2012/04/29

短波ラジオ聴けない

ビシュケクに引っ越してから、生活の中で変わったことの一つはテレビを見られるようになったこと。ロシア語放送は何を言っているかほとんど分からない情けない状況ではあるが、映像があると理解のヒントにはなる。また、テレビは文字表示もあるので、それも辞書で調べるのには役に立つ。

ラジオも好きだから付けるが、こちらは映像・文字の補助情報がないので、単語が聞き取れなければもう手も足も出ない。村では入らなかったのだが、ビシュケクだと英語メインのFM放送局もあるので、最近はそこにダイヤルを合わせることが多い(実際は英語を聴きたいからというより、そこの局はジャズ、クラシックを多く流しているので、自分の好みに合うせいである)。

テレビを見られるようになった一方、ビシュケクに来てから、短波放送を聴くことはほとんどなくなってしまった。

ラジオ好きの人なら分かると思うが、ラジオは建物の建材や、周囲に電波を発生させるものがあるかなどで受信状態が大きく影響される。

今、私が住んでいるのは、コンクリート建材の団地建物(しかも1階)で、こういう場所では短波電波は受信が困難なようである。引っ越して最初のころは、ラジオ受信機を持って部屋の中で受信状態のよい場所を探してみたが、どこもよい場所がないようなので、もうそれ以上の努力はしなくなってしまった。

そういうわけで、村ではほぼ毎日聴いていた日本語の短波放送も、今はすっかり聴かなくなってしまった。私のラジオはもっぱらFM放送専用になっている。

2012/04/28

タンポポが綿毛になり始めた

ビシュケクはキルギスの首都で、人口100万人の国内唯一の「都市」と呼べる町だが、街路樹を含めて緑が多い。

tanpopo
(ビシュケクの街中に咲くタンポポ)

4月の頭にタンポポが咲き始めていたが、今はそれが綿毛になりつつある。

watage

桜散る

ビシュケクでは、アプリコット(杏)の花はすっかり散り果てて、路上に茶ばんだ花びらが落ちている。

sakura

アプリコットと桜は近種で、花が似ているので、桜の花びらが降り落ちているような感覚である。

2012/04/27

その癖ヤバイ (3)

赤信号、みんなで渡れば怖くない。

という交通標語を茶化した言葉がある(あれはビートたけしが作ったのだったか?)が、実際のところ、世界的にみれば日本の歩行者は信号を守っているんじゃないだろうか。

キルギスに来て、1年半、村で暮らしていた時は、そもそも信号機がなかった。一ヶ所だけ信号機のある交差点があったが、その信号機は作動していなかったし、交通安全上、その信号機が必要だという状況でもなかった。道を渡る時は、自分で左右を見て安全確認をして行くのである。基本的に、車のほうが「えらい」ので、車が行き過ぎるのを待つ。はねられて怪我をしようと、後遺症が残ろうと、あるいは死亡しようと、日本でと同様の補償金は得られない。

ビシュケクはさすがに、辻ごとに信号があって、基本的に歩行者は信号を守っている。というか、車の交通量が多く、スピードを出しているのが多いので、赤信号を渡るのは危険で、守らざるを得ないのである。

しかし、信号機のある横断歩道がないような道を渡りたいことも当然あるわけで、そういうときは、片側3車線の幹線道路を渡っていく人も見かける。私も必要ならばそういう道を渡る(だって、信号機のあるところまで歩くのって馬鹿らしいでしょ)。

マレーシアにいた時も同様であった。信号機はあるが、設置されている間隔が遠く、「今、ここで」渡りたい場合には、車道を横切って行くしかないのであった。私がいた町は、マレーシア国内では5番目くらいの大きさだったが、盲人も人口の規模に比例して結構いた。その町では、やはり片側3車線の大きな道を、盲人が白杖を上下に降って、ドライバーに見えるようにしながら信号機のない場所を横断して行くのを何度か見た。もちろん車は止まってその人が渡るのを待ってはくれるのだが、それにしても見ているこちらのほうが恐ろしくなるような光景であった。

東南アジアを旅行したことがある人ならば、信号機のないところ、あるいは赤信号でも渡っていく人がいるのを見たはずである。キルギスにせよ、マレーシアにせよ、また別の国々でもそうかもしれないが、これらの基本にあるのは、「安全は自分で確認して判断せよ」ということである。

考えてみれば、至極当然のことである。生物として、その感覚は必要不可欠のものだと思う。

road
(今がチャンスだ、渡れ!)

