年越しは、大抵どこの文化でもイベントが伴うものだが、そのやり
方は色々と異なる。
日本なら、年が替わると、近くの寺社に詣でる人も多かろう。紅白
歌合戦のあとの「行く年 来る年」も、そういう人々を中心に番組
製作をしている(紅白歌合戦がなくなっても、この番組は存続させ
てほしいと思う)。
キルギスでは、12月の最終週あたりから「С Новым Годом」と言っ
て、新年への祝辞を述べはじめる。日本語に訳すとしたら、さしず
め「よいお年を」という所か。
私の配属されている職場では、12月30日にスタッフのパー
ティー(日本だった「忘年会」になるか?)が開かれ、村の中のレ
ストランの一室を借り切って、食事、ダンス、ゲームなどをした。
その席上で、組織のトップ(こちらではディレクターと呼ぶ)が、
「明日は休みにします」と宣言。そう、元来、12月31日まで出勤日
になっていたのだ。それが前日になって休日宣言。スタッフはみん
な「Ура!!(ウラー = やった〜。いいぞ〜。)」と言っていた
が、私は内心、「そんなことは年間スケジュールで決めておく話だ
ろうに…」と半ば呆れつつ、この辺のいい加減さの中で仕事をして
いるのも、気分が良いのであった(日本なら宴席で上司が「今日は
無礼講だ」というのが限界でしょうな。社長がいきなり「明日は休
みにする」という職場があったら、是非勤めてみたいね)。
さて、そういう訳で大晦日は出勤しなくてよくなり、10時半頃まで
布団の中。起きると、ホームステイ先のお母さん(キルギス語
「Эже(エジェ)」と呼ぶ)から、年越しに向けて部屋を掃除してお
くよう言われる。日本の年末大掃除と似た感覚かも知れぬ。
そして、新年の食卓に出すための寿司を作るように言われ、午後は
巻き寿司を作った。Эжеもキルギスの料理を作っていた。これが夕
食の食卓に並んだ。
家族だけの食事であるが、いつも食事をしている居間ではなくて、
客間のほうに配膳して、そこで食事。20代半ばの息子も同居してい
るのだが、彼は夕食前にどこか友人の所に行ってしまい、私とЭже
二人だけの食事。
この家は5人姉妹と1人の息子がいるので、「子供たちがいた頃は、
部屋が一杯だったんだよ…」と昔話が出る。夫も11年前に亡くして
おり、娘たちは嫁いだり、大学に通うために首都で下宿していたり
でおらず、家に残っている息子も外出。結局、外国人の下宿人であ
る私と二人での食事となった。
もし私がいなかったら、どうなったんでしょ? その場合は息子は
家に残っていたかな…。
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