ボコンバエバ村に赴任し、生活をし始めた時、村の商店のどこにもティッシュペーパーが売っていないことを知り、困惑したことを思い出す。
途上国とは言え、首都ビシュケクではスーパーマーケットなどで普通にボックスティッシュ、ポケットティッシュは売られていたので、どこでも普通に購入可能な物だと高をくくったのだが、ボコンバエバ村ではそうではなかった。ビシュケクで買ってあったポケットティッシュを店員に見せながら「こういうのある?」と、何軒もの店を訊いて回ったがいずこも「ニェット(無いよ)」との返事。
「こういうのならあるよ」と示されたのはウェットティッシュであった。なぜかウェットティッシュは複数の店で置いてあった。さらに、赤ん坊の尻を拭くための大きいサイズのウェットティッシュも置いてある店もあり、洟《はな》をかむ用のティッシュは無いのに、ウェットティッシュはたくさんあるのが、順序が逆のような気がしたものだ。
村ではティッシュが買えないので、首都へ用事で出かけた時に、ティッシュを買い込んでくることで、とりあえずティッシュ確保の問題はなくなった。が、しかし、そもそも村人たちはティッシュが無くて困らないのだろうか? どうやって洟をかむのか?
“キルギス人は洟をかまないのか”とも想像しつつ村で生活しているうちに、村人たちが鼻をかむのを見る機会があった。もちろんティッシュペーパーは使っていない。ではどうやって? 何を使って?
手洟《てばな》をかむ、というやつである。
手の指で片方の鼻孔を押さえ、顔をちょっと前に突きだしてから、思い切り押さえていないほうの鼻孔から息を出す(顔を突き出すのは、洟汁が己れにかからぬようにするためであるのは説明するまでもない)。鼻を押さえる時は、親指を用いると様になる。これも手に洟汁がかからないようにするためには必然のスタイルなのだ。
なるほど、この方法ならばティッシュペーパーは要らぬ。洟はティッシュペーパーでかむものだという固定観念があると、こんな原始的な所作でさえ思いつくことが出来なくなってしまうものなのかと、自分の愚かさを恥じた。
しかし、これと似た話はいくらでもある。象徴的だったのは、東日本大震災が発生後、人々がトイレットペーパーの買いだめに走ったという現象ではないか。“尻はトイレットペーパーで拭く”という普段の習慣が、そのまま固定観念となり、“トイレットペーパーがなければ尻が拭けない”という強迫観念になる。
考えてみれば、トイレットペーパーが無かろうが、用便後の尻の世話なんて、いくらでもやり方があるはずだ。途上国の生活は、そういう場面で参考になることが多い。トイレのことも、近く書きたいと思う。
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