2012/05/30

Train at Bishkek 2 station.

前に書いた第2ビシュケク駅(Вокзал Бишкек 2)で撮影した鉄道車両の動画。

鉄道ファンが見たら「!」となる映像なのかしらん?

一日に何便も出入りがあるわけではなさそうで、停留している車両がなんとなく手持ち無沙汰な雰囲気。

貨物運送としても使われて走行している姿も見たことがあるが、今は大型トラックにその座を奪われているようである。特に、中国からの物流は、キルギス-中国間の鉄道線路がないので、トラックにならざるを得ない。キルギスの線路は、ソ連時代にモスクワへの物流手段として作られたものなんだろう。

客車のある国内便も走っているが、こちらも利用する人は少ないようだ。一部の区間では線路と、車の幹線道路が並行しているのであるが、列車のほうが車に追い抜かれている。車より遅い、っていうのが、日本の鉄道の事情とはかなり違うんじゃないか。

車のほうが速いっていうことと、線路は国内のごく限られた区間しか敷設されていないことがあって、ほとんどの人にとっては鉄道移動は使い勝手が悪い。みんな、基本的にはマルシュルートカ(маршрутка、路線乗合ワゴン)か乗合タクシーを利用している。

帰国まで残りわずかだが、一度は乗っておきたいと思っている。乗車体験者によると、夏場は車内がめちゃくちゃ暑かったらしいけどね…

2012/05/28

入浴頻度

村でホームステイしていた頃、風呂に入るのはだいたい1週間に一度であった。1週間に一度、サウナを焚いてくれるのであった。

サウナを焚くのは、薪や干糞(牛などの糞を固めて干した物)をくべなければならないから、それなりに金のかかる話なわけで、毎日というわけにはいかないし、できるだけ大勢の人がいる時のほうが効率がよい。だから、家族のメンバーのうち何人かが不在の時は「今週は人が少ないからやめとこ」みたいなことになる場合もある。あるいは、「明日、誰それの家でサウナを焚くから行こう」と行って、出かけることもある。

とにもかくにも、村では風呂に入れるのはよくて週に1回なのである。それ以上入るのは贅沢とさえ言える。

田舎のほうに配属されている隊員の中には、週一度でさえ贅沢という人もいるようで、私が聞き及んだ範囲では30日間風呂(サウナ)に入れなかったという女性(!)隊員もいた。まあ、そこの村では普通の生活なのであろうが、それに順応できる隊員って、かなりたくましい(というか、順応せざるを得ないのであるが)。

さて、私は村から都市(首都)に移って、風呂の環境も大きく変わった。

まず何より、自宅にシャワーがある。以前のブログにも書いたが、温水は常時供給されている。だから、浴びたければいつでもシャワーを浴びることは可能である。

だが、私にしてみると、毎日シャワーを浴びることには、どこか抵抗感みたいなものがある。いや、私が無精者で汗を流すのを面倒くさがっているからだけではない(それがあることも否定はしないけどね)。

村で世話になっていたホームステイ先の人たち、またそれ以外の村人たち、さらには30日間風呂に入らなかった隊員のことを考えると、「毎日シャワーを浴びているお前はなんなのか?」と。別に、毎日シャワーを浴びたところで、悪いことは何もしてないのだけれど、同じ国の中で、1週に一度、あるいは1ヶ月に一度という頻度でしか風呂に入れない人たちを知っている以上、なんかそこに後ろめたさみたいのがある、ということなんだろうかね? (って、誰に訊いてるの、これ?)

私が任地を変更したのと同時期に、やはり同じ村から別の町に移った隊員(女性)がいたのだが、彼女とたまに会った時のあいさつは「風呂は週1回?」である。

すまんが、私はここ最近、3日に一度は入ってしまっている。ああ、村生活経験者としては堕落したな、オレ。

ただ、面白いことに、最初から町、特に首都に配属された隊員なんかは、毎日シャワーを浴びるなんて当然のことのようで、村生活経験者が入浴頻度がどうのこうのと言う話して、1週間に二度以上風呂に入る隊員を蔑んでいるような感覚っていうのが、どうも共有されないのですな、これが。いや、別にそれが悪いわけではないのよね、当たり前だけど。

生活環境、経済的条件によって、人の価値観なんていくらでも変わる、っていう話なんだろうと思う。自分が身を置いた場所でなければ、そこで感じるであろうこと、考えるであろうことを、実感的に想像するのって、たいがいの人にとっては至難のことであるだ。

まあ、ともあれ、こんなことをブログのネタにしている私なのであるが、日本に帰るのは夏のど真ん中。一日に3回行水する日もあろうというものだ。

ソフトの自動起動・常駐を止める

フリーソフトをインストールする際に、自分にとっては不要なソフトもインストールするよう誘導されるような仕掛けがあって困りものなのだが、これ以外にも困るのがソフトの常駐である。

ソフトの常駐はフリーソフトに限らない問題(と言っていいのか分からないが、少なくとも私にとってはそれは「問題」なのである)で、有料ソフト、大手ソフト会社のものと、出所を問わずにある。

これは何かと言えば、OSを立ち上げた時に、そのソフトが自動的に起動するように設定されていて、ユーザーは自分ではそのソフトを起動させた覚えはないのに、ソフトが動いている、あるいは待機している状態である。ウィルス対策のようなソフトの場合、真っ先に働き出してくれないと困るから、自動起動・常駐してもらって構わないのだが、中には必要がないのに自動起動しているのがある。

ソフトを追加するたびに、Windowsの起動時間がどんどん長くなっている、プログラムの処理も時間がかかるようになっているパソコンがあるが、問題の一つはこのような自動起動・常駐するソフトだ。

最近のパソコンユーザーの多くはSkyp●をインストールしていると思うが、これもインストール直後は自動起動するように設定されている。ブロードバンドでネット接続していて、かつSkyp●での通話を頻繁にしている人にとっては自動起動にしておいて、パソコンの電源を入れると同時にSkyp●もスタンバイ状態になっているほうが使いやすいのだろうが、現在の私のネット環境ではSkyp●は常時使うものではないので、自動起動・常駐の必要はなし。

余談だが、Skyp●の場合、いつ自分がログイン、ログアウトしたかが他人に伝わってしまうのも、私にはなんとなく気味が悪いので、ログイン、ログアウトも表示されないようにしている。仕事で使っているわけではないので、これも許されるだろうと解釈している。

他にも、G●M Playerや、MS● messengerなんかもデフォルトで自動起動になっているはず。

ソフトが常駐していると、そのソフトを使いたい時に、ゼロから起動させるより早く作業を始められるから便利な面もあるし、Skyp●や●●メッセンジャーのような通信用のソフト場合、相手から連絡があった時に対応するためには常駐させておくことが必要だという面もある。

だから、そのあたりはここのユーザーのパソコン使用環境によっても設定は変わってくるのだが、自分にとって必要のない、あるいは使用頻度の低いソフトが自動起動・常駐の設定になっていないかは見直す価値はある。

たまに、協力隊仲間からパソコンの相談を受けて、その人のノートパソコンを見ることがあるのだが、ほとんどの場合、タスクトレイにズラ~っと常駐ソフトのアイコンが並んでいる(ついでに言うとデスクトップもゴチャゴチャ)。もはや、当人もどのソフトが自分に必要かもわからない状態になっているように見受ける。

そういうのを見るにつけ、パソコンって、自分でプログラムを作れる人から、OSもネットもその他のことも、その仕組みについては何も知らずに、それでいて毎日使っている人まで、すごい幅の広い人たちが使っているんだなぁと、ある意味で感心するのである。

Вокзал Бишкек(Bishkek Station)

Я снимал фотографии вокзала Бишкек. (Pic1)

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(Pic1: Вокзал Бишкек/Bishkek Station)

По правде говоря, он назвается “Вокзал Бишкек 2”. Однако я не знаю, где первый вокзал находиться…

Отсюда могут ездить в  Москву. (Pic2)

時刻表
(Pic2: Железнодорожное Расписание/A Timetable of departures and arrivals)

These are photos of Bishkek Station.  Actually the name of station is “Bishkek Station 2”. Maybe, the Station 1 exists somewhere in Bishkek, though I don’t know where it does.

You can travel to Moscow from this station. It seems that every 4 days a trains depart from here, and also arrive to here.

Pic3 & 4 are trains which are standing by at the station. I think cars of trains are more than Japanese trains.

