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2012/07/09

カマールにかまれーる Комар кусает

ビシュケクの夏がこんなに暑いとは、住んでみるまでは知らなかった。ビシュケク住人のみなさん、お疲れさま。

気温が35℃ともなれば、日本と変わらないくらいの猛暑である。実際、直射日光に当たると、日に「焼ける」という言葉が実感される。

ただ、ビシュケクが東京なんかと違うのは、とにかく樹木が多いことである。そのおかげで、影ができて、その中に入ればだいぶ暑さをしのげる。よく言われるように、日本は湿度が高いので、影に入ってもジメジメ感があるが、ビシュケクではそれがないから助かる。

IMG_3011
(とにかく木が多い。緑の威力を思い知る)

気温がこれだけ高いので、村ではついぞ見なかった蚊もビシュケクにはいる。夜の闇にあの羽音が聞こえたときの不快感といったらない。まあ、前に行っていたマレーシアに比べれば、断然、数は少ないのだけれど。

комар
(かわいそうだが、我が安眠のためつぶした。アーミン)

ちなみに、蚊はロシア語で「комар /カマール/」。蚊に刺されることを、ロシア語では「噛む」と同じ単語を使う。日本語でも「蚊に刺される」の他に、「蚊に噛まれる」「蚊に喰われる」という言い方がある。英語もbite(噛む)だったかな? 本当は「刺して吸う」のが正しいのだと思うけど、「蚊に吸われた」という言い方は聞いたことがない。

(今日の記事にはダジャレが2つ入った。)

2012/05/04

アテレコとか、字幕とか、副音声とか (2)

テレビ番組での吹き替えの話を書いていて思い出したので、マレーシアのテレビ番組について書いておく(約8年前の話だが、おそらく今も変わっていないだろうと思う)。

マレーシアの国語はマレーシア語であるが、これはつまるところマレー語である。マレー語はマレー人の母語である。マレー人以外の民族も多数いるあの国では、マレー語を母語とすると感情的な反発もあるので、マレーシア語という言い方にしているのではないか、と、これは私の推測である。

マレー人以外の民族とは、中国系、インド系、そのほかの各地の諸部族である。中国系、インド系は人口の3~4割を占めるほどであったから、決して少数ではない(地域によっても民族比率は大きく異なるのがマレーシアの特徴であった)。

そういう民族構成の中なので、テレビ番組もマレーシアで作られたものの他に、中国・台湾、インドから輸入されたものも多々流されていた。そして、それらは原語のままなのであった。というのも、原語のままでも理解できる国民が一定数いるからなのであろう。

しかし、そのままでは中国語、ヒンドゥー語を解さない人は番組を理解できないわけで、そのためにマレーシア語で字幕が表示されているのであった。これならばマレー人も内容を理解できる。

この逆の、マレーシア語(=マレー語)の番組に、中国語・ヒンドゥー語の字幕を付けていたかは、ちょっと憶えていない。あったような、なかったような気がする。

このようにマレーシア語の字幕が入っているのは、マレーシア語学習者としての自分にはとてもありがたかった。中国語・ヒンドゥー語ともに私は分からなかったので、マレーシア語の字幕を見て、それなりに内容を理解できたということと、字幕からマレーシア語の言い回しを学ぶことができた。

面白かったのは、中国語の番組に中国語の字幕が付けられていたことである。「なんで?」と思ったのだが、これは、中国は広い国で、言語も地域ごとに大別して4つくらいあるらしいのである(正確な情報ではないから数字は鵜呑みにするべからず)。いわゆる「中国語」と言っているのは北京語であって、それ以外に広東語、福建語とかあるらしいのだ。

というわけで、中国語の番組といっても、広東語で制作された番組であれば北京語の字幕を付ける、といったような配慮が必要になるというわけなのであった。

で、そのような中国語字幕の番組というのは、音声を聞くだけでは皆目分からないのであるが、字幕は漢字なので、なんとなく雰囲気が分かる(場合もある)のだった。ありがたや漢字文化(私は漢字好きなので、余計にそう思うのかも知れぬ。ただし、中国語は簡体文字といって、漢字を略式にしてしまっているのでもったいない。日本でも漢字はかなり略してしまっていて、漢字の成立が分からないようにしてしまっている。台湾は繁体文字といって、日本でいう旧字で通しているから、手で書く場合の手間はあるが、一番、漢字を大事にしているとも言える)。

キルギスでは、ロシア語の番組(いや、キルギス語の番組も含めて)にはロシア語の字幕が出ない。せめて、キルギス語の番組にはロシア語の字幕、ロシア語の番組にはキルギス語の字幕、というふうにしてくれると、ロシア語・キルギス語の学習に役立つのだが、どうもこの国ではそういうふうに字幕が役立つという感覚はないらしい。まあ、日本でも、文字放送は別にして、いちいち日本語の字幕を付けることはないのだから、同じことなのであるが…。

アテレコとか、字幕とか、副音声とか (1)

今、借りている部屋で有料チャンネルのテレビ番組をあれこれ見ているが、英語は某ニュース専門チャンネルのみ。ほとんどがロシア語である。

ロシア語の番組といっても、アメリカやイギリスで制作されたものもたくさん(動物専門チャンネル、ハリウッド映画など)あり、それらはロシア語に吹き替えされているのである。

ロシア語番組を見ていても、聞き取れる率は大して進歩していないのであるが、それはさておき、見ていて気づいたのは、ロシア語以外で制作された番組・映画を放送する際、ほぼ100%、字幕をつけることはせずに、ロシア語に吹き替えていることである。

