2011/12/04

もう見ない風景

協力隊の任期は2年である。私は2010年7月にキルギスに来て、2012年7月に帰国する。任期での2年目もすでに4ヶ月が過ぎた。

その国、地域のことを知らずに来るわけだから、最初の1年目は多くのことが初めて見聞きすることである。1年に1回、その時季に行われる地域の行事は、隊員は多くても2回しか見られないことになる。

2年目に入ってそういう行事を観覧していると、「ああ、来年のこの行事を、自分はもう見ることはないんだな」と思う。来年の今頃はおそらく日本にいるはずだ。キルギスでこの行事を見ることは、おそらく、もう生涯ないだろう。ちょっと寂しい気持ちになりながら、目の前で行われていることがすごく貴重な一コマであるように感じられてくる。

これは行事だけに限らない。季節の移ろいもまた同じように感じらる。ポプラなどの街路樹が一斉に紅葉(ポプラは黄色になるが)し、葉を落とし、村から緑が減り、剥き出しになった枝と舗装されていない道の茶ばんだ印象の景色。なんとなく心を沈ませる色合いの冬の村の様子も、次の春が来たら、もう私は二度と見ることがない。

winter_scene
(落葉した樹木、冠雪した山々)

Bishkek_winter_street
(ビシュケクの冬景色)

そんなことを考えると、一つひとつの風景、出来事がすべてもう取り返すことのできない貴重なもののようにも思える。そう思ったからといって、時間を大事に使うようになっている訳でもない。ただ、来年の同じ時季には自分がここにいないこと、自分がいなくてもこの国、この村の人々は同じように生活し、景色も同じように季節を迎えるということ、それがなんとなく不思議な心持ちにさせるのである。

lunch_party (国際障害者の日にちなんだパーティー。来年は見ることはない。)

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