だから、(話は飛躍するように思われるかも知れないが)、何か事故が起こったような時に、例えば公園の遊具が老朽化していて誰かが怪我をしたような時に「行政は何をしている」と憤る人、学校内での事故があれば「学校の安全管理はどうなっていた」と叫ぶ人の中には、自分の安全を他人に委ね過ぎている人がいるようにも見える。

おそらくキルギス、マレーシアだけでないと思うが、2年間、途上国暮らしをしている協力隊の多くは、「自分の安全は自分で確保する」という感覚を日常的に持ち続けて過ごしている。その一つが信号機のないところでも横断する、赤信号でも安全ならば渡る、ということなのだ。

前回協力隊に参加した後、痛烈に感じたことなのだが、この感覚が日本での暮らしでは不適応を起こす。車が来ていないのに信号待ちをしていることがなんともじれったい。特に最初の1ヶ月くらいは、すごく葛藤していたのを憶えている。その時期は実際に赤信号でも渡っていた。東南アジア的に、まず道の半分まで渡って、そこで一旦車の通行がなくなるのを待って、残りの半分を渡りきるというのもやったことがある。これ、日本でやると非常に危ない。ドライバーがそういう歩行者がいることを想定せずに運転しているからだ。

安全のために交通ルールを決めて、みんなで守るのも大事であるが、一方で人間もそれなりに有している動物的な感覚は鈍くさせられているのかも知れない。

日本に帰って、赤信号を渡るのは顰蹙ものだと分かっているが、前回同様、最初の数週間1~2ヶ月くらいは渡ってしまうだろう(って、威張って書くべき話ではないのだが)。

2012/04/26

涙のOS再インストール

昨日、Windows XPが起動しなくなり、とりあえずデータのバックアップだけは取って、OS再インストールの覚悟を決めた。今日は仕事中も、バックアップ漏れのデータがないかなどと、時々思い出しては早くこのトラブルの片をつけたいと思っていたのである。

帰宅後、データのバックアップ状況を再確認して、いよいよWindowsの再インストールを開始。OSのインストール自体は思ったよりも時間がかからず、30分足らずの作業時間であった。

私のパソコンのWindows XPの状態が悪くなりつつあることは気づいていたが、再インストールに二の足を踏んでいたのは、再インストール後にもろもろの設定をしなおさなくてはならないことが嫌だったからである。一番心配だったのは、ダイヤルアップ接続で利用しているインターネット接続の設定が、うまくいかなくなることであった。できることならば、7月末の帰国まで、残り3ヶ月弱、だましだましで何とかもってくれればと思っていたのであるが、Windows自体が起動しなくなっては、致し方がない。

Windowsの再インストールをしたことで、とりあえずWindows XPは使えるようになった。ただし、もちろんのことだが、それまでに入っていたデータはすべてチャラ。それはデータのバックを取っていたので、ショックはなし。

ただ、面倒なのは、パソコンを自分が以前使っていた状態に戻す作業である。私はフリーソフトからも気に入ったものを使っていた(テキストエディタ、動画再生ソフトなど)ので、それらも再インストールしなければならない。セットアップ用のファイルを持っているのもあったが、手持ちのファイルの中には見つからないものもあり、それらは後日ネットで落としてインストールしなければならない。

もう一つ、私が何よりも心配していた、ネットの接続設定であるが、こちらはまったくつながらず。私は携帯電話をパソコンにつないでネットをしているのだが、携帯電話がパソコンから認識されない。何とか認識されたと思ったら、今度はログインができない…。これが怖かったので、Windowsの動作がおかしくなっているのは感じつつも、OSの再インストールはしないでいたのだったが、結局、インターネットは使えない状態になってしまった。

仕方がないので、別の携帯会社のUSB端末でネット接続を設定。こちらは使えた。使えなくなったほうの携帯会社のほうにデポジットが4000ソム(約7000円)ほど残っていなければ、こちらの端末に乗り換えてもよいのだが…。

OSの再インストールをしたので、パソコンの中はすっきりし、動作は快適になった。ただし、自分で入れたソフトはすべてなくなってしまっているので、一からインストールし直さなければならない。ファイルサイズが数十MBあるソフトもあるので、手元にインストール用のファイルがないものは、ADSL接続が使えるところでダウンロードしなければならない。手間がかかる。

ドキュメントファイルなどはバックアップがちゃんとできていたので、これは助かった。メールソフトは、USBメモリから起動できるものを使っていたので、データ等に影響はなし。忘れていたのはインターネット閲覧ソフトのお気に入りであるが、まあこれは被害としては小さい。

というわけで、当面はパソコンの使い勝手が悪いが、被害は最小限に食い止めたという感があるので、不幸中の幸いと捉えることにする。

2012/04/25

つ、つ、ついに、パソコンが…

JICA事務所はネット接続環境が、自宅よりは断然よいので、週に一度は寄って、サイズの大きいファイルの送受信や、セキュリティソフトやその他のソフトの更新をしている。

本日、職場からの帰りに事務所に寄り、ネットを使ったもろもろの作業をしたのだが、その後、Windowsが起動しなくなってしまった。

何がいけなかったのか…? 自分が使っているメールソフトの最新バージョンに更新した後、その更新でシステムの変更作業にトラブルが起こったのではないかと思うが、あくまでも素人の想像に過ぎない。ほかにもウィルスにやられたとか、考えられることはいくらでもあるのだろう。

自宅に帰って、微かな望みを抱きつつ起動の再トライを繰り返したが、だめ。幸いなことにUbuntuというOSをWindows XPと共存させていたので、それを起動させてファイルのバックアップを取った。入れておいてよかった、Ubuntu(バージョンは9だったと思う)。

もう一つ付け加えておくと、私は「My Document」の置き場所を初期設定のCドライブからDドライブに移してた。UbuntuではCドライブは開けないよう(このあたりは私の認識間違いの可能性あり。鵜呑みにしないようにされたし)なので、Dドライブに移してあったから、データのバックアップを取ることもできた。OSが入っているドライブに負担をかけないためにも、Dドライブなどをユーザーフォルダに指定しておくほうがよいと思う。