多分、この国でそれらの有料チャンネルを見ている人たち、また、おそらくロシアでも同様だと思うのだが、ロシアで外国からの番組を見ている人たちも、外国語がロシア語に吹き替えられていることに、違和感を持つことはないのだろうと想像する。

私がそのことに「気づいた」のは、日本の状況とは違うと思ったからにほかならない。日本でも吹き替え番組はたくさんあるが、100%ではない。音声は原語を残したまま、日本語字幕を入れている番組も多い。また、日本語に吹き替えてある番組でも、副音声では原語(たいていは英語)を聴けるようになっている。

そんなことを思ったものだから、家にあるテレビで副音声の切り替えができないものかリモコンをごちゃごちゃと操作してみたが、どうやら副音声という仕組み自体がないようであった。

こうしたことを考えてみると、日本人が外国からのテレビ番組・映画を見る際の形式には、日本、日本人を取り巻く言語環境や、そこで醸成されたわれわれの外国語受容の態度が背景にあるのだと思う。戦後の日本人が一番意識した外国語は英語であるはずで、いわゆる「英語学習熱」や「英語コンプレックス」なんかが、副音声での原語放送を要請したのかも知れぬ。

映画ファンの中ではたびたび交わされる議論のテーマの一つだと思うが、外国語映画を観る際、「①原語+日本語字幕」で観るか、「②日本語吹き替え」で観るかという問題がある。①の立場は、出演者本人の声を聞きたい、原作のイメージをそのまま見たい、という主張。②の立場は、字幕を読むことで画面全体の雰囲気が把握できない、したがって日本語で聞いて画面のほうに集中したい、という主張。もちろん、個人の好みの領域の話であって、どちらが優れているかという議論ではないだろう。

(ちなみに、私は「字幕」派である。特に、DVD(昔はビデオ)で映画などは、せっかちな私は倍速で観ることも多いので、字幕があったほうがストーリーを把握しやすい。DVD時代になって、日本語映画でも日本語の字幕表示ができるので、私のような観賞方法を取る人には便利である。)

すべてがロシア語に吹き替えられているそのこと自体も、ロシア語圏での言語感覚、言語使用の政治的な面が見て取れるのではないか、とも思ったりもする。米ソ対立という時代の頃は、東側の雄としての意地もあって英語学習は疎んじていたのだと思うが、実際のところ、旧ソ連の影響下にあった地域でのロシア語の普及率は、日本人が思う以上のものがある。ソ連から独立した国々でも、いまだにロシア語は公用語(国語ではないが)として使用されている。そういう状況があるならば、どの国の言葉でもロシア語に吹き替えて放送するのも、不合理ではないということだろう。だって視聴者のほとんどがロシア語で理解しているのだから。

テレビ番組の制作方法なんて、どこに行っても同じようなもののように思いがちだが、そこにはそこの地域が持っている歴史的・文化的・民族的なあれこれが影響しているようなのである。

2012/04/04

キルギス語とカザフ語

我が家で見られる有料チャンネルは、ほとんどがロシア語番組なのだが、それ以外にもカザフスタンのチャンネルも2つくらいある。実は、キルギス語とカザフ語はかなり近い言葉同士で、お互いの言葉を使って会話をすることもできる。言ってみれば方言同士という感じだ。スペイン語とポルトガル語がそんな関係だと聞いたことがあるし、現にスペイン人とブラジル人が話しているのを見たこともある(その人たちに聞いたら「だいたい分かる」と教えてくれたのだ)。

そんなことを書いていて思い出したが、タイの東北部の言葉とラオス語は近いらしく、ラオスの協力隊員がタイの東北部へ行ったら言葉が通じたと聞いた。タイ隊員は、タイの共通語を訓練させられるから、東北部においてはタイ隊員よりもラオス隊員のほうが言葉が通じてしまった、というエピソードだったと記憶している。

国境なんてものは、あとから恣意的に策定されたものであって、かつては人々は境なんてものを気にせずに暮らしていたわけで、当然、今は「国境」と呼ばれている境の向こうとこちらも、元々は同じ言葉を使う人たちであったという地域は世界中にたくさんあるんじゃないか。

2012/02/17

ビバ! 漢字

2月14日のカラコル冬祭りで、協力隊は「出前日本語講座」と「日本語ボディペインティング」のブースを出していた。

日本語講座のほうは、日本語のあいさつ表現の紹介や、キルギス人の名前をカタカナで書いてあげていた。

ボディペインティングは、予め漢字のサンプル表を用意してあって、その中から好きな文字を選んでもらい、頬や手の甲に書いていた。こちらは有料にしてあって、1回5ソム(7~8円)。収益はフェスティバル運営費に充てられる。

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サンプルとして用意された漢字は「愛」「友」「太陽」「月」「喜」「優」「花」など30文字ほど。キルギス語・ロシア語で意味も添えられている。やはり、と言うべきか、一番“売れて”いたのは「愛」。皆さん、そういうの好きですな。私もすこし書き手として手伝ったのだが、「愛」の注文ばかり多いのにちょっと辟易しながらも、たまに「友」とか「太陽」といった注文があると、心やすらぐのであった。

まあ、私の偏屈な「愛」嫌悪はいいとして、この漢字ボディペインティングのブースは人が途切れることがなかった。もちろん、ほとんどの客は漢字を読めないから、サンプル表のキルギス語・ロシア語がなければ意味も分からないのだが、意味が云々とは別に漢字のデザイン自体に、彼ら・彼女らを引きつけるものがあるのではないかと思う。