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(Pic3)

ビシュケクの鉄道駅。「ビシュケク駅2」と書いてあった。「2」ってことは、どこかに「1」もあるはずだが、どこにあるのか私は知らない。(Pic1 駅舎外観)

時刻表を見ると「ビシュケク-モスクワ」とあり、ここからモスクワまで行けることがわかる。駅員らしき(もしくは警備員)男性に訊いたところ、モスクワまでは4日かかるそう。(Pic2 時刻表)

私が行った時はいつも客がいなくてがらんとしているのだが、鉄道の出発・発着の日であれば人出があるのかも知れない。そういう時の駅の風景も見てみたいものだ。

train
(Pic4)

Pic3と4は、線路に停車していた車両の写真。Pic4の青い車両は動いて、旅客車両との連結作業をしてたみたいだった。鉄道マニアが見たら何の作業かだいたい察しがつくのだろうが、残念ながら私はその方面はとんと知識がなく、「あ、動いてる」程度の認識。動画も撮ったので、機会をみてアップしておく。

2012/05/27

不要なソフトをインストールしてしまう“罠”

昔書いた「Babylonのインストールはお勧めしない」という記事に、今もアクセスがある。ここは協力隊ブログであって、パソコンの専門ブログではないのだが、Babylonをインストールしてしまって困った人が、解決策を求めて検索をした結果、私のブログにも行き当たるのであろう(私の記事ではBabylonによるトラブルの解決策を示しているわけではない。レジストリをいじる必要があるようなので、本当に厄介なソフトである)。

今は、パソコンを購入した時のままで使うということはぼあり得ず、市販ソフト、フリーソフトを後から追加しながら使うのが当たり前である。で、フリーソフトを入れる時に、知らず知らずに陥ってしまう“罠”がある。

フリーソフトをインストールする時の手順で、最初に利用規約に「同意する」をクリックし、その後はインストール場所、フォルダ名などを指定する画面が出てくるが、たいていは変更する必要がなさそうな項目なので、内容の詳細を読まずに「次へ」をクリックしていく人も多いと思う。

で、最後まで「次へ」をクリックしていけば、めでたくインストール完了となるのだが、この手順の中で、よくよく読んでみると、自分が意図していないソフトが、“ついで”にインストールされるようになっている場合がある(ほとんどフリーソフトでそうである!)。

よく見かけるものとしては、

yah●o!ツールバー
Go●gleツールバー
a●kツールバー
JW w●rdツールバー
Go●gle Chr●me (ウェブブラウザ)
Babyl●n (多言語翻訳)
B●idu IME (日本語変換)

といったあたり。

いやらしいのは、これらのソフトについては、「●●をインストールする」という項目があって、自分で選べるようにはなっているのだが、デフォルト(最初の状態)ではインストールするほうにチェックが入っているのである。だから、ちゃんと読まずに「次へ」をクリックし続けると、“知らないうち”にそのソフトのインストールに同意したことになっているのである。

不要ソフトのインストール以外にも、勝手に同意するほうにチェックが入っている項目があって、「●●のショートカットをデスクトップに作成する」とか「●●をスタートメニューに登録する」とかは勝手にチェックが入っていることが多い。まあ、これらはそのまま進んでもそれほど悪い影響はないと思うが、私はデスクトップは極力すっきりさせておきたいので、デスクトップへのショートカットに関してはチェックを外すことにしている。

デスクトップ、スタートメニューについてはまだ許せるのだが、迷惑なのはファイルの関連付けを変えられてしまうケース。たとえば、デフォルトのウェブブラウザを変えられてしまったり、音声・動画ファイルの再生ソフトを変えられてしまうケースはよく見る。

もちろん、たいていの場合は、自分でファイルの関連付けを設定しなおすことは可能であるが、パソコン(Windows)に詳しくない人にとってはどうしてよいかわからず困惑するケースもあるだろう。また、自分で設定を変更しなおせる場合でも、設定を自分でやり直す手間は面倒である。

ネット上の記事を読むと、「インストールの時にちゃんとに内容を読まずに『次へ』をクリックする本人が悪い」と書いている人もいる。それは正論なのであるが、それならばデフォルトではチェックボックスにチェックが入っていないようにしておけばよいだろうと私は思う。その上でインストールしたいと判断するなら、自分でチェックを入れればよろしかろうに。

この手のソフトがインストールされやすいように、巧妙なやり方でユーザーを誘導しているのはいやらしいと思う。その一方で、有料ソフトにも匹敵するような優れたフリーソフトもあるわけで、「こんなに便利、優秀なソフトをフリーで使ってよいんだろうか」と思うことも多々ある。結局のところ、それらのフリーソフトは、ユーザーが本体ソフト以外にのソフトのインストールもすることで、有料ソフトの会社から一定の見返りがあるということなんだろうと推察するのである。

優秀なソフトを無料で提供してもらうためには、そういう仕組みも必要なことと飲み込むしかないのかも知れない。ユーザーとしては、ちゃんと読まずに「次へ」をクリックすることのないように自衛するのが基本ということだろう。

2012/05/25

Brown Green Tea

キルギス人の生活に茶は欠かせない。食事の時は必ず茶を飲む。日本人でも、食後に茶を飲む人はいるだろうが、すべての人という訳ではない。キルギス人はほぼ100%。子供の頃から茶を飲んでる。

キルギス人が飲む茶は紅茶であるが、日本語で「紅茶」と呼んでいるお茶は、ロシア語、キルギス語では「黒茶」となる。あの色を「紅」と見るか、「黒」と見るか、文化によって異なるのが面白い。

さて、キルギスには紅茶(黒茶)のほかに緑茶もある。日本人にとって「茶」と言えば緑茶が基本だから、海外においても緑茶が飲めるのは嬉しい。

そう思って、緑茶の茶葉を買ってみたことがあったが、これに湯を注いで茶を出してみると、これが「緑茶」ではなかった。色が茶色なのである。茶色、というか褐色というか。

う~ん、なんでこれが「緑茶」なんだろうと思う。日本人的感覚ではウーロン茶のような色である。おそらく、ウーロン茶のような茶が、ここでは緑茶というカテゴリーに入れられているんではないか。

この手の「茶色い緑茶」はロシア語表記で売られているから、ロシア語文化圏では共通の現象だと思うのだが、その文化圏では、ウーロン茶も緑茶も同じカテゴリーの茶として扱われているのかも知れない。

そういえば、緑茶のことを「日本茶」とも呼ぶなぁ。「煎茶」とも。とすると、茶葉を煎じる飲み方というのは、日本独特の飲み方ということかしらん?

茶の話題を書いたついで(と言っては失礼かも知れないが)、とある茶農家の人のブログのリンクを貼っておく。

わがえん茶~鹿児島枕崎のお茶農家日記~

このブログを書いている人、実は、私が前回協力隊に参加した時の同期隊員。私はマレーシア、彼はラオスへの派遣だった。二本松訓練所で、宿泊部屋が隣だった。現在は、鹿児島県枕崎市で茶栽培をしている。

ブログから申し込めば、新茶の購入もできるみたいなので、お茶好きな人はCheck it out!

2012/05/24

そしてアリストン登場

ビシュケクでは、5月中旬からの1ヶ月間、市内への温水の供給が止まるのだが、その間、各家庭ではどう対処するのか?

もちろん、すべての家庭の状況を知っているわけではないので、私の見聞する範囲の話になるが、ビシュケクで温水供給が休止になる時期は、それぞれの家庭では備え付けの電気湯沸かし器で湯を沸かしている。

ちなみに、我が家(借家)ではトイレ内にその湯沸かし器が設定されている。

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(トイレの天井近くに設置されている湯沸かし器)

温水供給が止まるまでは作動させていなかったが、温水が止まる日に大家さんが来てくれ、湯沸かし器の電源を入れ、配管を開けるのをやってくれた。

そのおかげで湯が使えるのはありがたいが、なにせ湯を沸かすわけだから、この機械自体が熱を持ち、トイレ内の温度がこれまでよりも高くなってムシムシする。温度が高くなって、コバエの繁殖スピードが速まるのか、羽がハート形をした、日本でもおなじみのコバエがたくさん発生するようになっているように思う…。「ムシムシする」は「蒸し蒸し」と「虫虫」の両方に係っているのか…

この電気湯沸かし器、一番有名かつ人気があるのが「アリストン」という会社のものらしく、キルギスの人たちはその商品名で湯沸かし器のことを指して使ってる。「アリストンの電源、切っといて」みたいな感じ。