Ubuntuでデータのバックアップに成功した後、Windowsのセーフモードを試したところ、セーフモードでは起動した。結果論だが、セーフモードでもバックアップは可能だった。

一応、最低限のデータ(メールデータ、自分で作成したファイル)のバックアップは取れたと思うので、Windowsの再インストールをしようと思う、が、時間がかかることも予想されるため、再インストールの作業は明日に回すことにした。

この数ヶ月、週単位くらいでパソコンの状態が悪くなっているとは思っていたが、ついにこの時が来たということですな。

2012/04/23

その癖はヤバイ (2)

キルギスにいると、道につばを吐いている男たちをよく見る。あるいは、つばではなく痰を吐いている場合もあるかも知れないが、とにかくペッ、ペッと吐いている。

日本から来たボランティアの中には、そういう行為に嫌悪や軽蔑を抱いて、そういうことをやっているのを民度の低さと見て、この国の発展を妨げている根本にあると話す人もいたが、そうとも言い切れないだろうと私は思う。

田舎の方へ行くと舗装されていない道がほとんどである。そういうところでは車が走るたび、あるいは風が吹くたびに土ぼこりがたつ。そういうところだとのどがいがらっぽくなって、痰がよく溜まる。それで、ペッ。(ただし、この説明では、男ばかりがつば・痰を吐くのは理屈に合わない。女がそういうことをするのは、キルギスでも「はしたない」と思われるようである)。

舗装されていない道だから、つばや痰を吐いても、汚いものではない。つばだって、痰だって自然物である。つば・痰が汚い物に見えるのは、都市化された場所だからだろう。シンガポールではつば・痰吐きは罰金の対象になるそうであるが、なるほど、シンガポールのような都市ならば、つば・痰は汚い物と見られるのは当然だと思う。

キルギスの首都ビシュケクでもつば吐きは見かけるが、村で暮らしていた時よりも少ない気もする。100万人都市で、舗装率が高くなると、人の意識も都市的なのであろうか。それでも、日本で道を歩いている時よりも、つば吐きをする人、あるいは吐かれたつばの後を見ることは多い。

さて、キルギスに来てから、私も路上へのつば・痰吐きをするようになった。「えぇ~、サイテ~」と言われても仕方ないことだが、申し開きをするならば、一つは上記に書いたように、痰がよく溜まるから吐くのである。日本にいた時は痰なんて路上に吐かずに、ティッシュに出すか、それができなければ飲み込んでいた。しかし思うに、痰というのは、体の内部に入らせないようにごみが溜まった物だろうから、飲み込むというのはよろしくないと思うのだが、どうなのだろうか。

私がキルギスでつば・痰吐きをするもう一つの理由は、ここの文化で人々がやっていることはやっておく、ということである。これは防犯のためにと考えている。

幸いなことに、キルギス人と日本人の顔つきは割と似ている。肌の色や目の色が異なって、すぐに「異人」と分かる国もあるが、キルギスではそういう面ではすぐには気づかれない。ただ、それ以外のところで、例えば服装や持っているかばんなどでキルギス人でないと気づかれる(もちろん言葉を話せばすぐに分かる)。

日本人であると分かったからどうということもないのだが、その土地の者ではないと見ると付け込もうという輩は、どんな場所にもいるのである。そういう輩のターゲットになりづらくするために、その国で買った物を着る(日本の町で見たらきたならしい印象でも)、歩き方、振る舞いもその国の人っぽくやってみる、というのが自衛策になる(と私は思っている)。

まあ、だいぶ強引な理屈をこねている感もあるが、ともかく、この国ではマナー違反には見られないつば吐きなのであるが、日本に帰ってからはそうもいくまい(キルギスのボランティアでさえ、それを嫌がる人もいたわけだしね)。痰壺でも持ち歩くか…。

2012/04/22

その癖はヤバイ (1)

任期終了、帰国まで約3ヶ月となり、帰国オリエンテーションというのを受けた。こうして事務手続きが始まると帰国の実感が次第に高まって行く。

帰国準備の話になると、必然的に帰国後の身の振り方も考えることになる。「現職参加」と言って、日本での仕事を休職して協力隊に参加している人たちは、帰国後も元の職場に戻るので職探しのことは心配しなくてよいが、そうでない者は就職が心配の種である。

ところで、就職の話とは別に、協力隊参加者には帰国後に関して別の心配もある。それは、任国での2年間で身につけた当地での習慣・生活感覚である。これは派遣された国によって違うし、国の中でも地域によっても違う。私がキルギス生活で身に付いてしまった習慣・感覚で、帰国後、日本では浮いてしまいそうなものがないか自己点検してみる。

まず思いつくのは、「食事中のゲップ」である。キルギスでは、食事中のゲップはノープロブレム。当たり前のようにゲップをする。「ゲフッ」っという感じで。

それは下品だと思う人もいるだろうが、それはあくまでも日本の、いや欧米の基準に馴染んだあとの日本人の感覚である。食事中のゲップが下品などという絶対的な基準はない。それでも、日本の中ではゲップは卑しいものという通念ができあがっているように思うから、それをすれば白眼視されるのは確実である。

