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2012/06/25

「あと一ヶ月」と言えば...

7月末に協力隊員としての任期が終わるので、任期の残りもあと1ヶ月である。この話は、ここ最近、何度か書いているので、「またか」というネタなのであるが、あと1ヶ月のものがもう一つあった。

ロンドンオリンピック。

これも約1ヶ月後に始まるのだ。

オリンピックって、4年に開かれる一度のビッグイベントのせいか、自分の人生のそれぞれの時期と重ね合わせて回想する人も多いのではないか。「ロサンジェルス五輪の時は、大学生だったな」とか「ソウル五輪の100m決勝は、△△と一緒にテレビで観たな。あの時は中学生だった」とか。

ロンドン大会の開幕は7月27日なので、私が日本に帰るその日である。ということは、競技の中継は日本で見ることになるんだな。帰国直後で、報告会やら健康診断やらでバタバタしていて、あんまり中継を見る時間もないかも知れない。それもまた思い出になるのだが…

開幕まで1ヶ月ということで、日本ではだんだんとオリンピック気分が高まってきているのではないかと予想する。ネットでニュースを見ていても、そういう話題が出ているし。

ただ、ここキルギスではさほどオリンピックが話題になっている雰囲気がない。一つには、参加する競技種目が少ないということがあるのかもしれない。キルギス選手が得意な競技は、レスリング、ボクシングといった格闘系の個人競技。サッカー、バレーボール、バスケットボールなどのボール競技、チーム競技は出場権を得られるほどのレベルではない。残念ながら。

他の国へ行った協力隊の人もそうだと思うが、自分の派遣された国の選手・チームが、こういう大きなスポーツ大会に出ているのを見ると、どこか身びいきみたいなものを感じて応援したくなる。私の場合なら、キルギスとマレーシアの選手たちを応援する。

日本の代表選手・チームたちも含めて、熱戦が見られることを期待している。

2012/05/10

「戦勝記念日」はいつまで続ける?

5月9日は「戦勝記念日」。前にも書いたが、ここで言われる「戦勝」とは、かつてソ連がドイツとの戦争に勝ったことを指す。

なにか式典をやっているかも知れないからと、昼過ぎに協力隊の仲間と中心部にあるアラトー広場に出てみた。だが、人は大勢出ていたが、式典らしきものはやっていなかった(帰宅してからテレビを見たら、どうも午前中に式典は済んでいたようだ)。

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(アラトー広場に集まった人々)

この写真に集まっているだけでも、前に住んでいた村の人口を超える人数ではないか。キルギスの中ではビシュケクという町は他とは格段に違うことを印象付けられる。

今日は、ロシアから配信されている放送局も、モスクワでの式典の模様を流していた。つい最近、大統領に再就任したあの人 の演説などが出ていた。

「戦勝」してから今年で67年経っていて、当時、従軍した人で生存している人はもう90歳前後であり、もうほとんどいなくなっているんじゃないかと思う。第2次大戦に従軍した人だけでなく、それ以降の退役軍人と思われる人たちも列席していて、軍服の胸の位置に勲章メダルを何十個と付けていた。

私は日本人であり、日本は第2次大戦では敗戦国だから控えめにしか言えない気がするのだが、この「戦勝記念」はいつまでやるのだろう、とテレビを見ながら思った。

ソ連はすでに存在していない国家だし、ロシアとドイツも今は当時とは別の関係にある。「我らは勝利した!」と書かれた看板・垂れ幕もあちこちに出ていたが、67年経ってもそのことは記念したいものなのか、と私には不思議には思った。

日本は第2次大戦では敗戦国になったから「戦勝記念日」はないのだが、それ以前には勝った戦争もあった。1945年に負けるまでは、日本もその戦勝を記念して祝っていたのだろうか。もしそうだとすると、次の戦争に負けるまでは、その国は一番直近の戦争の勝利を祝うものなのだろうか。

2012/02/17

ビバ! 漢字

2月14日のカラコル冬祭りで、協力隊は「出前日本語講座」と「日本語ボディペインティング」のブースを出していた。

日本語講座のほうは、日本語のあいさつ表現の紹介や、キルギス人の名前をカタカナで書いてあげていた。

ボディペインティングは、予め漢字のサンプル表を用意してあって、その中から好きな文字を選んでもらい、頬や手の甲に書いていた。こちらは有料にしてあって、1回5ソム(7~8円)。収益はフェスティバル運営費に充てられる。

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サンプルとして用意された漢字は「愛」「友」「太陽」「月」「喜」「優」「花」など30文字ほど。キルギス語・ロシア語で意味も添えられている。やはり、と言うべきか、一番“売れて”いたのは「愛」。皆さん、そういうの好きですな。私もすこし書き手として手伝ったのだが、「愛」の注文ばかり多いのにちょっと辟易しながらも、たまに「友」とか「太陽」といった注文があると、心やすらぐのであった。