固有の商品名が、その商品全体を表わすものとして使われる例はほかにもたくさんある。「パンパース=おむつ」「ピンポン=卓球」「エレクトーン=電子オルガン」「オセロ=白黒陣取りゲーム(リバーシ)」「マジック=油性マーカー」などなど。昔はテレビゲームと「ファミコン」も同義語だったような気がする。ここに挙げた商品名以外にも、私が気づかずに「○○」と言っている物が、実は商品の固有名詞だということはあるのである。

私、こういうのはなぜか好きなのである。その商品を開発した人、会社にしてみれば、そこまでその商品がビッグネームになるとは思っていなかったはずのものが、いつの間にか商品群の代名詞になっている。開発者・社にしてみれば、ちょっと感動ものの話ではないだろうか。

NHKは、特定の商品名を出してはいけないのが原則らしく、視聴者参加の生放送なんかで、一般の人が何の気なしに「最近、○○に凝ってましてぇ…」なんてことを言って、アナウンサーが慌てて言い換えているのを見たり聞いたりするのが、なんとも言えないスリルを感じてしまうのである。

特に、ラジオ第一で平日の午後にやっているラジオ電話相談では、DIY(Do It Yourself、日曜大工)や園芸の相談の日は、相談者が呑気にも商品名を口走りはしないかと、ハラハラしながら聴くのがちょっとした楽しみであった。

だいぶ話がそれたが、そんなわけで、今は我が家のアリストン(本当の製品名は“thermex”と書いてあるが…)が活躍中であり、トイレは熱がこもらないように扉を半開き、という状況である。

毎年恒例の温水供給停止

去る5月11日(だったと記憶している)から、ビシュケク市内の温水供給が止まった。「温水供給」と言うだけでは、このブログを読んでいるほとんどの人にはピンと来ないんではないかと思う。

日本で温水と言えば、各家庭でガス、または電気で水を温めたものを使っている(それ以外もあるのかな? 薪で湯を沸かして使っているとか)。その環境ならば、ガス、電気が止まれば温水も出なくなる。ただ、ビシュケクの環境はそれとは違うので、説明が必要である。

ビシュケクの温水というのは、各家庭で沸かすのではなく、「温水工場」みたいな所で湯を沸かして、それを全市内にパイプを通して供給している。偉そうに書いているが、私もそのパイプを実際に見たことはないので、どこをどう通っているのかとかは分かっていない。ただ、「温水工場」と私が勝手に思い込んでいる煙突があって、それは写真に納めてある。

chimney
(温水工場の煙突?)

これらの煙突は、ビシュケクの中でもひときわ背が高く、地方からビシュケクに来る際、ランドマーク的な存在として目に映る。

聞くところでは、温水工場から温水を供給する際に、そのパイプ自体が温水で温まって暖房となっているらしい。そのため、チョルポン・アタという町では、暖房が必要な冬場は温水が供給されるが、暖房が止まる時季は温水供給も止まるのだと、かつてその町にいた先輩隊員が話してくれた。

ビシュケクで温水供給が止まるのは、設備のメンテナンスのためだそうで、おそらく湯を沸かす装置の点検や、湯が通る配管の補修なんかが行われているのだろう。先に挙げたチョルポン・アタという町では夏の間、温水が出ないらしいが、ビシュケクの場合はメンテナンスが行われる1ヶ月の間だけの供給停止である。

2012/05/23

マナスチュと琵琶法師

キルギスの英雄物語『マナス』を語るマナスチュについて書いていて、日本の琵琶法師のことをちょっと考えた。

日本でも琵琶法師も、マナスチュに類似したストーリーテラーであった(まだいるのか?)。口承で物語を覚え、それを語る。それが廃れてしまったのはなんとももったいない限りである。かたやキルギスではマナスチュは今も健在である。

両者の一番大きな違いは、琵琶法師の場合、琵琶という楽器が弾けなければならないので、これは大きなハードルであることは間違いない。マナスチュのほうは、今でいう“ラップ調”に語るスタイルなので、楽器演奏はしなくていい。

琵琶法師は盲人がなるものだったようだが、手元の電子辞書に所収の「ブリタニカ国際大百科事典」でその項を見てみると、当道《とうどう》という琵琶法師の自治組合があったのだが、明治にはいって当道制度がなくなり、それに伴って琵琶法師も激減したそうである。

かつては、一般の職には就けない盲人たちの自活手段として琵琶法師という道があったのだろうが、そのことが逆に「琵琶法師=盲人の仕事」という固定化につながり、盲でない者の中からは『平家物語』の語り部になろいうという者が出ない構造になったのではないか。このあたりの、なり手が絞られてしまった点も、琵琶法師とマナスチュとの違いだと思った。

ベベベン。

2012/05/22

5月21日、マナスの日

キルギスのテレビ局の放送を見ていたら、昨日(5月21日)は「マナスの日」だと言っていた。

「マナス(Манас)」はキルギスの英雄的人物で、また彼の生涯を描いた物語の名称でもある。キルギス人にとっては国民的なヒーローであり、日本でいえば記紀神話に出てくる神々みたいな存在なのではないかと思う。話はかなり神話化されているようだが、マナス自体は実在した人物だとのこと。彼の出身地タラス(Талас)には彼の生誕地だか、歿歯《ボッシ》地だかにマナス廟が建てられている。

マナスの物語は詩の形式で書かれており、その長さでは人類史上最も長いものなのだとか。キルギスの書店、図書館に行けば必ず『マナス』本は置かれているが、なにせ広辞苑くらいの厚さで2冊とか、百科事典サイズで3冊とか、―文字のサイズ、段の組み方なんかによっても違いは出るが―、とにかくそういうすごい分量の内容量の物語である。

日本語でも平凡社の東洋文庫で3分冊で翻訳されている。ただし、もちろん、この分量で翻訳して収まりきるわけはなく、抜粋訳になっている。

(Amazonのブックレビューに「キルギスという土地は、今は自治州であり」と書かれているのだが、キルギスは1991年に独立したので、参考にしたデータが古かったのではないかと思われる。)

本の厚みに思わず後ずさりしてしまう『マナス』なのであるが、さらにすごいのは、元々『マナス』物語は歌うように語るものとして成立したもので、それは口承で伝えられてきたという点である。

『マナス』物語を語る人を「マナスチュ(манасчы)」と呼ぶ。この人たちは『マナス』物語を憶えていて、それを何日もかけて物語るのである。聞いた話では、全編を語り終えるのに昼夜語り続けて1週間程度かかるそうな。前述の通り、元々『マナス』は口承文学であるから、マナスチュは先代から教わるか、聞き覚えるかしてマスターしていくのだろう。

いや、そうではなくて、マナスチュは教えられる、習わずして、ある日突然語れるようになるのだ、という話も聞いたことがあるが、それh民間信仰的な要素の混じったエピソードではないかと思う。ただ、口承による文化伝承というのは、文字による伝承に馴染んでしまっている私のような者には想像も及ばない世界があるようなので、一概にすべてを否定できるとも限らない。日本でもかつては琵琶法師による『平家物語』の語り伝えがあったし、アイヌ民族の神話伝承も口承であった。ちょっとタイプは異なるが、落語も師匠・先輩から弟子・後輩への口伝えが基本だと聞く(今はボイスレコーダーに手本を録音してもらって、家で練習するそうだが)。

突然話し始めるというエピソードの真偽は別にしても、あれだけの分量のストーリーを空《そら》で語れるというそれ自体がすごいことである。マナスというキルギス人の英雄、その物語を語る、しかも尋常でない分量を暗記しているのだから、マナスチュは人々から尊敬を受ける存在である。キルギスの500ソム紙幣にプリントされている人物も、有名なマナスチュの人である。

で、昨日は「ЭЛТР」という、キルギスの民族文化の放送に力を入れているチャンネルで、何時間も「マナスの日」を記念した番組が放送されており、マナスチュが『マナス』を語っていた。当然、すべてを語りきることはできないから、部分部分に区切っての語りだろうが(キルギス人にとっては、『マナス』の中の定番のシーンがあるのではないか。『平家物語』なんかでも歌舞伎になっているような人気のある物語があるように)。

manaschu1
(『マナス』物語を語るマナスチュ)

    manaschu2
    (何人かのマナスチュが交代で語っていた)

    いつかマナスチュの語りを動画でもアップできればと願っているが、その様はまさに現代のラップに通じるようなリズミカルで、独特の抑揚をつけた語り方である。キルギス人の子供たちの中には、そのリズム感に憧れて口真似をしているのを見かける。

    こういう芸能(こういうものこそ本当の「芸能」だ。今のテレビに出ているのははしゃぐだけのお調子者が多くて、芸を持った「芸能」人ではない)が、今も人々に愛されて敬われて伝えられているのは、キルギスの魅力の一つだと思う。