今は、ゲップをした後に、「あ、これを日本でやったらヤバイな」と思うのだが、日本ではゲップをする前にそう思ってゲップを止めなければならない。これがちょっと心配なのである。

2012/04/21

ビシュケク、暑い…

23年度4次隊の歓迎会があるので、地方で活動している隊員たちが首都に集まってきた。同じ国で活動しているといっても、任地が違うとなかなか会わないもので、こういう機会に久しぶりの面子と会えるのが楽しみである。

協力隊では、首都で在住・活動している隊員は「首都隊員」、首都以外の地域で在住・活動している隊員は「地方隊員」と言ったりする。私は、キルギス赴任当初はバコンバエバ村という場所で活動していた地方隊員だったが、この2月末からビシュケクに引っ越して首都隊員になった。

今回、地方からビシュケクに来た隊員たちが一様に「ビシュケクは暑いですね~」と言っており、彼らの任地とビシュケクの気温差は7~8度くらいはあるので、そのように感じるのも当然なのであった。

現在、キルギスで地方隊員が派遣されている地域は、首都のビシュケクと行き来する際は山を越える場所ばかりで、地方のほうが標高が高いこともあって、気温が低い。地方隊員たちに、それぞれの任地でアプリコットが咲いたかを尋ねてみたら、まだまだとのことであった。どこの隊員もまだ長袖を羽織って過ごしている。ビシュケクは半袖で歩く人たちが増えたというのに。

そういえば、私も地方隊員だった頃はビシュケクを訪れると暑いと、自分の任地よりも気温が高いと感じたものだった。バコンバエバ村では夏でも長袖ジャージとかを必ず着て外に出ていた。それくらいで丁度よかったのである。

ビシュケクに在住するようになった今は、ビシュケクが冬から春(ほとんど初夏)に移行する時季をリアルタイムで過ごしているから、衣服の調整も日々行えていたのである。一方、地方隊員は5~6時間の間に7~8度、場合によっては10度くらいの気温差に対応しなければならないので、調整も大変である。任地を出発する時は晩冬の重ね着であったものが、山を越えたとたんに半袖にならなければならない。実際、ある隊員は水を持参し忘れて、移動の車中で「熱中症になるかと思った」と言ったほどであった。

一つの国の中でもこれだけ気候の違いがあるわけで、当然、各隊員がそれぞれの任地で体験するものも変わってくる。私はそれが“みそ”だと思っていて、隊員が2年間の任期で見聞・体験することは、各個人で異なるし、またそれはその個人だけのものである。もちろん、ある場合には隊員同士で体験を共有していることもある(旅行とか)が、同じ体験から感受するものは人によって変わる。

日本にいたって同じことなのであるが、協力隊という共通項を持っていると、ついつい同じ体験をし、同じ感想を持っていると錯覚してしまいがちなのである。でも、そういうことはあり得ないし、だからこそ他の人との体験や感想の優劣を比べても意味がない。

2012/04/19

ソファ寝

どういうわけか、私はソファで寝るのが好きなのである。

ソファに寝そべりながら、テレビを見ながらだんだんとウトウトとしてそのまま寝る。本を読みながらウトウトしてきてそのまま寝る。ソファで食事をして、満腹の心地よさにウトウトとしてそのまま寝る。

いや~、頽廃的ですなぁ。

別に大豪邸に住んでいるわけではないから、ベッドまで行こうと思えば10秒で済む話である(マレーシア時代は一軒家を借りて住んでいたので、1階から2階に行くという面倒はあった)。

要は根が無精者なのである。でも、世の中、そういう無精者が多いらしく、ソファベッドなんていう家具もたくさんの種類が売られている。

ソファベッドは、ソファとして使っていた物を、就寝する段になったら変形させてベッドにして寝るのであるが、私が望むのはソファそのものに寝ることである。いちいち背もたれを倒したり、シートを引っ張り出したりといった作業なしで、そのまま眠りに入れることが無精者の理想である。

3人がけのソファであれば、大抵、横になるには十分な幅がある。2人がけだと足がはみ出して、姿勢に無理が生じて、起きた時に、体のどこかしらが痛くなっている。シングルソファで、フットレストが出てきたり、背もたれがリクライニングできる物があるが、あれはまさにソファ寝愛好者(=無精者)が考え出した物に違いない。

2012/04/18

なんでもスメタナ

「スメタナ」と聞くと、「モルダウの流れ」の作曲者という名前が反射的に出てくる。学校時代に教わったことというのは、結構細かいことでも憶えているもので、今は流行歌の歌手も曲名も覚えられないのとは真逆である。

ただ、ここで紹介する「スメタナ」は作曲家ではない。ロシア語の単語で、食品である。日本語でいうなら「サワークリーム」にあたるような商品である(っていうか、外来語ですな)。

smetana
(こんなパッケージ)

スメタナはなんにでも付けるし、入れて食べる。例えばパン。あるいはスープ。

日本での食文化では、パンにサワークリームを付けて食べる人は稀《まれ》だと思うが、キルギスに来てからそういう食べ方を覚えて、特に独り暮らしになってからは習慣になっている。

