キルギスの英雄物語『マナス』を語るマナスチュについて書いていて、日本の琵琶法師のことをちょっと考えた。
日本でも琵琶法師も、マナスチュに類似したストーリーテラーであった(まだいるのか?)。口承で物語を覚え、それを語る。それが廃れてしまったのはなんとももったいない限りである。かたやキルギスではマナスチュは今も健在である。
両者の一番大きな違いは、琵琶法師の場合、琵琶という楽器が弾けなければならないので、これは大きなハードルであることは間違いない。マナスチュのほうは、今でいう“ラップ調”に語るスタイルなので、楽器演奏はしなくていい。
琵琶法師は盲人がなるものだったようだが、手元の電子辞書に所収の「ブリタニカ国際大百科事典」でその項を見てみると、当道《とうどう》という琵琶法師の自治組合があったのだが、明治にはいって当道制度がなくなり、それに伴って琵琶法師も激減したそうである。
かつては、一般の職には就けない盲人たちの自活手段として琵琶法師という道があったのだろうが、そのことが逆に「琵琶法師=盲人の仕事」という固定化につながり、盲でない者の中からは『平家物語』の語り部になろいうという者が出ない構造になったのではないか。このあたりの、なり手が絞られてしまった点も、琵琶法師とマナスチュとの違いだと思った。
ベベベン。
失礼します。マナスの検索から来ました。一五一会という楽器を弾いています。楽器の構造その他がちょっとコムズと似ているな、と思います。
返信削除琵琶法師についての考察、興味深く読ませていただきました。現在では当道座は全くありませんが、視覚障碍者でない人が普通に「琵琶奏者」としてかつて琵琶法師が弾き語りしていた楽曲を演奏しています。
日本では民族アイデンティティを楽器に託すほど逼迫した場面があまりなかったようで、そのためそういう意味での音楽の地位が低かったと思われます。それが良かったのか悪かったのか、私にはわかりません。
クルグズスタンのマナスチの存在と比較すると、なんだか日本の音楽の在り方が少しみじめに感じられそうになりますが、お互いそれぞれ「そういう歴史」だった、ということで。
jackies151eさん、コメントありがとうございます。
削除一五一会は4弦の楽器でしたでしょうか。BEGINが演奏しているのを聴いたことがあり、気になっている楽器の一つであります。
jackies151eさんは一五一会で琵琶の曲を演奏しているのですね。う~ん、どんな感じなんでしょう? 興味あります。
楽器の発展に関しては、地域の文化とか、歴史・人物とか、偶然的な要素も含めて、それぞれに違う方向に歩んでいったということなのでしょうね(楽器に限らないことですが…)。
ご存知かもしれませんが、コムズの兄弟楽器がキルギスの隣国のウズベキスタンやカザフスタンにもあるようですが、テレビなどで見ると、それらの楽器にはギターでいうところの「フレット」がありました。コムズは三味線・三線と同じくフレットはなし(自分で鉛筆で印をつける人は多いようですが)です。
元は同じ楽器でも、すでに地域によって作り方が変わっているんだなと感じました。フレットの有無だけでなく、ボディの素材・形状など色々と違うところはあるようで、当然、音質や演奏方法も違うものでした。
日本のどっかのプロモーターが、「世界の3弦楽器」とかいうコンサートとか企画してくれないものかと、内心思っている今日この頃です。