    「協力隊のブログリンク」を更新

    このブログのおまけページとして設置している「協力隊のブログリンク」のページを更新した。

    新たに見つけたキルギス隊員のブログをリストに入れ、すでに帰国した隊員のリストは別に分けた。少し見やすくなったんでは。

    キルギスという同じ国に派遣されていても、職種が違えば、住んでいる地域も違う、趣味も違えば、現地の人との交流の仕方も違う。私が気づかないようなことや、おそらく出会うことのない出来事・物なんかも、他の隊員は書いていたりもするので、これらのブログを読んでもらえば、キルギスについて私のブログとは違った情報が得られる。ぜひ読まれたし。

    2012/05/19

    買うなら今だ (2)

    協力隊員が、任国で買い物をするなら、使用機会は多くなって「元が取れる」から、買うのは早ければ早いほどよいと書いたのだが、もう一つ、キルギスでは(おそらく協力隊が派遣されている他の多くの国でも)、別の側面でも「買うなら今だ」がある。

    たとえばミッキー●ウスのTシャツがほしいとしよう。

    で、それをある店の店頭で見つけたとする。その時に、「ちょっと高いから、別の店を見てからにしよう」とか「別の色がほしい」とかで買わなかったとする。

    不思議なことに、そうやって一度スルーしてしまった商品には、再び出会えないことがある。

    後日、同じ店に戻ってみても、すでに売れてしまっていれば、それきっりである。再入荷するのかどうかは店の人さえもわからない。

    あと、バザール(市場)なんかで言えば、ある店で気になる商品を見つけても「他の店を見て、比較してから買おう」と思って、

    他の店をぶらぶらしていた後、「やっぱり、あの店で買うことにしよう」と決めて、その店に戻ろうと思っても、バザールの中の土地勘が働かず、その店に戻れないこともある。自分が行き慣れたバザールであれば、だいぶ店の並びも覚えてきたとは思うが、それでも「あの店、どこだったかねぇ、婆さんや」と日本昔話風に心の中でつぶやいていることがある。

    そういう経験を何度かしているうちに、また他の隊員からもやはり同じような経験をしている話を聞いているうちに、買おうかどうか迷ったら、「今買う」という判断をするようにしている。

    もちろん、そのあと、同じ商品を別のところで、しかも値段が安い物を見つけるという場合もあるのだが、二度と見つからないケースよりは数十円の差なら買っておいたほうが後悔は少ない。

    私の記憶では、百円均一ショップのダ●ソーに、「同じ商品を仕入れできるとは限りません」旨の注意書きがされていたはずだ。これは、客の中に「前に来た時に見た××がないんだけど」みたいなことを訊いてくる人がいるからなんだろう(他のケースもあるだろうし)と想像したのだが、そうは言ってもダ●ソーはかなり商品の供給は安定しているんじゃないのか?

    今、私は首都の隊員になったので、途上国とは言えど、首都にいるとたいていの物は「探せばある」という感じである。だから、「買うなら今だ」感覚は、村にいた時よりも弱くなっている。

    2012/05/18

    買うなら今だ (1)

    協力隊の任期は2年間である。どの隊員にとっても、そこの国、町、村での暮らしは初めてであり、当然、生活に必要な物資のほとんどは現地で手に入れなければならない。

    そろえなければならない物品は国・地域によっても、また隊員個々人でも異なるところはあるだろうが、現地で新たに買わなければならないような物の場合、買うタイミングが難しかったりする。

    たとえば、胡麻とかをするための“すり鉢”がほしいと思ったとする(←これ、自分が今ほしいと思ってるわけ、結局)。地方だと、それが売ってなかったりすることもあるから、「次に首都に行く機会があったら、店で探してみよう」とか思うのだが、首都に行くのが2~3か月、あるいは半年先ということにであれば、すぐには入手できない。

    たまたまある店で売っているのを見つけても、「なんか、これ値段が高い感じがするなぁ」と思って、「別の店ならもっと安いのがあるかも。もっと探してみよう」なんて気を起こすと、買う時期は先延ばしになる。

    こんなふうにして買うのが先延ばしになって、気づいてみると自分の協力隊任期が半分を過ぎていたりすると、「残り1年間ですり鉢なんて、何度使うんかいな? 本当に買う意味あんの?」と考えてしまう。考えているうちに時間はさらに経ち、祇園精舎の鐘の音。

    私は、新しく赴任した隊員には言うのだが、本当にほしい物(かつ値段も数万円とかでなければ)ならば、早く買えば買うほど得だよ、と。その物を使えるのは、自分の帰国するまでなのだから、早く買って使い始めれば、それだけ「元を取る」機会は増えることになる。

    今、私の任期は残り3ヶ月を切っているが、このタイミングで新しい物を買おうと思っても、「いや待て、これあと何度使うんじゃい?」と自問して、買うのを思いとどまっている。たとえばすり鉢なんか、日本にいたって、月に何度も使っていなかった物だから、今買ったとしても、キルギスにいる間に使うのも1~2度になることが想像できる。そう考えると、今さら買おうという行動にはつながらない。

    もしこのブログを読んでいる世界各地の、赴任して半年未満の協力隊員の人がいるなら、私は「ほしい物があるなら、買うのは今ですよ」と、心優しい先輩隊員の経験に基づくアドバイスを送るのである。

    (それにしても、たまにすり鉢使いたいのよねぇ…)

    2012/05/17

    ビシュケクだから買えた物 (2)

    キルギスにおいて、首都のビシュケクだから買えた物、ほかにも思い出した。

    ボックスティッシュ

    村では、ティッシュペーパー自体が珍しかった。売っていたとしても、ポケットティッシュばかりで、ボックスに入ったティッシュペーパーは売っていなかった。そういう物で洟《はな》をかむのは、贅沢というか、金を払ってまですることではないという感覚なんだろう。村の人たちは手鼻をかんでいた。女性でもそう。中にはハンカチでかんでいる人もいた。

    ビシュケクでは、チェーンのスーパーマーケットで普通に売られている。ボックスティッシュはカラコルという町でも買えたので、村隊員だった時は、ビシュケクやカラコルへ行った際にボックスティッシュを買って使っていた。

    2012/05/16

    土産をどうするかという問題

    7月末の帰国まで残り2ヶ月半となった。村にいた時には想像もしなかったような仕事のペースになって、平日は職場と自宅の往復で一日が終わっている感じになっている。それはそれで充実感があるので構わないのだが、こんな感じで日々を過ごしていると、2ヶ月半なんてアッという間に過ぎ去っていくだろうことはほぼ間違いない。

    22年度1次隊のキルギス隊は1ヶ月遅れの赴任だったから7月末で2年満了となるが、他の同期は6月下旬で任期満了の予定で、すでに残り1ヶ月ちょっとになっている。1ヶ月ちょっと言ったら、もうほとんど帰国準備の頃である(まあ、計画的に準備がでいる人の場合はね。私は帰国最終日までバタつく方の部類だろうな)。1ヶ月半、2ヶ月半の差はあるにせよ、22年度1次隊もいよいよ帰国する日が近づいてきている。

    帰国の支度をする中で頭を悩ますのが、日本で再開する家族、親戚、友人、知人への土産をどうするかという問題である。

    2年間、現地で暮らしていれば、いろいろと面白い物、珍しい物に出会う。日本にいるみんなにも手にとって見せてやりたいと思う物がたくさんある。が、もちろん、そんな物を一つひとつ買っていては、荷物が膨大になってしまう。

    加えて、日本でどれだけの人に土産を渡さなければならないかというのが、これまた厄介な問題である。今から確実に会うであろうことが予想できる人もいるが、いつ会うことができるかわからない人もたくさんいる。

    協力隊経験者の友人であれば、土産物を持ち帰るのがどれだけ手間かをわかっているから、「ごめん、土産はないですぅ」を言わずとも理解してくれる(と思う)が、協力隊など興味もないという人にしてみれば、「海外から帰ってきて土産物がないとは失敬な」と思う人もいたり、いなかったり。まあ、怒るような人はいないと思うが…。

    生意気と思われるかも知れないが、一言弁解じみたことを書いておくと、青年海外協力隊は旅行に行っているわけではない。普通の海外旅行のように現地の土産物を期待している人は、どうかその点を理解してもらいたい。特に私の友人・知人にはそのことを強調しておく。あしからず。