漢字は、もちろん中国から伝わった文字だが、日本人はその後、独自の文字を作ったにもかかわらず漢字も併用し続けている。元々漢字文化圏であった国のいくつかは、独自の文字に切り替えて、今は漢字が読めなくなっているところもあるから、私などにしてみれば「もったいない」と思う。

ボディペインティングは1回5ソムなので、子供・学生も自分の小遣いから出せる額、親もそのくらいなら遊びで出してあげようと思える額。集金箱をみたら、結構な額が入っていた。少なくとも100人以上には書いている。これだけ盛況になったのも、漢字のお陰か。漢字さまさまである。

ただ、付け加えておくが、漢字リストにないもので「自分の名前をペイントしてほしい」という要望もかなり多数あった。これは、隣に日本語講座ブースがあって、そこで自分の名前をカタカナで紙片に書いてもらっているので、それを持ってきて「これ(自分の名前)を書いて」と注文してきていたのである。よってカタカナも大活躍。

漢字に限らず、自分の知らない文字には、何か人を惹きつけるものがあるのだろうか? 異国情緒のような。私、キリル文字(ロシア語、キルギス語、モンゴル語などで使用)が書けるので、日本に帰って希望する人がいれば書いて進ぜよう。

当日、せっかくなので私も一文字書いてもらった(もちろん、ちゃんと5ソム払って)。サンプル表にはなかったが「龍」を注文。今年は辰年ですからな。で、頬にかいた「龍」は、翌日の昼食時に他の隊員から「まだ龍が残ってますよ」と言われるまで残っていた。顔くらい洗っておけ!

2012/02/10

Кристаллы снегов/ Crystals Of Snow/ 雪の結晶

手ぶれ撮影になっているが、雪の結晶体の形は分かる。

crystal

日本語では「雪の結晶」と書いたが、ロシア語・英語では「雪」とか「結晶」を単数形にすべきか、複数形にすべきか迷った。

結局、ロシア語では「雪〈複〉の結晶〈複〉」で、英語では「雪〈単〉の結晶〈複〉」と書いた。英語を勉強した時に、なんであんなに単数・複数だとか、定冠詞・不定冠詞のあるなしにうるさいのかと疑問で仕方がなかったが、日本語を外国語として学ぶ人たちからすれば、それらの表現が必ずしも日本語では必須ではないことに戸惑うのだとも想像される。

たまに日本語学習者が「3つのトマトたちをください」みたいな“ヘンな”日本語を使うのを耳にするが、あれはおそらく彼ら・彼女らの母国語のクセが影響しているんだろう。

(あら、結局、いつもの言語比較ネタになってしまった…)

2012/02/07

「はやい」の使い間違い

日本で「はやい」と言うと、時刻や時期が「早い」というのと、動作が「速い」というのと二つがあって、自分も含めて使い間違えている人は結構いる。特にパソコンの日本語変換では、キーを“速く”打っていると、変換ミスに“早く“気付かず、見過ごしてしまうことがある。という感じで、ややこしいのである。

漢字を見ればどちらの意味だかはすぐに理解できる。文脈でも判断が可能である。だがそもそも、二つの「はやい」は何で同じ音なのだろう? 時刻についてと、動作についてではあるが、両者とも「はやい」という点で何か共通している、ように感じられる。

しかし、それは日本語では二つの意味が「はやい」という音に収斂《しゅうれん》されているから起きる錯覚なのではないか…? とも思う。

例えば、英語で「早い」はearly /アーリー/、「速い」はfast /ファースト/、ロシア語ならそれぞれранний /ラーンニー/、быстрый /ブィーストリー/である。音がまったく違うから、日本語の「はやい」を書く時のような混同は起こらないのではないかと思うのだが、どうなのだろう(英語を母語とする人が、「早朝」をa fast morningとは間違わないと思うのだ)。

でも、例えば「車が速く走れ(A car goes fast.)」ば、その「車は速く到着する(The car arrives early.)」というふうに考えると、やはりearlyとfastにおいても共通する時間概念があるようにも思えてくる。

漢字の生まれた漢語ではどうなのかと思って、漢和辞典を調べてみたらさらにややこしいことになった。「早(ソウ)」の字義の一つに「すみやかに。急に」というのがあって、「すみやか」を漢字で書くと「速やか」なのである。ということは漢語においても「早=速」として認識されているのか? 「はやく来てください」という例文を考えると、「早く」も「速く」も使える…。

さらに露和辞典でбыстрый(速い)を引いたら、字義の一つに「素早い」が含まれていた。確かに、その言葉もありだ…。「速い」の説明に「素早い」があるとは。でもこれは日本語での問題であって、ロシア語で「早い」と「速い」が混同されやすいのかは不明。

完全にこんがらがって来た。「早い」と「速い」は音が同じだから使い間違い(日本語では書き間違い)が起こるのか、音が異なる言語でも「早い」と「速い」の誤使用は起きるのか、それぞれの言語を母語とする人に訊くのが一番であるように思う(特に幼少期の子供の使い間違いがあるのかどうか気になる)。

え? まだ似たような単語があるって?

はじめ(「始め」「初め」)

つく(「付く」「着く」)

かえる(「変える」「代える」「替える」「換える」!!)

