2012/04/11

髪の毛をめぐる異文化間の共通点

日本の大相撲(の2012年春場所)がキルギスでも2ヶ月遅れで放送されていたことをブログに書いた(大相撲の放送)。

この2年くらいの間に幕内に入った力士の名なんてほとんど把握していない。協力隊でキルギスに来ていることもあるが、日本にいても果たして新入幕力士なんてどれくらい関心を持っていたか…。日本国内でも大相撲への関心は下がっているのではないだろうか。この前、キルギスで見た大相撲の放送でも番付の下のほうの取り組みでは、土俵周りの砂かむりの席でも空席があったぞ。

昔は力士ののど自慢歌番組(プロ野球選手と対抗戦みたいな)とかもあったくらいだが、今はそんなのない。力士が出ているコマーシャルは何本あるのだろう?

まあ、相撲人気が下火になっていることはさておき、大相撲の放送を見ていたら、番付の下のほうの力士だったと思うが、髷《まげ》のボリュームがだいぶ淋しい人がいた。別の言い方をするならば、「頭が薄い」「禿頭症状の進行」ということである。確か、大相撲では、髷が結えなくなったら引退しなければならない。どの時代にも、残された頭髪を大事に結って、小さな小さな髷をのせているおすもうさんはいるものである。涙ぐましいほどの努力であり、そのことだけを以て応援したくなる人も多いに違いない。

それにしても、この「髷が結えなくなったら引退」という決まりは、相撲をスポーツとして考えてみれば奇妙である。第一、学生相撲ではみんな髷を結っていない。坊主頭で相撲をしている。大相撲になると髷ルールが出てくるのである(当たり前だが、入門したてで短髪の間は髷ルールは適用されないようだ)。

これは、相撲が本来、神事であることに関係があるのではないか。ふんどし一丁の“ほとんど裸”状態で行なうことや、四股を踏む・塩を撒くことなどに加えて、髷を結うことも宗教行事としての相撲の由来に関係があるのではないかと、勝手に想像するのである。

仮に、髷に宗教的な意味づけがあるとすると、そこから連想されるのは、髪にまつわる他の宗教・文化圏での考え方である。

以前から不思議に思っているのであるが、多くの宗教では「髪を剃る」あるいは「髪を隠す」という決まりが設けられている。仏僧は剃髪する。カトリックの修道女は髪を隠す。イスラム教徒の女も髪を見せない(肌も見せてはいけない)。異なる宗教なのに、なんか似てまへんか? 髪に対する、何か共通した意味づけでもあるのかと思ってしまうほどである。

旧約聖書にサムソンという戦士が出てくる。彼はむちゃくちゃ強いのであるが、髪の毛を切られるとたちまち力が出せなくなって、敵にやられてしまうのである。そして、また髪がのびたら力がみなぎってきて、再び強くなるという話である(正確なストーリーは旧約聖書を読むか、ネットで調べられたし)。

ここでは、髪は力の源という意味があるようである。髷も、ある程度以上の長さがなければ結えないものだから、サムソンと同様に長いほうが力が出るという信仰があったのだろうか…。もしそのように信じていたなら、昔の人にしてみれば、髪には本当にそういう力があった(髪が長いと力が出る気がした)のだろうと思う。

どうして我々は頭髪の扱いに色々と気を配るのかというのは、私にとっては不思議なことである。なにか人類の原初的な、あるいは生物的なところに根拠があるのかしら?

力不足ゆえ、私のブログではこれ以上は深められないが、禿頭差別・嘲笑には断固反対を唱える。そのことは書いておく(それで成り立っているビッグビジネスもあるんだけどね…)。まあ、ハゲを笑うのは百年後も千年後も続けているんだろうけどね、人類は。あ~、ばからし。

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