    と、なんだかんだ言っても、隊員はそれぞれかさばるのを覚悟の上で、日本で再開を待つ人たちに土産物を買うのだけれどね。でも、日本語にはいい言葉あるでしょ。「土産話」という言葉。物ではなく、協力隊員が2年間、それぞれの赴任地で見聞したこと、現地の人との思い出、それは絵葉書とかチョコレートに勝る土産である。
    (きれいにまとめたね。)

    2012/05/15

    横浜DeNA、返金チケットに思う

    日本のプロ野球。今年は横浜が球団売却されて新球団になった。もう5~6年、最下位が定位置になっているチームで、今シーズンも戦力的にはかなり厳しく、成績もよろしくない。それでも、中畑新監督が就任して、なんだか他のチームにはない、独特の面白さを醸し出しているように見える。横浜のファンではないが、セリーグの中では断然、このチームを応援したい。

    さて、その横浜だが、球団は勝敗に応じて返金できるチケットを販売していた。このチケット、「横浜が負ければ全額返金、横浜が勝っても、試合に満足しなければ半額返金に応じる」という企画であった。「勝っても返金」って、なんか変だなと思っていたのだが、この企画が終わってニュースサイトで評判のようなものが載っていた。

    トイレ混みすぎ…好調DeNAに「金返せ」行列

    試合とは関係のないところで「満足、不満足」が語られていて、要は安売りチケットとして認識されていただけではないかと思われる。この企画の結果について、特に勝っても返金申請が多数出ていたことについて、中畑監督は「選手の士気に影響する。二度とこのような企画はしないでほしい」旨、語ったそうな。監督も選手もかわいそうに…。

    この企画について、伊集院光もラジオ番組で触れていたようで、面白いことを言っている(ラジオ番組の内容を文字に起こしている「世界は数字で出来ている」から一部引用)。

    伊集院光「横浜DeNA 返金チケットは失敗だ」

    この場合、自分の中に『これは返金できる/できない』じゃなくて、『負ければ全額、勝ったら半額っていうチケット』だって思ってるのかな、と。2千円の、もしくはただのチケットってことで買ってるなら、もう出さないほうが良いよ。まともなお金で入ってる人に対しての、むしろ購買意欲を下げるチケットに過ぎないから

    これ、本当にそうだと思う。私は、このチケット企画の話を聞いた(読んだ)ときに、まさにそのように受け取った。もっと言えば、「横浜が負ければチケット代がタダになる。ならば、横浜、負けろ~」と逆応援をすることになるんじゃないか、と。これでは、現場で戦っているチームはやりきれない。

    その後、伊集院は面白いアイデアを出している。

    負けた回では、チケットを切らず、『勝った試合5回見られるチケットですよ』ってことではダメなんかね?負けた試合では、チケットにハサミは入らないけど、勝った試合は入るから、『これは5勝分見られるチケットですよ』っていうんなら分かるんですけど(略)

    伊集院光のオリジナルアイデアなのかどうかは知らないが、これは面白い。もちろん、いつチケットにハサミを入れるのかとか、そのチケットを持った人が蓄積した場合、座席が不足しないか、などの課題はありそうだが、考えれば解決策は見つかりそうなレベルである。

    伊集院光のアイデアを聞いて、それを発展(?)させたアイデアを私も思い付いた。

    ホームゲーム(横浜スタジアム)で、横浜が勝利したらシートにスタンプをもらえるようにし、スタンプが××個集まったら、1試合分のチケットと引き換えられる。

    というのはいかが? これなら、横浜が勝利することを積極的に応援できる。さらに、スタンプを集めるまでは何度も球場に足を運ぶから、来場者数は上がる可能性もある。さらに思い付いた!

    たとえば、5勝分のスタンプを集めたら、1試合分のチケット1人分と引き換え。
    しかし、5勝分で引き換えずに、9勝分までスタンプを集めたら、1試合分のペアチケットと引き換え。
    そこでも引き換えずに、15勝分までスタンプを集めたら、2試合分のペアチケットと引き換え。

    なんていうのはいかが? 「15勝分を集める」って、ある意味、横浜の勝率で考えると40試合くらい見に行かなければいけないし、そのスタンプを集めている人が見に行った試合が負け試合ばかりにあたることもありうるわけで、達成はかなり厳しいかもしれないが…。こういう企画内容では法律上の問題があるのかしらん?

    横浜の親会社となった企業は、無料ゲームで利用者を集めるというところらしいのだが、その「無料ならば人が集まる」という発想が基本にあるのかも知れない。企画の奇抜さで集客を狙ったのだろうが、その時、現場の監督、コーチ、選手、また今まで応援してきたファンのことはどのように考慮したのだろう。球団経営は、もちろん、ビジネスであるから、売上を上げることが目標であるが、野球チームは球団経営者だけのものではない。

    野球チームはファンのものであり、そして現場(監督、選手、コーチたち)のものである。この人たちが、チームの勝利を喜べないような企画・仕組みを考えるようならば、そのうちファンも現場もチームに愛想を尽かしてしまうだろう。

    その癖はヤバイ (5) ~流し忘れ~

    前回、トイレットペーパーを流さず、ごみ箱に捨てるという話を書いたのだが、あれは日本もその昔、トイレットペーパーの紙質が粗悪だった頃は、同じようなことがあったんではないかと思った。どうなんだろうか。

    さて、キルギスでも地方の村でホームステイをしている隊員は、たいていはぼっとん便所での生活で、最初は水洗トイレを懐かしんだり、ぼっとん便所を不便に思ったりしているのだが、まあこれも毎日のことだからすぐに慣れるのである。

    ぼっとん便所というのは、用を足した後も水を流すことがない。ひもを引いたり、レバーをひねったりということがない。ぼっとん便所に慣れる過程は、すなわち水を流す習慣を忘れる過程でもあったりもする。

    一度、何かの用事で村から首都のビシュケクへ行き(その頃はまだ村で活動していた)、宿泊先のホテルでは、これまた地方から首都へ来た別の男性隊員と相部屋になった。この時、この隊員がトイレを使った後、水を流していなかった。「水流してなかったぞぉ」と伝えると、「いつも、ぼっとん便所だから、水流すのを忘れてた」との弁。この時は彼のドジを笑ったのだが、そのすぐ後に、今度は自分が用便の後、水を流し忘れたのであった。

    私はすでに、首都に引っ越し、水洗トイレでの生活を送っているので、流し忘れることはないと思うが、地方隊員は気を付けなければなるまい。これはキルギスだけの話ではないはず。ひょっとして、帰国日の1週間くらい前に首都に移動するのは、帰国までの諸手続きの他に、都市生活に順応し、地方で身についた習慣を修正させるためでもあるのかしらん?

    2012/05/13

    その癖はヤバイ (4) ~トイレットペーパーを流すな!~

    トイレで用を足して、トイレットペーパーで拭いた後、使い終わったその紙は便器の中に落として水を流す。日本では当たり前のことだが、トイレットペーパーの扱いについては、文化や地域によってかなり異なる。

    キルギスでは、村ではほとんどの家のトイレは“ぼっとん便所”であるが、町では水洗トイレ(「水洗便所」でも同じ意味だが、「水洗」と付くと「トイレ」と書くほうがよい感じか…?)が普及している。

    水洗トイレでの用便に慣れている人にとっては、水洗トイレはありがたいものだが、注意しなければならないのは、キルギスの水洗便所では、トイレットペーパーは流してはいけないことである。

    何故にと言えば、トイレットペーパーが水溶性でないため、下水管の中にトイレットペーパーが残ってしまい、配管詰まりを起こしてしまうからである。日本でも、ティッシュペーパーの注意書きを読むと「トイレに流さないでください」と書かれているが、あれはティッシュペーパーは水で溶けないからである。

    日本ではJIS(日本工業規格)によって、「トイレットペーパー」の基準も設けられているそうである(前にテレビで観た)。確か、「××の水流で××cm3の管に流した時に、××m以内に溶けること」みたいな基準であった。そんなことまで規格があるのかと感心したのだが、それがあってこそ、我々は普段、何の心配もせずにトイレにトイレットペーパーを流せているのである。

    キルギスで売られているトイレットペーパーは、―手に取ればすぐに分かるが―、硬くてごわごわしている。そして水に溶けない。何よりの証拠に、ぼっとん便所の下に落ちているトイレットペーパーに“放水”をしても、紙の形状は変わらない。

    IMG_1376
    (キルギスで売られているトイレットペーパー)

    トイレットペーパーが流せないとなると、使用した紙はどうしたらよいのか。

    キルギスの水洗トイレでは、必ずごみ箱が置かれている。使い終わった紙はそこに入れるのである。

    IMG_1377
    (使用済みの紙はごみ箱に入れる。男子トイレも同様)