…もう今日は止めましょう。

2012/02/06

今さら、辞書を使いはじめた

ロシア語に関しては、露和-和露辞書が収められた電子辞書を持ってきていて、何を調べるのにも使っていたのだが、電子辞書とは別に持ってきた書籍版辞書(木村彰一他編『ロシア語辞典』、博友社)を見たら、買ってからほとんど汚れていない。こちらの辞書はほとんど使っていなかった。

高い金を払って、重たい思いをして持ってきた物だから、書籍版辞書も使ってみようと、家でロシア語を調べる時はできるだけ電子辞書でなく書籍版辞書を使ってみるようにしている。

使ってみて、今さらながらの発見であるが、書籍版は例文が多いのが良い。そもそも、電子辞書に収められている露和-和露辞典は、コンパクトサイズの書籍版辞書を電子テキスト化したもので、ロシア語の単語に対して、日本語の意味が箇条書きで載っているだけのことが多く、例文が少ない。

異言語間の単語では、一対一で意味が対応しないことがある。また一方の言語では一つの単語で済ましていることが、他方の言語では複数の単語が対応していることがあり、場合による使い分けが必要になる。

例えば、英語の”develop”は「発達する」「開発する」「展開する」「現像する」などの意味があるが、日本語では「写真を開発する」とは言わない。また、日本語で「方法」と言うのも、英語ではway, method, meansなどの単語があり、使い分けが必要である。ロシア語でも然り(いまだに使い分けがよく分かっていないが…)。

例文を読むというのは、これまで意識していなかったが、すごく学習効果があるように思う。あくまでも思っているだけであって、実になっているかは心許ないが…。

書籍版辞書を使っているとページのどのあたりにあったかを、なぜだか印象に残っている単語というのがある。また、基本的な単語であればあるほど、用法が多いから、辞書の中での説明スペースも多くなる。単語によっては2ページくらいスペースを使っているものもある。それだけでも感覚的に「この単語は重要だな」と分かる。電子辞書でももちろん説明のスペースは多いのだが、他の単語との比較はできないから印象に残りづらい。

外国語学習では、電子辞書よりも書籍版辞書のほうが効果が高いというのはよく言われることだが、実際に自分で書籍版辞書を使ってみて、電子辞書とは全然違う学習スタイルになることを実感している。

2012/01/08

ありがたや、日本語学習者

キルギスの日本語学習者の日本語コンテストの話題をこのブログに書いた。コンテストに参加しない学習者もいる(そのほうが多い)から、キルギスでの日本語学習者はもっといる。

全世界での日本語学習者の数は300万人とのこと(ウィキペディア)。日本語学習者の多い国は韓国(96万人)、中国(82万人)、インドネシア(71万人)などとなっている(外務省)。

「300万人」という数字が客観的に見て多いと言えるのか、そうでないのかは分からない。もちろん、英語、中国語などに比べれば、圧倒的に少数であるのは間違いない。それにしても、である。300万人の人が、(そしてかつて学習したことのある人を含めればさらに多くの人が)、日本語を学んでいることに、私はある種の感謝の念を抱くのである。

「彼らは何で、何のために日本語を学ぶのだろう?」と、日本語を学習する人に会うたび、頭の片隅で疑問に思う。

かつての、日本が世界一の経済力を持っていた頃であれば、「日本語でビジネスをするため」という理由もあっただろうが、すでに斜陽化し始めており、相対的な経済力はますます衰退していくのは間違いない日本にあって、わざわざビジネスのために日本語を学ぶメリットは少ないはずだ。

それに、300万人の日本語学習者すべてが、ビジネスで通用するほどの日本語習得レベルに達することはまずあり得ない。我々日本人の英語力を考えれば分かることだ。

ただし、インドネシアの71万人という数字は、日本との労働者市場の協定で、一部職種(看護士など)での出稼ぎの機会があるために、そこに期待して学習していると読めなくない。これはビジネス(仕事)目的の学習と言える。

日本のオタク文化に憧れて、原語で日本のアニメ、マンガ、ゲームを理解したいから、という者もいるそうである。確かに、海外の日本語学習者の中には、アニメキャラのグッズを集めたり、自らマンガを描く者も見かける。趣味が高じて外国語習得まで到るならば、それは立派なものだと感心してしまう。オタク文化と言わないでも、日本文化全般に関心を寄せて、日本語を学ぶ者もいることだろう。

他にも色々と日本語を学習しはじめたきっかけはあるだろう。きっかけは千差万別だとして、我々の母語である日本語に関心を持ち、学んでくれる人々がいることをありがたく思う。

旅行などで海外に行って、現地で多少でも日本語ができる人と会った時の、いわく言い難い安堵感というのを感じたことがある人はいるだろう。「バス停、あそこ。近いです」みたいな言葉でも、自分の馴染んだ言葉で言われると嬉しいし、なぜか安心するものである。英語が得意でなく、まして現地語なんてまるで分からぬならば、なおさらそうである。

英語、中国語に比すれば、全然少数派に過ぎないのではあるが、世界の各地に、日本語でやりとりができる人たちが存在してくれていることを、私はありがたく思う。

2012/01/07

2つの日本語コンテスト

昨年(2011年)の12月に、キルギスで日本語を学習する生徒・学生たちの2つの日本語コンテストがあった。一つは首都ビシュケクの大学生を対象にしたもの。もう一つは地方で協力隊員から日本語を学んでいる子供たちのもの。

この2つのコンテストは成り立ちも主催者も別々のものであったが、キルギス協力隊員たちが深く関与していた。私は運営にはまったく関わっていなかったのだが、たまたまどちらも開催日に現地にいたので陪席することができた。

首都のコンテストは、日本語学科がある複数の大学の共同開催で、「作文」と「朗読」の2つの部門が設けられていた。出場していたのは日本語学科の学生たちで、作文部門の入賞者の作文はしっかりとした内容だったし、朗読部門も結構長い文章を読み上げていた。

