイゴがブレイクしたのもこの番組のテーマ曲があったればこそだったはず。

男子はみんな堺の扮する悟空のアクションのマネをしたものだ。当時はビデオデッキなんてものはないから、私はカセットテープに録音していた。思い入れの強い番組である。

キルギスで放送されているのは、前述の通り、中国製作のものだと思うが、まあそのことはどうでもよい。問題なのは、「西遊記」というのは仏教に関係する物語であることだ。

これまで私のブログ内でも何度も触れていることだが、キルギスの7割程度を占めるキルギス人のほとんどはイスラム教徒である。そういう国で「西遊記」が放送されていることは、私にしてみればちょっとした驚きなのである。そして、このことは好意的に評価したい。

別に、この国に仏教が広まるきっかけになるから、ということではない。

私が好意的に評価するというのは、このキルギスは、かつて玄奘三蔵が唐からインドまで行く際に通った地であり、そのことは仏教だのイスラム教だの関係なく、人類の歴史として揺るがせない偉績があった場所だからであり、そのことをキルギス人が認識するきっかけになれば、という期待を込めてのことである。

思えば、この国での三蔵にまつわる史跡の扱いは惨憺たる状態。異教の偉人であるから、興味が持てないのは分からないではないが、いやいや、そんなないがしろにできるような人じゃないでしょ、あんた。と、思うのである。

そう思うのは、やはり日本人だからなのか…。でも、1400年も前に17年かけて3万キロの旅をしたって、それだけでも冒険譚として、面白いはずなんだけどなぁ。西遊記→三蔵というふうに、キルギス国内での関心が高まれば、これまで放置されてきた三蔵関係の史跡も発掘され直すなり、整備され直すきっかけになるのではないか、とかすかな期待を持ったりもする。そうすれば、日本や中国からの観光客も呼べると思うのだ。日本、中国では今でも三蔵はヒーローでしょ(今の日本の子供たちは三蔵法師についてどのように聞いているのだろうか。まさか、ほとんど知らない? まさか…。でも、数年前に某アイドルの孫悟空キャストでリメイクされたドラマ「西遊記」じゃあ、しょうがないか…)。

異教の史跡でも文化的な価値として保護するというのは、必要なことだろう。日本でもないがしろにされてしまっている仏教、神道以外の宗教遺跡というのはあるのかも知れないが、陸続きで国境を接している場所では宗教を巡る歴史は入り組んでしまっているのではないか。遺跡の発掘・整備となれば資金も必要なことだから、異教の物であれば後回しになる、というのもあるだろう。

IMG_1815
(なんか、お笑いタレントが仮装したかのような仏様も登場していた)

2012/03/25

独り暮らし、首都隊員 ~生活の変化考(2)~

ブログの更新が滞った理由を、2月末に村から首都に任地が変わったことで、生活で変わったことを中心に考えてみている。

  1. ●●解禁!
    伏せ字にしているからといって、いかがわしいことを想像せんでおくれ。いや、いかがわしいかな、やっぱり…。
    ホームステイ先は、キルギス人家族と一緒だったので、隊員仲間が泊まりがけで遊びに来た時くらいしか部屋では酒を飲まなかった。あとは、月に1~2度、同じ村の隊員と週末に村のカフェに集まって乾杯するくらいだった。
    それが今は、そういう気遣いがないから、基本的にアルコールは飲みたければいつでも家で飲める状態。う~ん、私のことを個人的にしっている方々なら、こういう状況が何を意味するのか、だいたい想像がついているんではないか、と…。
  2. “首都隊員”のお務め
    協力隊が派遣される国おける首都の意味というのは、隊員にとっては、日本で「東京が首都です」というのとは違った意味がある。日本であれば東京以外からも海外へ出入りする玄関口はある(実際には東京ではないですな。成田の皆さん、失礼しました)。協力隊が行くのは途上国だから、国際便が飛んでいるのは首都の空港だけということもある。いや、マレーシアのように首都以外の空港でも日本との定期便が飛んでいる国もある(そう考えると、やはりマレーシアって、すでにかなり発展した国なんだなぁ)が、それでも協力隊が赴任・離任する際は首都である。
    その他にもJICAや現地日本大使館に関連する行事なんかも、ほとんどが首都で行われる。私個人は、自分の活動と関係のない行事であれば参加しないと決めているが、そういう行事の際に首都に集まってくる地方隊員がいれば、せっかくの機会だからちょっとした食事会(飲み会?)を開くことになる。いや、別にそれは義務ではないんだけど、2年間という限られた期間で出会う協力隊同士の交流というのは私にとっては貴重なものなのだ。
    それに加えて、前に書いたように離任する隊員の見送り、赴任して来る隊員の出迎えというのも、首都にいる隊員が中心にすることになる。まあ、これも義務ではないし、私もそういうことがしたい気分の時だけするという話なのだが。
    ということで、首都にいるとそういう“お付き合い”をする機会が増える。これは村にいた時より頻度が増えた。というか、3月は4次隊の離任時期と重なったので、送別会やら個人的な食事会が多くなったということだろう。ブログの更新が止まっていたのもその時期である。

まあ、どれをとっても、「ブログ記事が書けない」というほどのものではないのであった。要は、

  1. ダラダラと生活している

と言うに尽きる。

お粗末。