    さて、やっと本題なのだが、キルギスで生活し始めの頃は、何度かうっかりと便器に紙を流してしてしまったことがあるのだが、2年も生活していれば、紙を流さないことがすっかり身に付いている。

    そういう癖が身に付いて、日本のトイレ(まずは成田か?)を使うと、「あれ、ごみ箱がない…!?」と焦ってしまうのである。いや、これは笑い話でなく、帰国した先輩隊員から聞いた実話である。

    日本のトイレは個室だから、ごみ箱を探して焦ったとしても、誰に見られるという訳ではなし、「ヤバい」というほどの話ではないのだけれど。

    2012/05/12

    報道の自由ランキング

    ネットのニュースから。

    Kyrgyzstan ranks 155th place in Press Freedom Index

    記事によれば、「フリーダムハウス」というアメリカ政府が出資している団体が、世界の国々の「報道の自由」の度合いを点数化して、ランキングを発表したとのこと。その中で、キルギスは全197ヶ国のうち、155位にランクされているのだという。

    197のうちの155位は、かなり下のほうという気がするのだが、それでも中央アジアの国の中では一番ランキングが上と書かれている。じゃあ、他の中央アジアの国はどうなのかというと、タジキスタン(171位)、カザフスタン(175位)、ウズベキスタン(195位)というランキング結果。

    ウズベキスタンにもJICAボランティアが派遣されているが、報道の自由度では全体の下から3番目の国である。彼の地で暮らし、活動している仲間たちは苦労していないのかと心配になる(当然、そこの国民にとっても改善されるべき状況は多いはず)。

    記事の最後は、197ヶ国中の197位になった国について書いてあるが、やはりあの国であった。

    2012/05/10

    ビシュケクだから買えた物

    地方の村から、首都へ引っ越しをして、地方と都市の生活の違いをさまざまな場面で感じるのであるが、購入できる物品にもそれが顕われている。私が生活の中で買い物をしていて、「あ、これは村ではなかったな」という物を記録しておく。

    豚肉

    豚肉に関しては、当ブログでも何度か触れたことがあるが、キルギス系住民のほとんどはイスラム教徒であり、戒律によって豚肉食は禁じられている。私がいた村では人口の9割以上(97~98%?)がキルギス系の人が占めていたので、村のどこを探しても豚肉は販売されていなかった。

    ビシュケクではロシア系住民の比率がグッと上がり、大きなバザールの肉売り場では豚のコーナーがある。ただし、牛、羊、牛、鶏といったイスラム教徒が購入する肉とは売り場は分けられている。

    地方の村でも、ロシア系住民が大半を占める村もあるので、そういう地域では豚肉が販売されているのではないかと思う。ただし、自分では直接見たことはない。カラコルという市のバザール(市場)では豚が売られていると聞いたが、これも自分が見たことはない。

    きのこ類

    先日、バザールできのこが売られていたので思わず買ってしまった。詳しくないので、種類はわからないのだが、ヒラタケとかマイタケとか、そんな感じだろうと思う(いや、ほんとテキトーに書いていてお恥ずかしい)。

    きのこも村では一度も見たことがなかったなぁ。いや、そういえば缶詰のマッシュルームは買ったことがあった。だが、生のきのこはなかった。私がビシュケクのバザールで購入した時、キルギス系の人も買っていたから、きのこに関しては宗教上のタブーはないのだと思う。

    きのこと言えば、干し椎茸もビシュケクで買えた。村では見たことがなかったが、ビシュケクの人は干し椎茸をどんな料理に使っているのだろう? 干し椎茸はカラコル市では売られているのを見たことがあり、カフェの料理でも見た。その料理は、ペリメニという小さな餃子にホワイトソース、椎茸、チーズを載せてオーブンで焼いた料理だった。結構おいしかった。というか、その時は椎茸が珍しく貴重に思えたので、椎茸が食べられたことに感動したので、おいしく感じたのかもしれない。

    「戦勝記念日」はいつまで続ける?

    5月9日は「戦勝記念日」。前にも書いたが、ここで言われる「戦勝」とは、かつてソ連がドイツとの戦争に勝ったことを指す。

    なにか式典をやっているかも知れないからと、昼過ぎに協力隊の仲間と中心部にあるアラトー広場に出てみた。だが、人は大勢出ていたが、式典らしきものはやっていなかった(帰宅してからテレビを見たら、どうも午前中に式典は済んでいたようだ)。

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    (アラトー広場に集まった人々)

    この写真に集まっているだけでも、前に住んでいた村の人口を超える人数ではないか。キルギスの中ではビシュケクという町は他とは格段に違うことを印象付けられる。

    今日は、ロシアから配信されている放送局も、モスクワでの式典の模様を流していた。つい最近、大統領に再就任したあの人 の演説などが出ていた。

    「戦勝」してから今年で67年経っていて、当時、従軍した人で生存している人はもう90歳前後であり、もうほとんどいなくなっているんじゃないかと思う。第2次大戦に従軍した人だけでなく、それ以降の退役軍人と思われる人たちも列席していて、軍服の胸の位置に勲章メダルを何十個と付けていた。

    私は日本人であり、日本は第2次大戦では敗戦国だから控えめにしか言えない気がするのだが、この「戦勝記念」はいつまでやるのだろう、とテレビを見ながら思った。

    ソ連はすでに存在していない国家だし、ロシアとドイツも今は当時とは別の関係にある。「我らは勝利した!」と書かれた看板・垂れ幕もあちこちに出ていたが、67年経ってもそのことは記念したいものなのか、と私には不思議には思った。

    日本は第2次大戦では敗戦国になったから「戦勝記念日」はないのだが、それ以前には勝った戦争もあった。1945年に負けるまでは、日本もその戦勝を記念して祝っていたのだろうか。もしそうだとすると、次の戦争に負けるまでは、その国は一番直近の戦争の勝利を祝うものなのだろうか。

    2012/05/08

    交通整理? 渋滞原因?

    ビシュケクの大きな通りの交差点でしばしば見られる光景に、交通警察と呼ばれる交通の取締りを専門にする警察官が、交差点の真ん中に立って、通行の流れを指示・誘導していることがある。

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    (交差点の真ん中で交通整理をする交通警察官)

    この交通整理は信号機よりも優先されるようで、たとえ自分の進行方向が青信号であっても、交通警察官が「待て」の指示を出していたら待たなければならない。

    なんでこういうことをするのかというと、一つは、政府要人(大統領、大臣)が公用車で移動する際、信号で止まることなく通行できるように、進路になる道を交通規制するのである。まだ動画は撮れていないが、帰国までには必ず取りたい光景で、高級車がその前後にパトカーを従えて、ノンストップで目の前を通っていくのは大名行列と言おうか、特別扱いであることをまざまざと見せ付けられる思いである。

    こういう場合は、政府要人の車が通り過ぎるまで、10分くらい待たされることも普通である。まあ、これは要人のセキュリティ確保という意味もあるだろう。

    これとは別に交通警察官が交通整理をしていることがある。これがどういうことなのか、私にはよく分からない。

    ビシュケクでは車の所有台数が増えて、平日の日中は交通渋滞が常態化している通りがいくつかある。で、そういう渋滞を解消させるために、交通警察が出て、流れを整理しているのだろうと理解していたのだが、どうも見ていると、交通警察が交通整理をし始めると、かえって交通の流れがいびつになり、渋滞が悪化しているように見える。

    十字路の縦横の道の一方を止めて、他方を通行させるのだが、その基準がよく分からない。しかも、待たせる時間も警察官の裁量任せのようで、5分くらいずっと進めない場合もある(もちろん5分間通行が許されている道もあるわけだ)。

    見ていて、「なんでそれをする必要があるの?」と思わずにはいられないのだが、何かの役には立っているのだろうか? 警察官の権威誇示?