まあ、私の偏屈な「愛」嫌悪はいいとして、この漢字ボディペインティングのブースは人が途切れることがなかった。もちろん、ほとんどの客は漢字を読めないから、サンプル表のキルギス語・ロシア語がなければ意味も分からないのだが、意味が云々とは別に漢字のデザイン自体に、彼ら・彼女らを引きつけるものがあるのではないかと思う。

漢字は、もちろん中国から伝わった文字だが、日本人はその後、独自の文字を作ったにもかかわらず漢字も併用し続けている。元々漢字文化圏であった国のいくつかは、独自の文字に切り替えて、今は漢字が読めなくなっているところもあるから、私などにしてみれば「もったいない」と思う。

ボディペインティングは1回5ソムなので、子供・学生も自分の小遣いから出せる額、親もそのくらいなら遊びで出してあげようと思える額。集金箱をみたら、結構な額が入っていた。少なくとも100人以上には書いている。これだけ盛況になったのも、漢字のお陰か。漢字さまさまである。

ただ、付け加えておくが、漢字リストにないもので「自分の名前をペイントしてほしい」という要望もかなり多数あった。これは、隣に日本語講座ブースがあって、そこで自分の名前をカタカナで紙片に書いてもらっているので、それを持ってきて「これ(自分の名前)を書いて」と注文してきていたのである。よってカタカナも大活躍。

漢字に限らず、自分の知らない文字には、何か人を惹きつけるものがあるのだろうか? 異国情緒のような。私、キリル文字(ロシア語、キルギス語、モンゴル語などで使用)が書けるので、日本に帰って希望する人がいれば書いて進ぜよう。

当日、せっかくなので私も一文字書いてもらった(もちろん、ちゃんと5ソム払って)。サンプル表にはなかったが「龍」を注文。今年は辰年ですからな。で、頬にかいた「龍」は、翌日の昼食時に他の隊員から「まだ龍が残ってますよ」と言われるまで残っていた。顔くらい洗っておけ!

2012/02/16

カラコル冬祭り2012

2月14日、カラコルという市で冬祭りがあった。カラコル市は、東西に細長くのびるキルギス最大の湖(琵琶湖の9倍!)「イシククル湖」の東に位置する。首都ビシュケクからは車で約6時間。私の住んでいるバコンバエバ村からは車で2時間20分。

この祭りは、昨年、カラコル市のツーリスト・インフォメーション・センターで働いていた一人の隊員が中心になって企画・開催された。その隊員はすでに任期終了しており、今年は後輩が引き継いで準備を進めてきた。主催はカラコル市で、協力隊は準備段階での企画アイデアの提供や、当日の日本関連のブースの出展で手伝ったようだ。

私は当日のビデオ記録係を頼まれて、イベントの様子をメインステージ、民芸品製作の作業所が出店しているブース、協力隊が出展しているブースなどを、ビデオカメラを持って撮影して回った。

Karakol_Fes (1)
(民芸品販売のブース。各地の村の工房から出店があった。)

Karakol_Fes (3)
(協力隊員による和太鼓演奏。来場者アンケートで人気ナンバー1だったとのこと。)

協力隊は、「出前日本語講座」で本職の日本語教師の隊員が、日本語の表現やキルギス人の名前をカタカナで書いてあげるブースあり、ボディペイントで、頬や手の甲に希望の漢字を書いてあげるブースありで、これも人が途切れず大盛況。

Karakol_Fes (2)
(日本関連ブースの前も大盛況。)

Karakol_Fes(4)
(デザイン学科学生によるファッションショーなんかもアリ~の。)

昨年は、協力隊がテントの設営から、イベントの進行の調整までやっていて、協力隊なしでこのイベントが継続できるのか疑問に思うところもあったが、こうして現実に、キルギスの現地の人たちの手で開催されて行っているのは前回と今回の企画に携わってきた協力隊員たちの成果だ(準備の裏話を聞いたら、協力隊が気付かなければどうなっていたかと思うような“抜け”は多々あったようだが、そうして少しずつ現地の人に移管していければよい)。

昨年、最初にこのフェスティバルを企画した隊員は、今年の様子を見ることはなかった。すべての協力隊は2年間の任期だから、こうして自分の蒔いた種が、その後、どう花開き、実を結ぶかを見ることができないことも多い。あるいは、自分の活動が何かの成果に結びつかないという隊員も多い。それ自体は残念なことだが、皆それぞれに自分の人生の中の2年間を、派遣された国で手探りしながら活動して、そして日本に帰っていく。

達成感あり、悔恨あり、挫折感あり。それでも2年は2年。その後、現地の人や後輩隊員たちが、何かを引き継いでくれたら、協力隊員としては幸福なことではないかな、と思ったのであった。