キルギスのテレビ局の放送を見ていたら、昨日(5月21日)は「マナスの日」だと言っていた。
「マナス(Манас)」はキルギスの英雄的人物で、また彼の生涯を描いた物語の名称でもある。キルギス人にとっては国民的なヒーローであり、日本でいえば記紀神話に出てくる神々みたいな存在なのではないかと思う。話はかなり神話化されているようだが、マナス自体は実在した人物だとのこと。彼の出身地タラス(Талас)には彼の生誕地だか、歿歯《ボッシ》地だかにマナス廟が建てられている。
マナスの物語は詩の形式で書かれており、その長さでは人類史上最も長いものなのだとか。キルギスの書店、図書館に行けば必ず『マナス』本は置かれているが、なにせ広辞苑くらいの厚さで2冊とか、百科事典サイズで3冊とか、―文字のサイズ、段の組み方なんかによっても違いは出るが―、とにかくそういうすごい分量の内容量の物語である。
日本語でも平凡社の東洋文庫で3分冊で翻訳されている。ただし、もちろん、この分量で翻訳して収まりきるわけはなく、抜粋訳になっている。
(Amazonのブックレビューに「キルギスという土地は、今は自治州であり」と書かれているのだが、キルギスは1991年に独立したので、参考にしたデータが古かったのではないかと思われる。)
本の厚みに思わず後ずさりしてしまう『マナス』なのであるが、さらにすごいのは、元々『マナス』物語は歌うように語るものとして成立したもので、それは口承で伝えられてきたという点である。
『マナス』物語を語る人を「マナスチュ(манасчы)」と呼ぶ。この人たちは『マナス』物語を憶えていて、それを何日もかけて物語るのである。聞いた話では、全編を語り終えるのに昼夜語り続けて1週間程度かかるそうな。前述の通り、元々『マナス』は口承文学であるから、マナスチュは先代から教わるか、聞き覚えるかしてマスターしていくのだろう。
いや、そうではなくて、マナスチュは教えられる、習わずして、ある日突然語れるようになるのだ、という話も聞いたことがあるが、それh民間信仰的な要素の混じったエピソードではないかと思う。ただ、口承による文化伝承というのは、文字による伝承に馴染んでしまっている私のような者には想像も及ばない世界があるようなので、一概にすべてを否定できるとも限らない。日本でもかつては琵琶法師による『平家物語』の語り伝えがあったし、アイヌ民族の神話伝承も口承であった。ちょっとタイプは異なるが、落語も師匠・先輩から弟子・後輩への口伝えが基本だと聞く(今はボイスレコーダーに手本を録音してもらって、家で練習するそうだが)。
突然話し始めるというエピソードの真偽は別にしても、あれだけの分量のストーリーを空《そら》で語れるというそれ自体がすごいことである。マナスというキルギス人の英雄、その物語を語る、しかも尋常でない分量を暗記しているのだから、マナスチュは人々から尊敬を受ける存在である。キルギスの500ソム紙幣にプリントされている人物も、有名なマナスチュの人である。
で、昨日は「ЭЛТР」という、キルギスの民族文化の放送に力を入れているチャンネルで、何時間も「マナスの日」を記念した番組が放送されており、マナスチュが『マナス』を語っていた。当然、すべてを語りきることはできないから、部分部分に区切っての語りだろうが(キルギス人にとっては、『マナス』の中の定番のシーンがあるのではないか。『平家物語』なんかでも歌舞伎になっているような人気のある物語があるように)。
いつかマナスチュの語りを動画でもアップできればと願っているが、その様はまさに現代のラップに通じるようなリズミカルで、独特の抑揚をつけた語り方である。キルギス人の子供たちの中には、そのリズム感に憧れて口真似をしているのを見かける。
こういう芸能(こういうものこそ本当の「芸能」だ。今のテレビに出ているのははしゃぐだけのお調子者が多くて、芸を持った「芸能」人ではない)が、今も人々に愛されて敬われて伝えられているのは、キルギスの魅力の一つだと思う。
0 件のコメント:
コメントを投稿