    しかし、待たされているドライバーのほうも、ただおとなしく待っているわけでなく、あまりにも規制時間が長くなると、クラクションを鳴らして警察官をせっつく。列の後ろのほうで待たされている車からもプープー、パーパー、クラクションが鳴る。警察官に向かってクラクションを鳴らしている国なんて、そうめったにあるもんじゃないのでは? そこがキルギスの面白いところであるように思う。

    2012/05/07

    弦楽器兄弟たちの離散

    気づけば、帰国まで残り3ヶ月を切っていた。ぼちぼちと荷物の整理も始めなければならない。

    荷物の中で懸案なのは楽器類である。ギター、ウクレレ、三線《さんしん》、コムズ(キルギスの民族楽器)と、やたらと楽器があるのである。それらを「弦楽器4兄弟」と呼んだりもしているのだが、帰国の際に、これらをすべて持って行こうとすれば、かなり厄介である。

    そこへ、たまたまのタイミングでもあるのだが、新隊員のうちでギター、ウクレレを練習してみたいという人が現れ、それぞれ譲渡なり、貸し出すなりする形で、私の元から引き渡した。これでだいぶ帰国時の荷物は楽になった。

    コムズは、今のところハードケースがないから、手荷物で機内持ち込みになる。機内持ち込み荷物は、他にもパソコンとかがあるから、必要最小限にしておきたい。楽器はできるだけ機内持ち込みが望ましいから、数を減らせたのはよかった。

    そういうことで、私の元にあった弦楽器4兄弟のうち、ギターとウクレレは別の人の所へ移って、兄弟立ちは離散することになった。

    2012/05/06

    首都にも野良犬がいる

    キルギスの首都、ビシュケクの風景。

    dog
    (首都ビシュケクの路上で寝そべる野良犬)

    発展途上国とは言っても、人口100万人の大都市である。そんな町の中にも野良犬がフラフラしている。

    マレーシアでも野良犬がいた。旅行で訪れたバンコク(タイ)でもいた。

    日本では、特に都市部では野良犬はゼロである。犬に咬まれる事故とか、狂犬病感染とかを予防するために、つながれていない犬は保健所が捕獲してくれる。その仕事をしてくれている役所の人たちには感謝すべきだし、なによりも我々の生活の安全が守られていることはありがたい。

    でも、なんか釈然としない感じも残るのである。

    キルギス、マレーシア、タイ、ほかにも野良犬がいる国はたくさんあるはずだが、なんでそういう国々では野良犬の存在が許されて、日本(の都市)では許されないのだろう? それらの国は途上国だから野良犬がいる、ということか? でも、野良犬との付き合いの熟達度で言ったら、あちらさんのほうが断然、先進国だと思うのだが…。

    思い返してみると、私の幼少時には、まだわずかながら野良犬がいた。祖母に連れられて歩いている時に、腹を空かした野良犬が食べ物ほしさに我々の後をつけてきていて、祖母が追っ払っている光景が記憶にある。

    狂犬病が発生するのも厭わずに野良犬を黙認すればよい、とも思わないが、野良犬がいる場所の人たちは、犬への対処も心得ている。ひとことで言えば「手荒い」扱いである。野良犬がまとわりついてくるようなら、石を投げつける。屋台で食べているところに近寄って来たら蹴飛ばす。

    (ただし、タイでは事情は違った。仏教国であるせいか、野良犬も大事にしているようで、むやみに脅かしたり、蹴ったりはしていなかった。野良犬は追っ払うのが常識だと心得ていた私が、寄って来た野良犬どもを足蹴にしていたら、現地の人たちがやや遠巻きに目を丸くしている感じであったので、私も「なんか、俺のほうが悪いの?」と立場が悪くなった気がした。どこの国でも野良犬をいじめているわけではないので、タイ人の名誉のために書いておく。)

    石を投げつけたり、蹴飛ばしたりするのは、もちろん残酷な行為である。動物虐待に違いない。しかし、役所が野良犬を捕獲してくれる日本では、我々の見ないところで犬たちは処分されている。いや、野良犬だけでなく、飼われていた犬も飼い主が蓄犬預かり所のようなところに持っていき、そこで殺処分されている。状況が違うから、どちらが「より残酷か」という話をするのではないが、少なくとも、日本人が野良犬に石を投げつけて追っ払っている連中を指して非難するのはあたらない。

    別にキルギスでは、絶えず犬に石をぶつけているわけではない。こちらに向かってきそうな気配がする犬は追っ払うだけである。人間も己の身を自分で守るために、犬の動向に注意を向けているわけだ。危険を察知する感覚を常に持っていなければならぬわけで、身の安全を役所任せにしているのとは、道を歩いている時の神経の使い方も違う。

    私は目の前で見たことがあるわけではないが、海外へ旅行に行った日本人が、現地で犬に咬まれることが結構あるのだという。「おいで、おいで」と犬に近寄って(近寄らせて)、頭をなでようとする。そこへ「ガブリ」とやられる。犬はペットとしてしか認識しない環境で暮らしている者が、野良犬にも同じ感覚で近寄っていって起こる事故である。そういうことができるのはムツゴロウさんだけなのである(ってこともないが)。

    自分の身を野良犬から守ろうという感覚を持たずに暮らせる所では、人間の野性感覚も衰えていくんじゃなかろうか。

    wild dogs
    (職場の前の野良犬ども。別に危害を加えてくることはない。)

    憲法記念日

    5月5日は、キルギスの祝日だが、何の日だか分からないと前のブログに書いたが、この日は「憲法記念日」だということがわかった。キルギス人の友人に教えてもらって分かった。

    日本の憲法記念日は5月3日だから、たまたまだが、キルギスの憲法記念日と近い。別にどうという話ではないが…。

    2012/05/04

    ブタの鼻

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    そんなふうに見えない?

    アテレコとか、字幕とか、副音声とか (2)

    テレビ番組での吹き替えの話を書いていて思い出したので、マレーシアのテレビ番組について書いておく(約8年前の話だが、おそらく今も変わっていないだろうと思う)。

    マレーシアの国語はマレーシア語であるが、これはつまるところマレー語である。マレー語はマレー人の母語である。マレー人以外の民族も多数いるあの国では、マレー語を母語とすると感情的な反発もあるので、マレーシア語という言い方にしているのではないか、と、これは私の推測である。

    マレー人以外の民族とは、中国系、インド系、そのほかの各地の諸部族である。中国系、インド系は人口の3~4割を占めるほどであったから、決して少数ではない(地域によっても民族比率は大きく異なるのがマレーシアの特徴であった)。

    そういう民族構成の中なので、テレビ番組もマレーシアで作られたものの他に、中国・台湾、インドから輸入されたものも多々流されていた。そして、それらは原語のままなのであった。というのも、原語のままでも理解できる国民が一定数いるからなのであろう。

    しかし、そのままでは中国語、ヒンドゥー語を解さない人は番組を理解できないわけで、そのためにマレーシア語で字幕が表示されているのであった。これならばマレー人も内容を理解できる。

    この逆の、マレーシア語(=マレー語)の番組に、中国語・ヒンドゥー語の字幕を付けていたかは、ちょっと憶えていない。あったような、なかったような気がする。

    このようにマレーシア語の字幕が入っているのは、マレーシア語学習者としての自分にはとてもありがたかった。中国語・ヒンドゥー語ともに私は分からなかったので、マレーシア語の字幕を見て、それなりに内容を理解できたということと、字幕からマレーシア語の言い回しを学ぶことができた。

    面白かったのは、中国語の番組に中国語の字幕が付けられていたことである。「なんで?」と思ったのだが、これは、中国は広い国で、言語も地域ごとに大別して4つくらいあるらしいのである(正確な情報ではないから数字は鵜呑みにするべからず)。いわゆる「中国語」と言っているのは北京語であって、それ以外に広東語、福建語とかあるらしいのだ。

    というわけで、中国語の番組といっても、広東語で制作された番組であれば北京語の字幕を付ける、といったような配慮が必要になるというわけなのであった。

    で、そのような中国語字幕の番組というのは、音声を聞くだけでは皆目分からないのであるが、字幕は漢字なので、なんとなく雰囲気が分かる(場合もある)のだった。ありがたや漢字文化(私は漢字好きなので、余計にそう思うのかも知れぬ。ただし、中国語は簡体文字といって、漢字を略式にしてしまっているのでもったいない。日本でも漢字はかなり略してしまっていて、漢字の成立が分からないようにしてしまっている。台湾は繁体文字といって、日本でいう旧字で通しているから、手で書く場合の手間はあるが、一番、漢字を大事にしているとも言える)。

    キルギスでは、ロシア語の番組(いや、キルギス語の番組も含めて)にはロシア語の字幕が出ない。せめて、キルギス語の番組にはロシア語の字幕、ロシア語の番組にはキルギス語の字幕、というふうにしてくれると、ロシア語・キルギス語の学習に役立つのだが、どうもこの国ではそういうふうに字幕が役立つという感覚はないらしい。まあ、日本でも、文字放送は別にして、いちいち日本語の字幕を付けることはないのだから、同じことなのであるが…。