スープやカレーにも合う。日本でもカレーに無糖ヨーグルトを入れる人はいるんじゃないか。ちょっとした酸味がついて味が複雑になりつつ、全体的には味がまろやかになるので、やったことがない人には一度はお奨めする。

今はスメタナは常備するようにしていて、何かを食べるときには、とりあえずスメタナを付けてみて相性を確かめる。ロシア文化の影響圏では普及していると思うが、日本ではあんまり馴染みがないというところか。

自分が聴いていたNHKラジオのロシア語講座では、餃子にサワークリームを付けると、ロシア料理っぽくなると紹介されていた。ロシア料理にも水餃子のような食べ物の「пельмень /ペリメニ/」という食べ物がある。餃子&サワークリームは、ペリメニにスメタナを付けて食べる感じになるのだろう。

日本に帰ったら、絶対やる。

2012/04/17

新隊員を連れ回す

21年度4次隊が任期を終えて帰国して、その1週間後に新隊員の23年度4次隊が赴任してきた。いつもながらに思うことだが、協力隊は2年経てばメンバーがすべて入れ替わるわけで、それでも脈々と続いているところが不思議である。

私は首都に活動場所を移していたので、今回の新隊員の赴任に際して、到着当日に首都隊員での小さな歓迎食事会をしたり、市内のバザールを案内したりした。隊員同士の食事会(飲み会)にも連れ回した。

「面倒見が良い」と言われることもあるが、面倒を見るというのとは違った思いで、私はやっているところがある。

最初に書いた通り、協力隊は2年間の任期で入れ替わっていく。私の任期は今年の7月末までであるから、今回来た新隊員とはキルギスで共有する時間は4ヶ月しかない。しかも毎日会うわけではないし、現地訓練を終えた後はそれぞれの任地に別れるから、実際に会うのは10回にも満たないであろう。そうであれば、会えるうちに会って、交流をしておきたいと思うのである。

協力隊の魅力の一つは、年齢も職業も異なる者同士が、日本国外で知り合い仲間になっていくことである。マレーシア隊員での経験から言えることは、そこの出会いでその後も続く友人を得ることがあるということである。そういう友を得るというのはかけがえのないことだと、私は思う。もちろん、協力隊終了後も交流が続かない人もいるだろうが、それでもとにかく、キルギスという国でたまたま滞在の時期が重なったのだから、相手のことを知れたらと思うのである。

私が新隊員を連れ回す理由のもう一つは、赴任直後の新隊員に対しては「先輩面《づら》」することができることである。

新隊員は、もちろんのことだが、その国のこと、その町・村のことをまだ知らない。今はネットで調べたりして、予備知識を持ってくる人もいるが、当然のことながら、そういう情報は実際の生活の何百分の一にも及ばない微々たるものに過ぎない。

バスの乗り方、買い物しやすい場所など、これから生活を始める人たちにとっては役に立つ情報を、先輩隊員は持っている。実際、私が一度目の協力隊参加で、マレーシアのクチン市に赴任した時、任期延長で数週間だけ活動期間がかぶった先輩隊員から色々と教えてもらった。初めて暮らす土地で、そういう導入をしてくれる人がいたことはありがたかった(逆に、先輩隊員がいない任地に赴くのも、それはそれで協力隊らしいとも言える)。

それは新隊員にとって役に立つ(そうであってほしいが)のと同時に、引き継ぎをする先輩隊員にとっても、自分が暮らしている国、町・村を紹介できる機会にもなっている。自分が暮らしている土地のことを、誰かに紹介する、案内するというのは、その土地のことを見つめ直す機会でもあるし、そういうことを通じて、その場所に愛着が増すものだと私は思う。同じ理由で、日本からの旅行者を案内するのも、私は嫌ではない。

Bishkek
(観光スポットが新鮮に映るのも赴任直後だけ…?)

というわけで、「情けは人のためならず」ではないが、新隊員を連れ回してあちこち案内しているのは、単に新隊員のためというだけではなく、自分の満足のためでもある。

それはそれとして、新隊員の諸君には、私から受けた恩は一生涯忘れずに、いつか100倍にして恩返しをしてくれることを期待して止まない。

ビシュケクのタンポポ

ビシュケクのあちらこちらでタンポポを見る。

tanpopo

村でホームステイしていた家の庭は、タンポポが群生していた。山のほうに行っても所々、そこだけ真っ黄色になっている場所があって、タンポポが密集して咲いている所なのであった。

ビシュケクではそういう感じでは咲かないようである。道端に、ぽつんぽつんと、2~3株ずつ咲いている。

2012/04/16

OMASでおます

中華系食材店の菓子棚で見つけたビスケット。商品名は「奥瑪酥 OMAS」とある。「オマス」と読むのだろう。

omas

それにしても、このパッケージとビスケットの色形、どこかで見たことがあるような…。

食材調達

ビシュケクには中華系、韓国系の食材店がいくつかある。キルギス食材の中をいくら探してもない物も、それらの店だと割と簡単に手に入るので、たまに買い出しに行く。

キルギスの食材店にはない物というのは、例えばオイスターソース、豆板醤、コチュジャンなどの調味料。ごま油もキルギスの店では見たことがない。豆腐もキルギス食材店にはないが、中華・韓国の店なら買える(日本の絹ごし豆腐のようなのはない)。