ビシュケク日本語コンクール(1)

会場は大学の講堂を使っており、参加者・聴衆を含め250人くらい入っていたのではないだろうか。

ビシュケク日本語コンクール (2)
(大学の講堂が会場)

ビシュケクのコンテストは10回目を迎えたとのことで、過去の最優秀賞受賞者からは日本企業等との交渉での通訳として活躍している人もいるようである(その人は今回、審査員の一人として参加していた)。キルギスにおいてこのコンテストが、日本語分野での職業キャリアを積むための登竜門の一つになっていると考えられる。

地方で開催されたコンテストのほうは、町庁舎の講堂を会場にして行われ、50~60人くらいの人が入っていた。こちらは協力隊の一人が企画したものだった。

クズルスー日本語コンテスト2(公民館の講堂が会場)

クズルスー日本語コンテスト(コンテストの合間に日本語の歌を披露する子供たち)

こちらのコンテストの参加者は、5つくらいの村から集まった、それぞれの村に派遣されている協力隊員から日本語を教わっている子供たちである。もちろん、日本語コンテストなどというものに参加すること自体が初体験である。

首都の日本語学科の学生たちと比べれば、当然のことながら格段に日本語習得のレベルは下であるが、それぞれの実力に見合った発表で、味わいのあるコンテストだった。

普段、「日本語教師」として村の子供たちに日本語を教えている隊員からは、「他の村の学習者の熱意を見て、子供たちが触発されたようだ」とか、「練習を十分にしないでも大丈夫と高をくくっていた子が、他の子たちの発表を聞いて、『次回はもっとちゃんと準備をしなければいけない』と言っていた」など、子供たちに刺激を与える場となったようだ。

日本語の学習目的も習得レベルも大きく異なる、首都と地方それぞれの日本語コンテストの参加者たち。この中で日本語を生業とする者は1%にもなるまい。しかし単に日本語に留まらず、参加した個々人が何らかの知的な刺激を受けたのだとしたら、この2つのコンテストはその意義を果たしたと言えると思う。

2012/01/05

変換されない言葉 ~日本語変換雑感(3)~

協力隊ブログからはかなりテーマが外れているのだが、勢いで続ける。

パソコンの日本語変換ソフトに、私には解せないことある。一部の言葉を敢えて変換候補から外していることである。特に障害を表す言葉はそうである。

例を挙げれば「きちがい(気違い・気狂い)」「めくら(盲)」「つんぼ(聾)」などである。

「福祉に従事するお前がそんなことを言ってよいのか!」と糾弾されるかも知れない。確かに上に例示した3つは、現在は「精神障害者」「視覚障害者」「聴覚障害者」とそれぞれ表記される言葉である。それらの障害のある人に向かって、上のような呼び方をするのは人権侵害となるし、「己の欲せざる所は人に施す勿《なか》れ」という孔子の教えを引き出すべくもなく、他人に使うべきでないと考える。

しかし、そのことと言語史の問題は別ではないか? 現に、日本語の歴史の中で上に挙げたような言葉が使われた時代はあったわけだし、現在でも文章中で書くことはあり得る(時代ものの小説を書くとか)。侍の小説で「そこの盲坊主!」という台詞を「そこの視覚障害の僧!」と書き換えることはできない。

「いや、どんな場合でも、そんな言葉を使うのはけしからんのであって、変換候補から除外するべきだ」と考える人もいるだろうが、そういう人たちが言う「そんな言葉」という規定は、どうしたって恣意的な基準に依らざるを得ないわけで、そういう基準で「これは正しい、これは悪い」と規定するのは危険なことだと思う。

日本語変換ソフトの機能で、日本語の誤用・不適切用法があった場合に「《ら抜き》言葉」とか「近ずく《近づく》の誤り」とか出るのだから、もし、通常は使うことが適切でない言葉があるなら、「蔑称語・差別語」と表示して注意を促せばどうだろう。

一頃、昭和40~50年代のテレビ番組(ドラマ、アニメ)の再放送で、「ピー」という音消しが盛んだった頃があった。「木枯らし紋次郎」なんかは、再放送では「このP野郎! てめぇなんかPに行って、PとPしやがれ!」みたいなことになっていて、何を言っているんだかさっぱり分からないシーンも度々あった(それが返ってドラマの迫力を出していたかも知れないが)。

近頃は、そういった再放送ドラマでも、冒頭に「このドラマには現在では不適切・差別的な表現が含まれていますが、作品放送時の時代背景を考慮し、ノーカット・無編集でお送りします」と断りを入れて、作品のオリジナルのまま放送することが増えた。私はそれで良いと思う。やたらと「ピー、ピー」鳴っていては意味が分からなくなるし(ギャグとしては良いが)、外部からの非難を恐れて再放送を止めてしまえば、我々は過去の作品を見る機会が減ってしまう。

日本語変換もそれと同じように対処すれば良いと思う。

美酒華宮 ~日本語変換雑感(4)~

コンピューターの日本語変換は、時として予想だにしなかった日本語を表示してくれ、思わず笑ってしまうことがある。

最近のお気に入りは、キルギスの首都の「ビシュケク(英語ではBishkek)」を打ったら、「美酒けく」と出たので、「これは行けるぞ!」と思い、「けく」も当て字で探していった結果、「美酒華宮」という漢字に行き着いたことである。こういう当て字を探すのは、コンピューターの日本語変換は大得意ではないか?

