2011/09/12

「写真撮って」

村で行われるフェスティバルなどには、カメラを忘れずに持っていって写真を撮るようにしている。日本ではないようなもの、珍しいもの、廃れたものに出会えば、ブログのネタにもなると思い、シャッターを切る。自分がこの国、この村で暮らした思い出としても撮影をする。

さて、そんな風にカメラを持って会場内をブラブラしていると、小さな村のことだから、当然、何人かの知り合いに出くわす。その時に結構言われるのが、「写真撮って」という依頼である。本人の写真、あるいは子供、家族の写真の撮影を頼まれるのである。

村の人たちのカメラ所有率は低い。日本ではほとんどの家庭にコンパクトデジカメは普及しているし、数年おきに買え換えするのも珍しいことではない。いまや一眼デジカメやミラーレス一眼の高性能カメラのシェアも増えているとか。それに比べると、こちらの人にとってはカメラは簡単には手の届く代物ではない。そこで、カメラを持っている人を見ると「撮って」となる訳である。

撮影するだけなら、大した面倒ではないから構わないのだが、こちらがイベント(例えば乗馬競技とか)の写真を撮ろうとカメラを構えているところに、「ちょっと、写真撮って」と横から・後ろから声をかけられると、「今、写真を撮ろうとしているのがわかりまへんか?」と問い質《ただ》したくなってしまうのである。

ちなみに、記念撮影をしようとしているカメラマンと被写体の間を、人が横切っていくのもよくある。こういうのは、自分が写真を撮ることがない、あるいは少ないから、カメラマンの側に立って何が邪魔になるか想像が働きにくいのかも知れない。

そんなこんなで撮影をした後、いつも不思議なのであるが、撮ったデジカメデータ(SDカード)は私の元にあるので、撮影を頼んできた人にとっては意味がないのである。もちろん、職場の人とかであれば、後日職場でUSBメモリーにコピーするとか、現像して渡すとかできるのだが、中には“知り合いの知り合い”とか“通りすがりの人”とかに頼まれて撮った写真もあり、これは一体どうすればよいだろうと、あとでいつも悩む。頼むほうもどういうつもりで頼んだのか…。

先日、そんな話を仲間内でしていたら、「撮られるのが好きなんじゃないか」説が出てきた。

確かに、日本でも子供の集団とかにカメラを向けると、「撮って、撮って」とカメラに群がっている情景が浮かぶ(自分もやっていたかも知れない)。テレビカメラとかでも子供がカメラに映ろうとして、押し合いへし合いしながらピースしている映像が目に浮かんでくる。すると、こちらで写真撮影を頼まれるのもそれに似たことなんだろうか?

たまに、以前(数週間前、数ヶ月前)に撮影してあげた人とばったり会って、「あの写真は?」と訊かれることがある。あのぅ、どこまで私めに期待していたんでしょうか…?(現像もしておけってこと?)

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