生姜、もやし、山芋、チンゲンサイなどの野菜も、キルギスでは使わないようで一般には売られておらず、中華食材店に探しに行くことになる(生姜はトルコ系のスーパーに売っていると聞いたが)。

これらの一般のキルギスの食材店では売っていない食材というのは、つまりキルギス人は使わない、食さない食材ということになるだろう。キルギス人の家庭では、食べ慣れた料理のレパートリーの中で食事をしている感があり、外国の食材を使って新しい料理を作ってみようという気持ちはあまりないのかも知れぬ。いや、気持ちの問題というよりも、そういう輸入食材は高価なので、わざわざそれを使うという気にはならないのだろう(国内の食材で十分おいしい)。

醤油だけは中華・韓国食材店以外でも簡単に手に入る。キルギス料理でも「ボソラグマン」という焼きうどん風の料理の味付けに醤油が使われる。キルギスで売られている醤油は中国のものがほとんどで、風味などが日本の醤油とは異なる。自分で肉じゃがなどの煮物を作る際、どうしても「何かが違う」感じになってしまうのだが、まあそれは仕方がない。

中華系、韓国系食材店があるのは首都ビシュケクの話であって、田舎に行けば上記に挙げた物はまったく手に入らない。ビシュケクだけが突出して物が豊富なのである。

2012/04/14

タンおばさん&ショロおばさん登場

いつ、おばさんたちを見かけ始めたのか、正確に思い出せないのだが、まだ4月になっていなかったと思うから、3月の最終週くらいだったろうか。おばさんたちが道の辻ごとに現れだし、ビシュケクの春の到来を感じた。

キルギス人は主に遊牧民だったこと、現在も酪農(羊、牛、馬)が主要な産業であることから、食文化の中に乳製品がたくさんある。馬乳や牛乳を発酵させた飲み物をキルギス人はよく飲んでいる。それらは家ごとに自家製のものもあるのだが、商品化されてペットボトル売りされているのもある。そういうドリンクを作る会社が、キルギス国内では上位企業にもなっている。

それらの会社は、ペットボトルを店舗売りするだけでなく、街頭に販売員を配置して、コップ1杯からの手売りもしている。冬場はいなかった販売員が、暖かくなると営業を開始する。販売員はほとんどが女性、若い人もいるが、なんとなく「おばちゃん」と呼ぶ方がいいようなユニフォーム、貫禄で客待ちをしている。「タン」「ショロ」は製品名、メーカー名であり、私の周り(協力隊員)では彼女らを「タンおばさん」「ショロおばさん」と呼んでいるのだ。

TAN_obasan

SHORO_obasan

発酵乳ドリンクを売っていると書いたが、それ以外にも麦などの穀物を混ぜて発酵させた飲み物や、アイスティーも扱っている。使い捨てのプラスチックコップ200mlくらいで8ソム(13~14円)程度。倍のサイズのコップもあるし、ペットボトルにも詰めてくれる。

3月末におばさんたちが出現し始めた頃は、まだポツリポツリという感じだったが、今はビシュケクの大きな通りの交差点ごとに店が出ている。面白いのは、ライバル会社同士が並びで店・販売員を置いていて、おばちゃん同士は客が来ない間はフツーにおしゃべりなんかをしているし、釣りの小銭がない時は隣の販売員に両替を頼んだりしている。こういうの、いいと思いません?

ビシュケクの人たちにとっては「のどが渇いたから1杯」と気軽に立ち止まって、おばちゃんたちからドリンクを買っている。ビシュケクの街頭に自動販売機はない(首都にないのだから、当然、地方にもない)が、こうして手売りで飲み物を買える。慣れるとこちらの方式独特の楽しさもある。不愛想なおばちゃんも多いが、別に客に喧嘩を売っているわけではない。この国で1年半以上も暮らしていると、こういう態度のほうが客に媚びておらず、かえって「フツー」の商売のようにも見えてくる。それに、そういう不愛想な人が多いだけに、たまに愛想のいいおばちゃんに出会うと、「ここで買って良かった」と思えるメリット(?)もある。

冬場はタンおばさん、ショロおばさんたちの店は出ないと書いたが、寒い時季はあえて道ばたでドリンクを買って飲もうという通行人はいないからだろう。それに、マイナス10℃を下回るような寒さの中で、おばちゃんたちも何時間も座り続けてはいられまい。なにより、その気温では飲み物も容器の中で凍ってしまい、コップに注ぐことができない。

2012/04/12

物価記録(2012年2~3月)

2012年2~3月の買い物から、キルギス(首都ビシュケク)での物価記録。

商品 キルギスソム 円換算
ひまわり油(1L) 95 165
小型ナイフ 15~20 26~35
じゃがいも(1kg) 8~13 14~23
たまねぎ(1kg) 10~15 17~26
にんじん(1kg) 10~15 17~26
トマトペースト(小瓶) 30 52
食器洗剤(FAIRY、 70 122
スポンジ 8~15 14~26
HALLS(ハッカ飴) 20~25 35~43
バター(タラス産、1kg) 260 452
市内マルシュルトカ 8 14
市内バス 6 10
市内トローリーバス 5 9