不正会計で大騒ぎになった漢字関係のあの団体も、「変“漢”ミスコンテスト」なんていう洒落た企画をしているようである。面白いので一読あれ。

それにしても、「美酒華宮」。酒と女の似合う街…。

そこんとこ、夜露死苦!

2012/01/04

またお会いしましたね、「くうれれ」さん ~日本語変換雑感(2)~

ブラインドタッチで手元を見ずに文字入力をするのは、手元をいちいち見ながら打つよりも効率は良い。

しかし、疲れている、焦っているなど、自分の状態によっては打ち間違いも多く出てくる。私は、午前中にやる入力作業では打ち間違いが多いような気がする(いや、言い訳かも知れない。午後も同じくらい打ち間違えているかも)。

焦ってカタカタと打っていて、度々起こる間違いというのがある。自分の名前、所属する組織の名前なんかは入力する回数が多く、同じ様な打ち間違いをすることも多くなるものである。例えば、私がこのブログで使っているペンネームの「ウクレレちゃん」であるが、「ウクレレ」をローマ字入力で打つと「ukurere」である(※楽器のウクレレはukuleleと表記する)。ここでタイピングするキーの順番を打ち間違えて「kuurere」とか「ukuerer」とかにすると、変換キーを叩くと「くうれれ(食うれれ)」とか「うくえれr(浮くえれr)」といった訳の分からない言葉が登場する。

昔の職場で、「おれ、こういうことよくやるんだよねぇ」と話すと、職場の中にも「私もよくある」という人がいて、飲み会の時などには打ち間違いで出てくる名前で呼んでふざけたものである。

インターネットの検索サイトでは、こうした打ち間違いも考慮して結果を出すようになっている。例えば「んhk」と入れると、「もしかして”NHK”?」と出てきて、「NHK」関連の検索結果が出る。

2012/01/03

ブラインドタッチ ~日本語変換雑感(1)~

今や何でもかんでもパソコン、携帯電話、インターネットを使うことが前提になっている時代で、それらを持っていない、あるいは機能を使えない人にとっては、本当に不便な時代になっていると思う。

私自身は、一般向けに提供されている物は理解して、使えるという気がしているが、あくまでも自分で思っているだけで、本当は「一般向け」とされている物の何分の一しか分かっておらず、使いこなせていない落ちこぼれかも知れん。ウェブサイトのサービスだとかスマートフォンだとか、こういったものは高度多機能化しているから、どこまでが一般向けなのかさえ分からなくなっている。

パソコンを使う多くの場面で、キーボード入力は必要となる(身体障害者用にマウス操作やペンタッチで入力するのもあるが、障害がなければキーボードを使う人が多いだろう)。

キーボード入力は、パソコンが普及する前に、ワープロ専用機が普及しており、その頃にキー配置を覚えた世代もあるだろう。キーボード入力では「ブラインドタッチ」が一つの目標地点とされる。これができるか否かで入力スピードに格段の差が出てしまう。キーボードを見ながら、右手と左手の人差し指でタイピングをするやり方しかできない人もいるが、それはそれで仕方のないことだし、バカにするような話ではない(タイピングのスピードではなく、タイピングする内容が重要なのである)。しかし、効率の面ではやはりブラインドタッチが優れている。

私もブラインドタッチはできる(威張って言うのではない。今やブラインドタッチができる人はごまんといる)。私は英語アルファベットのいわゆるQWERTY(左手のホームポジション一段上のキーを左から読むとそうなる)配列でローマ字打ちをしているが、日本語入力にはかな打ちのほうが効率がよいと聞いて、かな配列も練習したことがあった。一応覚えたが、スピードが上がらず、結局ローマ字入力に戻った。

ワープロが普及していった時期、NECの文豪シリーズか何かだったと思うが、QWERTY配列ではなく独自のキー配列のキーボードを出していたと記憶している。テレビCMには林マリ子が出ていたと思うのだが…。QWERTY配列に慣れてしまって、この配列に特別に疑問を持つこともないが、実はもっと効率がよく便利なキー配列があるのかも知れない。上に書いたメーカー独自のキーボードを使っていた人の中には、その後もその配列のキーボードを使い続けている人もいると聞いたことがある。ネットで調べればそういう商品が見つかるかも。

日本語を入力するのに、ローマ字(つまりアルファベット文字)で打ち込むというのは、ひょっとしたら不自然、というか脳内の処理プロセスとしては、一度、寄り道をしているんじゃないかしらん? と、思ったりもする。しかも、パソコン、ワープロで打ち込むローマ字というのは、正確なローマ字でもない。例えば、「ん」の後にな行の音が続く場合(こんにちは)や、「ん」の後にや行が続く場合(きんようび)は、「n」を2回叩いて「ん」を確定させる。

今年発売された携帯端末(だったか?)では、音声認識機能が一つの売りだったそうである(ただし英語への対応で、日本語は未対応)が、この機能が一般的になれば、文書作成の方法は劇的に変化するはずだし、おそらく人間の思考法そのものが変わるんじゃないだろうか。ワープロ普及で、漢字を書けなくなった人が増えたと言われるが、音声認識入力が普及したらその辺はどうなっていくだろう。変換結果を見て確認する作業は残るから、その点では現状と変わらんのかな?

2012/01/02

ローマ字(昨日の書き直し)

昨日、ローマ字だけで書いた文章を、日本語表記で書き直した。

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-

協力隊には、安全管理のため、任国で携帯が貸与される。

私たちが使う携帯は海外対応の物で、N●KIA製である。そのため、日本語の文字表示はできない。

SMSでメッセージを送る時は、英語のアルファベットを使って、ローマ字で書く。

ローマ字を書く時、スペース(space)を入れない人がいて困る。

Supesuwoirezunikakuto,konnanimizurakunarunoda!
(スペースを入れずに書くと、こんなに見づらくなるのだ!)

