深夜0時(そのくらいだと今は「深夜」と言わんのかな?)くらいに、テレビチャンネルを回していたら、何度も見たことのある白黒映像が出てきた。黒澤明監督作品の「七人の侍」である。
志村喬らの侍7人が村に入って、陣営の配置を決めるあたりから見始めた。まだ真ん中くらい。この映画、トータルで4時間を超える長さだったはずなので、「最後まで見ようか、見まいか」と思いつつ、結局、最後まで見てしまった。
放送はロシア語吹き替えであった。“吹き替え”というのはやや正確ではない。元の音声の上にロシア語をかぶせているのである。だから、日本語も音量は小さいがちゃんと聞こえる。こういう状況では、ロシア語のほうが音量は大きくても、かすかに聞こえる日本語のほうを聴いてしまうものである。母語の支配力というのはすごいものがある。
加えて、この映画はDVDで20回近くは見ているので、場面場面で、登場人物たちが何を言うのかは分かっている。忘れていたようでも、画面を見ていると「あ、ここではこう言うな」と思い出されてくる。だからなおさら日本語が聞こえてしまうんだな、きっと。
というわけで、2時間近く見ていたが、ロシア語の勉強には少しもなっていない。トホホ…。
そう言えば、哲学者内田樹がブログで、「七人の侍」の登場人物について論じていて、その中で、7人の中に1人だけ未熟な若侍・勝四郎が混ざっていることについて分析していた。なぜこのような即戦力にならない若侍をメンバーに入れたのか? という疑問に対する分析である(ブログ・内田樹の研究室『七人の侍』の組織論)。
内田樹曰く、他の6人の侍たちは、野武士たちとの戦いを通じて、自分の持っている武士としての経験を、この若い侍に伝えるべく戦ったとのことである。自分は死んでも、自分から若侍に伝えたものは残り、またさらに次の世代に引き継がれていくはずだ、という信念があるからこそ、彼らはこの戦いに命をかけられた(実際、7人のうち4人は死ぬ)という。
なるほどね。その内田の分析を念頭に置いて、この映画を見直してみると、なるほどそういうものかと思えてくる。
7人の侍たちは、野武士にいたぶられている百姓たちに同情し、野武士成敗に義を見出して、百姓たちと一緒に戦ったというふうに物語を解釈していた(表層的~、薄っぺら~)が、内田流の分析に基づいて見てみると、武士たちは自分が蓄積したものを次の世代に伝える場として、この戦を選んだとも言えるわけだ。以下、一部引用。
教育共同体は若く非力な人々に知識や技芸を伝授し、成熟に導くためのものである。医療共同体は病み、傷ついた人々を支援するためのものである。信仰共同体は隣人を慰め癒すためのものである。
そのような共同体だけが永続性を持ちうる。
集団成員のうちの相対的に有力なものに優先的に資源が配分されるような「弱肉強食」共同体は長くは続かない(いずれお互いの喉笛を掻き切りあうようになる)。
集団成員のうちのヴォリュームゾーンである「標準的な能力をもつ成員」の利便を最優先に配慮する「平凡」共同体も、やはり長くは続かない(全員が均質化・規格化して多様性を失ったシステムは環境変化に適応できない)。
もっとも耐性の強い共同体とは、「成員中のもっとも弱いもの」を育て、癒し、支援することを目的とする共同体である。
そういう共同体がいちばんタフで、いちばんパフォーマンスが高い。
内田樹の影響を受けた上で言うのであるが、次世代を育成しない組織というのはやがて衰退する。低賃金の労働力を使い捨てしながら、収益を上げようとする組織は、長期的には技術の蓄積ができず、衰退していくことになるのだろうね。
なんてことを、映画を見た後にさらにブログに書いているわけだから、こんな時間になってしまった…。やれやれ。
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