2012年2月のドル-ソム為替レートは、だいたい1ドル=46.5ソム。1ドル=81円として、1ソム≒1.74円として換算。

それにしても驚くのは野菜の安さだ。日本でも100円で売っている飴が20ソム(35円)なのに対して、じゃがいもが1kg8ソム。日本では考えられない値段。

野菜は季節によっても値段が違う。じゃがいもは秋に収穫されて流通するから、秋から冬にかけて値段が最も安くなる。今、このブログ記事を書いている時点では4月中旬であるが、じゃがいもの値段はだいぶ上がってきていて、最低価格が13ソムくらいになっていた。逆に、夏もの野菜(きゅうり、ピーマン)などは、冬場は基本的に手に入らない、手に入っても値段が高い。

私の物価記録はあんまりその辺を追えていないのは忸怩たるところで、なんのために物価記録と称するものを付けているのかと問われると、返す言葉がない…。

2012/04/11

髪の毛をめぐる異文化間の共通点

日本の大相撲(の2012年春場所)がキルギスでも2ヶ月遅れで放送されていたことをブログに書いた(大相撲の放送)。

この2年くらいの間に幕内に入った力士の名なんてほとんど把握していない。協力隊でキルギスに来ていることもあるが、日本にいても果たして新入幕力士なんてどれくらい関心を持っていたか…。日本国内でも大相撲への関心は下がっているのではないだろうか。この前、キルギスで見た大相撲の放送でも番付の下のほうの取り組みでは、土俵周りの砂かむりの席でも空席があったぞ。

昔は力士ののど自慢歌番組(プロ野球選手と対抗戦みたいな)とかもあったくらいだが、今はそんなのない。力士が出ているコマーシャルは何本あるのだろう?

まあ、相撲人気が下火になっていることはさておき、大相撲の放送を見ていたら、番付の下のほうの力士だったと思うが、髷《まげ》のボリュームがだいぶ淋しい人がいた。別の言い方をするならば、「頭が薄い」「禿頭症状の進行」ということである。確か、大相撲では、髷が結えなくなったら引退しなければならない。どの時代にも、残された頭髪を大事に結って、小さな小さな髷をのせているおすもうさんはいるものである。涙ぐましいほどの努力であり、そのことだけを以て応援したくなる人も多いに違いない。

それにしても、この「髷が結えなくなったら引退」という決まりは、相撲をスポーツとして考えてみれば奇妙である。第一、学生相撲ではみんな髷を結っていない。坊主頭で相撲をしている。大相撲になると髷ルールが出てくるのである(当たり前だが、入門したてで短髪の間は髷ルールは適用されないようだ)。

これは、相撲が本来、神事であることに関係があるのではないか。ふんどし一丁の“ほとんど裸”状態で行なうことや、四股を踏む・塩を撒くことなどに加えて、髷を結うことも宗教行事としての相撲の由来に関係があるのではないかと、勝手に想像するのである。

仮に、髷に宗教的な意味づけがあるとすると、そこから連想されるのは、髪にまつわる他の宗教・文化圏での考え方である。

以前から不思議に思っているのであるが、多くの宗教では「髪を剃る」あるいは「髪を隠す」という決まりが設けられている。仏僧は剃髪する。カトリックの修道女は髪を隠す。イスラム教徒の女も髪を見せない(肌も見せてはいけない)。異なる宗教なのに、なんか似てまへんか? 髪に対する、何か共通した意味づけでもあるのかと思ってしまうほどである。

旧約聖書にサムソンという戦士が出てくる。彼はむちゃくちゃ強いのであるが、髪の毛を切られるとたちまち力が出せなくなって、敵にやられてしまうのである。そして、また髪がのびたら力がみなぎってきて、再び強くなるという話である(正確なストーリーは旧約聖書を読むか、ネットで調べられたし)。

ここでは、髪は力の源という意味があるようである。髷も、ある程度以上の長さがなければ結えないものだから、サムソンと同様に長いほうが力が出るという信仰があったのだろうか…。もしそのように信じていたなら、昔の人にしてみれば、髪には本当にそういう力があった(髪が長いと力が出る気がした)のだろうと思う。

どうして我々は頭髪の扱いに色々と気を配るのかというのは、私にとっては不思議なことである。なにか人類の原初的な、あるいは生物的なところに根拠があるのかしら?

力不足ゆえ、私のブログではこれ以上は深められないが、禿頭差別・嘲笑には断固反対を唱える。そのことは書いておく(それで成り立っているビッグビジネスもあるんだけどね…)。まあ、ハゲを笑うのは百年後も千年後も続けているんだろうけどね、人類は。あ~、ばからし。

パン粉問題、解決?