何でも書けば良いというものではないのである。読みやすく書くという気遣いも必要である。

しかし、そもそも、ローマ字の正しい書き方というのが決められていないようである。だから「watashi wa(私は)」も「watashi ha(私は)」も混在しており、「Nihon e(日本へ)」も「Nihon he(日本へ)」も正解とされているようである。

協力隊員同士のSMSでは、省略もよく使われる。「よろしく」は「4649」。「野田さん」は「野田3」など。

N●KIA携帯に中国語対応のがあるのを見たことがあるが、日本語も対応できるのだろうか? ひらがなかカタカナだけでよいので、対応させてくれたら便利なのだが…

2012/01/01

Romaji

Kyoryokutai niwa, anzen kanri no tame, ninkoku de keitai ga taiyo sareru.

Watashitachi ga tsukau keitai wa kaigai taiou no mono de, N*KIA sei de aru. Sono tame, nihongo no moji hyouji wa dekinai.

SMS de message wo okuru toki wa, eigo no alphabet wo tsukatte, romaji de kaku.

Romaji wo kaku toki, supesu(space) wo irenai hito ga ite komaru.

Supesuwoirezunikakuto,konnanimizurakunarunoda!

Nandemo kakeba yoi toiu mono dewa nai nodearu. Yomiyasuku kaku toiu kizukai mo hitsuyou de aru.

Shikashi, somosomo, romaji no tadashii kakikata toiu noga kimerarete inai youdearu. Dakara “watashi wa” mo “watashi ha” mo konzai shiteori, “Nihon e” mo “Nihon he” mo tomo ni seikai to sarete iru youdearu.

Kyouryoku taiin doushi no SMS dewa, shouryaku mo yoku tsukawareru. “Yoroshiku” wa “4649”. “Noda san” wa “Noda3” nado.

N*KIA keitai ni chuugokugo taiou noga aru nowo mita koto ga aru ga, nihongo mo taiou dekiru no darouka? Hiragana ka katakana dakede yoi node, taiou sasete kuretara benri nano daga…

2011/12/30

新年の祝い

今週頭、配属先の障害児者センターの子供たち向けの新年会があった。

日本で「新年会」と言うと、暦が1月になってから以降にやるものだが、ロシア語文化圏では、12月末から新年会をするもののようである(この話は昨年も書いたような気がする)。

2011年も残すところあと1週間を切っているが、既に人々の挨拶は「新年おめでとう」となっている。このあたりは日本人的にはちょっと違和感を感じるところである。

日本では年末の挨拶は「よいお年を」である。これは年が明けてからは使えないという感じがするが、国語学てきにはどうなんだろうか?

ロシア語の「Поздравляю вас с Новым годом.」は「あなたに新年の祝いをします」みたいな言葉だが、これは12月の下旬から使われている。逆に、この言葉は年明けにも交わすものなのだろうか?

キルギス語でもロシア語と同じ様な挨拶がある。ひょっとすると、これはロシア語文化が入ってきた後に、キルギス語を対応させた結果かも知れないと想像する。

なんにせよ、1月1日を基準に挨拶言葉が切り替わると思っていたら大間違いのようで、文化によっては12月中にすでに新年の挨拶をしているのだ。

中国では、今も旧暦の正月のほうが盛大のようで、西暦の新年はそこそこに、2月頃に来る旧正月に人々は故郷に帰り、新年を祝うようである。マレーシアの華人たちも、旧正月の時には1週間くらい仕事を休んでいた。華人以外の民族も、それに便乗して一緒に祝っており、微笑ましい光景であった。

新年の迎え方にこのような地域差があるなら、天の邪鬼の私としては、6月25日あたりに「明けましておめでとう」と言ってみたくなるのだが…。

newyearparty
(子供たちの新年会。もみの木も設置されている。)

2011/12/01

サンスクリット語から来たロシア語

呉智英(くれ ともふさ)著、『つぎはぎ仏教入門』(2011年、筑摩書房)を読んだ。

もともと、私は呉智英氏のファンであるが、この本も呉氏らしい視点・批評で日本の仏教について書かれていて、勉強になる本であった。

この本の中(p.40)にロシア語の話が出ていて、呉氏の博識ぶりにあらためて驚くと同時に、ロシア語の勉強になった。

ロシア語で「目覚めさせる」を表す言葉にбудить /ブディーチ/ というのがあるが、この言葉の語源はサンクリット語であり、仏陀《ぶっだ》、すなわち「目覚めた者」と語源を共にする言葉なのだそうだ。

(ちなみに、仏陀は人の名ではない。釈迦という名の人が、すべてのことを覚《さと》ったことで、「仏陀 = 目覚めた者」になったのである。)

前に、僧侶を表す「ぼうさん」が日本からポルトガルあたりを経て、ロシア語に入りбонза /ボンザ/ になったという話を当ブログ(2011.5.9「ボンズ頭」)で書いたが、ここにもまた仏教にゆかりのある語があったわけである。

外来語の中には語源から派生した末にニュアンスがかなり変わってしまうものもまま見かける。例えば、パビリオン(ロシア語でもповильон /パヴィリオン/。英語、仏語ではpavilion)の語源は「蝶」を表すラテン語なのだという。英語にpapilionid(アゲハチョウ)というのがある。そこから、蝶が翅《はね》を広げた形に似ているということで「テント、天幕」に転化し、今は「展示館」という意味で使われている。