    アテレコとか、字幕とか、副音声とか (1)

    今、借りている部屋で有料チャンネルのテレビ番組をあれこれ見ているが、英語は某ニュース専門チャンネルのみ。ほとんどがロシア語である。

    ロシア語の番組といっても、アメリカやイギリスで制作されたものもたくさん(動物専門チャンネル、ハリウッド映画など)あり、それらはロシア語に吹き替えされているのである。

    ロシア語番組を見ていても、聞き取れる率は大して進歩していないのであるが、それはさておき、見ていて気づいたのは、ロシア語以外で制作された番組・映画を放送する際、ほぼ100%、字幕をつけることはせずに、ロシア語に吹き替えていることである。

    多分、この国でそれらの有料チャンネルを見ている人たち、また、おそらくロシアでも同様だと思うのだが、ロシアで外国からの番組を見ている人たちも、外国語がロシア語に吹き替えられていることに、違和感を持つことはないのだろうと想像する。

    私がそのことに「気づいた」のは、日本の状況とは違うと思ったからにほかならない。日本でも吹き替え番組はたくさんあるが、100%ではない。音声は原語を残したまま、日本語字幕を入れている番組も多い。また、日本語に吹き替えてある番組でも、副音声では原語(たいていは英語)を聴けるようになっている。

    そんなことを思ったものだから、家にあるテレビで副音声の切り替えができないものかリモコンをごちゃごちゃと操作してみたが、どうやら副音声という仕組み自体がないようであった。

    こうしたことを考えてみると、日本人が外国からのテレビ番組・映画を見る際の形式には、日本、日本人を取り巻く言語環境や、そこで醸成されたわれわれの外国語受容の態度が背景にあるのだと思う。戦後の日本人が一番意識した外国語は英語であるはずで、いわゆる「英語学習熱」や「英語コンプレックス」なんかが、副音声での原語放送を要請したのかも知れぬ。

    映画ファンの中ではたびたび交わされる議論のテーマの一つだと思うが、外国語映画を観る際、「①原語+日本語字幕」で観るか、「②日本語吹き替え」で観るかという問題がある。①の立場は、出演者本人の声を聞きたい、原作のイメージをそのまま見たい、という主張。②の立場は、字幕を読むことで画面全体の雰囲気が把握できない、したがって日本語で聞いて画面のほうに集中したい、という主張。もちろん、個人の好みの領域の話であって、どちらが優れているかという議論ではないだろう。

    (ちなみに、私は「字幕」派である。特に、DVD(昔はビデオ)で映画などは、せっかちな私は倍速で観ることも多いので、字幕があったほうがストーリーを把握しやすい。DVD時代になって、日本語映画でも日本語の字幕表示ができるので、私のような観賞方法を取る人には便利である。)

    すべてがロシア語に吹き替えられているそのこと自体も、ロシア語圏での言語感覚、言語使用の政治的な面が見て取れるのではないか、とも思ったりもする。米ソ対立という時代の頃は、東側の雄としての意地もあって英語学習は疎んじていたのだと思うが、実際のところ、旧ソ連の影響下にあった地域でのロシア語の普及率は、日本人が思う以上のものがある。ソ連から独立した国々でも、いまだにロシア語は公用語(国語ではないが)として使用されている。そういう状況があるならば、どの国の言葉でもロシア語に吹き替えて放送するのも、不合理ではないということだろう。だって視聴者のほとんどがロシア語で理解しているのだから。

    テレビ番組の制作方法なんて、どこに行っても同じようなもののように思いがちだが、そこにはそこの地域が持っている歴史的・文化的・民族的なあれこれが影響しているようなのである。

    2012/05/03

    キルギスも5月は黄金週?

    海外にいると、現地のカレンダーに沿って生活するわけで、日本が祝日であることとかを忘れてしまいがちなのだが、今、日本はゴールデンウィークの最中である。

    このゴールデンウィークを利用してビシュケクを訪問したキルギスのJICAボランティアの先輩がいたので、「ああ、日本は連休なのだ」と思い出せた。あとは、プロ野球の試合結果が気になるので、ネットで野球のサイトを見ると、試合時間が昼になっているので「おや?」と思うと、その日は祝日ということもある。そんなことでもなければ、日本の祝日は意識することはなかなかないものだ。

    ところで、キルギスもこの5月は祝日が多い。1日が「メーデー」。社会主義国だった時の名残だろう。

    9日は「対ドイツ戦勝記念日」。これに関しては昨年も書いた気がするが、現地の人から「日本も5月9日は休みなの?」と訊かれて、苦笑することがあったのだが、今年もやはり訊かれた。日本はドイツと同盟国だったわけで、この日が「戦勝記念」であることはない。

    私の配属先に、アメリカ人の女性ボランティアがいるのだが、彼女はドイツ生まれで、アメリカ人と結婚して国籍がアメリカになっている。だから、ドイツ出身者としての彼女にとっては「5月9日は休み?」という質問はナンセンスになる。その点で共通の話題となった。

    で、私は知らなかった(昨年はどうだったかな?)のだが、5月5日も祝日なのだそうだ。何の祝日か説明をしてもらったが理解できず。まあ、多分、キルギス協力隊の誰かがブログに書くんじゃないかと思うので、そちらを探していただければよかろう。

    そんなこんなで、5月前半は祝日が多い。キルギス人が「キルギスは5月は休みが多いのよ」と言っていたが、この時季に限って言えば日本のほうが休みは多いだろう。しかも連休である。「いや、日本も5月は休みがたくさんありますよ。『黄金の週(золотая неделя)』と呼んでます」と話したら、「黄金の週」という言葉がウケていた。

    5月1日、9日が祝日のせいで、私のほうは、それぞれの曜日に指導教室に来る予定だった子供を別の日に振り分けねばならず、一日に来る子供の数が多くなるので、忙しくなってしまうので、祝日も手放しで楽しめないのであった。

    デモはなし

    5月1日から公共交通料金の値上げが実施され、それが引き金となってデモが起こるかも、ということで多少の用心はしていたが、結局、デモはなかった。

    私は通勤にマルシュルートカを利用しているが、今まで8ソムだったのが10ソムとなって、大きい札を心理的に出しやすくなった気はする。8ソムだと、10ソム、20ソム、50ソムと、どの紙幣を出しても小銭(2ソム)の釣りが出る。

    運転手は運転をしながら、釣り銭も用意して渡すので、手が空いていない時は、釣りは後回しになる。あるいは、小銭がない場合も、小銭で支払う客が乗って来るまで待たされる場合もある。そういういくつかのケースで、マルシュの中で釣り銭を受け取るのは難しい時があり、何度か釣り銭をもらい損ねたこともある。

    料金が10ソムの場合、20ソム紙幣で支払えば、10ソム紙幣、または10ソム硬貨の釣り。50ソムで支払えば、20ソム紙幣が2枚で釣りはちょうどとなる。

    かと思えば、釣りがジャラ銭で返ってくることもあるから、こちらの思惑通りにはならないのではある。

    2012/05/01

    公共交通料金の値上げ

    今日、5月1日からビシュケク市内の公共交通料金が値上げされるそうだ。昨日、職場に来ているアメリカ人ボランティアから教えてもらった。「値上げに反対するデモが起こるかも知れないから、念のために気をつけたほうが良いよ」とアドバイスをもらった。

    私なぞは、「ああ、値上げになるのか」と料金のことしか思わなかったが、そのアメリカ人は2010年にキルギスで起こった革命当時にビシュケクにいたので、そういうことに注意が向くのかも知れない。

    今回の値上げは、マルシュルートカ(乗り合い小型バス)がこれまでの8ソム(14円)から10ソム(18円)、路線バスが6ソム(11円)から8ソムとなる。日本円で見ると微増だが、値上げ率で見るとマルシュルートカが125%、路線バスが133%。例えば、180円のバス・電車の料金が200円に上がったとして、その場合の値上げ率は111%だから、そういうのと比較すると、ビシュケク市民にとっては負担感が大きいのも想像できるのではないか。

    私を含めて、協力隊たちは日本人なのだから、“たった4円”の値上げと受け止められなくもないが、半年、1年と現地で暮らしていると、その“たった4円”が高いものに感じられるのだ。だって、出勤時の往復で考えたら毎日4ソムの値上げ。月20日出勤で80ソムの値上げとなる。

    とは言うものの、ビール1Lでそれくらいの値段がするわけで、交通料金の値上げに関わらず、しょっちゅう無駄遣いはしているのだから、値上げのことをとやかく言うのも恥ずかしいのではあるが…。