それに比べるとбудитьは語源のニュアンスを残したままロシア語に定着した語ではないかと思われる。ただし、サンスクリット語の原語(bodhi)の意味は「目覚めること」であるが、ロシア語будитьは「目覚めさせる」と他動詞になっている点については、語のニュアンスが変わっているように思う。

さらにбудитьから派生したбудильник /ブディーリニク/ は「目覚まし時計」である。これはご愛敬という感じである。ロシア人たちも、まさか自分たちが朝起きる時に使う道具が、サンスクリット語起源の名称であるとは思い到るまい。

2011/11/27

Каша (2)

キルギス人が「каша /カーシャ/」と呼ばれる乳粥を食べるのを紹介したが、カーシャは元々はロシア語のようなので、ひょっとしたらキルギスがソ連に編入される以前には、このような食べ物はキルギス人は食べていなかった可能性もある。

しかし、カーシャの伝播には別の可能性を考えても良いかも知れない。

乳粥と言えば、仏教とも深い縁のある食べ物である。釈迦が覚《さと》りを開こうとして苦行を重ねた末に倒れたところ、スジャータと呼ばれる娘が釈迦に乳粥を与え、それを食べて元気を取り戻した釈迦が、その後瞑想の末に菩提樹の元で覚りに到った、という逸話がある。

これに関する話は、「釈迦 スジャータ 乳粥」などで検索すれば、詳しく書かれたサイトがたくさんあるので、そちらを参照されたし。

「スジャータ」と言えば、民放ラジオで正時の時報の前にスポンサーになっているあの商品と同じであるが、これはあの商品が釈迦に乳粥を運んだスジャータから名を取っているのである。この話は中学生の頃に聞いたと思うが、それ以来私の中で忘れることのない話である。

さて、インドでも乳粥が食べられていたのだから、乳粥の起源もあの辺である可能性もある。玄奘三蔵も辿ったシルクロードでの人・物・文化の交流の中で、乳粥が南方から伝わった可能性もある。

ということで、キルギス語固有の乳粥を指す言葉があるのか調べてみると、「ботко /ボコ/」という単語があるようなのだ。キルギス語固有の単語は、ソ連編入以前からあったと見てよろしいので、すなわち乳粥もソ連以前からあったと考えてよい(ひょっとしたら、村のキルギス人も「ボコ」と言っているのかも知れないが、私のキルギス語聴取力が弱いために聞き逃していることも考えられる)。

まあ、これだけの情報では、南方経由で粥が伝わったことの根拠には何にもならんが…

2011/11/13

キルギス語とマレー語の共通語

キルギス語を勉強していると、どこかで見覚え・聞き覚えのある単語に出くわすことがある。覚えがあるのは、マレー語で見聞きしたことがあるからである。

これまで気付いたものを一覧にしてみる(//内は発音をできるだけ原語っぽく表した)。

キルギス語

マレー語

日本語(訳)

убакты /ウバクトゥ/ waktu /ワクトゥ/ 時間
аскар /アスカール/ askar /アスカー/ 軍隊
ду’йно’ /ドゥイヌォ/ dunia /ドゥニア/ 世界
кабар /カバール/ khabar /クバール/ ニュース、知らせ
жума /ジュマ/ jumaat /ジュマアット/ (共)金曜日/(キル)週
кызмат /クズマット/ khidmat /クドマット/ サービス、奉仕
о'му'р /ゥオムォール/ umur /ウムール/ (キ)命/(マ)年齢
заман /ザマン/ zaman /ザマン/ 世紀、時代
мечеть /メチェーチ/ masjid /マスジッド/ モスク
※キルギス語欄の「о'」「у'」は、キルギス語固有の文字を表す。これらの文字はフォントの制限で記述できない(また、使用するとすべてが文字化けする可能性がある)ので代替して表した。

これらはアラビア語を語源にする同じ言葉だと言って間違いない(ただし、「モスク」を表すメチェーチについてはいまいち確信がない)。

キルギス、マレーシアともにイスラム教の国であり、かつて、イスラム教の伝播して来た時に、これらの単語も入り、定着したのだ。

だいたいどれも同じ意味で使われているが、永い年月の中で、微妙にニュアンスが変わったものもあるようだ。「ジュマ」「ジュマアット」は、イスラム教の集団礼拝をする日を指し、それがすなわち「金曜日」である。キルギスではその集団礼拝を基準に一週間を区切ったのだろうか、「週、一週間」という意味でも使われている。ちなみに、キルギス語教科書にはジュマは「金曜日」だと載っているが、実際には、金曜日は「5番目の日(月曜から数えて)」という言い方が一般的なようである。

キルギス人、マレーシア人の中でも、それぞれ使っているのがアラビア語語源だと意識もしていないような言葉もあるだろう。日本人が「ミシン(はた織り機)」が元は英語のmachine /マシーン/に由来しているとか、「イクラ(鮭の卵)」がロシア語で「魚の卵」を表すикра /イクラー/ から来ているとか知らずに使っているようなものである。

もちろん、上記以外にも両言語に共通の単語はまだある。「テレビジョン」「ラジオ」「テレフォン」「チョコレート」「パスタ」などである。これらは、近現代に外部から生活に入り込んで来た品々であり、西洋語を通じてそれぞれの国に定着した物である。

かつてはイスラム教を通じて共通の単語が入り、今はまた別の形で共通の単語が入っている。共通語は外来語である可能性が高く、外来語はその国・文化の歴史を映している。