キルギスでパン粉の入手が困難(韓国系商店で購入できるが高価)とブログに書いた(パン粉問題)。

書いてまだ1週間経っていないのだが、パン粉問題が解決した、かも(?)。

日曜日に、買い出しのためにビシュケク市内のバザール(市場)を歩き回っていて、調味料の店をのぞいていたら、パン粉を見つけた。

パン粉

"СУХАРИ"とあるのは「乾パン」という意味。その下の"ПАНИРОВОЧНЫЕ"は「揚げる前にまぶす物」という意味なので、「揚げる前にまぶす乾燥したパン」、すなわちパン粉である。

日本で売っているパン粉よりも細かい粒である。ロシア系の料理にкотлета /カトレェタ/というのがあり、日本語の「カツレツ」に対応するものである。ただし、カツレツをイメージしていると、だいぶ違った料理なので、私はあえてこれをカフェで注文することはない。この料理は、ひき肉のパテにパン粉の衣を付けて焼いているようなので、「そのパン粉はどこで手に入れた?」と思ってはいたのだ。

購入したパン粉はまだ袋も開けていないのだが、近いうちにとんかつに挑戦してみることにする。

あと、日本の知人からのメールで、食パンからパン粉を作る方法を教えてもらったので、購入したパン粉とは別にその方法も試してみることにする。

それにしても、このパン粉、「オレ、よく見つけたなぁ」と自分で思うくらい、埋もれた中からの発見であった。キルギス隊員諸君、我らのとんかつ、コロッケ、串カツ料理の未来は明るい!

「七人の侍」やってた

深夜0時(そのくらいだと今は「深夜」と言わんのかな?)くらいに、テレビチャンネルを回していたら、何度も見たことのある白黒映像が出てきた。黒澤明監督作品の「七人の侍」である。

志村喬らの侍7人が村に入って、陣営の配置を決めるあたりから見始めた。まだ真ん中くらい。この映画、トータルで4時間を超える長さだったはずなので、「最後まで見ようか、見まいか」と思いつつ、結局、最後まで見てしまった。

放送はロシア語吹き替えであった。“吹き替え”というのはやや正確ではない。元の音声の上にロシア語をかぶせているのである。だから、日本語も音量は小さいがちゃんと聞こえる。こういう状況では、ロシア語のほうが音量は大きくても、かすかに聞こえる日本語のほうを聴いてしまうものである。母語の支配力というのはすごいものがある。

加えて、この映画はDVDで20回近くは見ているので、場面場面で、登場人物たちが何を言うのかは分かっている。忘れていたようでも、画面を見ていると「あ、ここではこう言うな」と思い出されてくる。だからなおさら日本語が聞こえてしまうんだな、きっと。

というわけで、2時間近く見ていたが、ロシア語の勉強には少しもなっていない。トホホ…。

そう言えば、哲学者内田樹がブログで、「七人の侍」の登場人物について論じていて、その中で、7人の中に1人だけ未熟な若侍・勝四郎が混ざっていることについて分析していた。なぜこのような即戦力にならない若侍をメンバーに入れたのか? という疑問に対する分析である(ブログ・内田樹の研究室『七人の侍』の組織論)。

内田樹曰く、他の6人の侍たちは、野武士たちとの戦いを通じて、自分の持っている武士としての経験を、この若い侍に伝えるべく戦ったとのことである。自分は死んでも、自分から若侍に伝えたものは残り、またさらに次の世代に引き継がれていくはずだ、という信念があるからこそ、彼らはこの戦いに命をかけられた(実際、7人のうち4人は死ぬ)という。

なるほどね。その内田の分析を念頭に置いて、この映画を見直してみると、なるほどそういうものかと思えてくる。

7人の侍たちは、野武士にいたぶられている百姓たちに同情し、野武士成敗に義を見出して、百姓たちと一緒に戦ったというふうに物語を解釈していた(表層的~、薄っぺら~)が、内田流の分析に基づいて見てみると、武士たちは自分が蓄積したものを次の世代に伝える場として、この戦を選んだとも言えるわけだ。以下、一部引用。

教育共同体は若く非力な人々に知識や技芸を伝授し、成熟に導くためのものである。医療共同体は病み、傷ついた人々を支援するためのものである。信仰共同体は隣人を慰め癒すためのものである。
そのような共同体だけが永続性を持ちうる。
集団成員のうちの相対的に有力なものに優先的に資源が配分されるような「弱肉強食」共同体は長くは続かない(いずれお互いの喉笛を掻き切りあうようになる)。
集団成員のうちのヴォリュームゾーンである「標準的な能力をもつ成員」の利便を最優先に配慮する「平凡」共同体も、やはり長くは続かない(全員が均質化・規格化して多様性を失ったシステムは環境変化に適応できない)。
もっとも耐性の強い共同体とは、「成員中のもっとも弱いもの」を育て、癒し、支援することを目的とする共同体である。
そういう共同体がいちばんタフで、いちばんパフォーマンスが高い。

内田樹の影響を受けた上で言うのであるが、次世代を育成しない組織というのはやがて衰退する。低賃金の労働力を使い捨てしながら、収益を上げようとする組織は、長期的には技術の蓄積ができず、衰退していくことになるのだろうね。

なんてことを、映画を見た後にさらにブログに書いているわけだから、こんな時間になってしまった…。やれやれ。

2012/04/10

村の商店

バコンバエバ村にいる時に撮影した商店の様子。

ショーケースで客と店員の間が仕切られていて、商品の陳列は客から見て向こう側にある。客は、自分のほしい商品を店員に伝えて取ってもらって購入する。「一番安いひまわり油1本」とか「上の棚にある120ソムのウォッカ」とか言う感じで伝える。

こういう配置や客と店員のやり取りは当然のようにも思うのだが、例えば日本の田舎の個人商店なんかを思い出してみると、商品の陳列はこうはなっていなかったと思うのだ。客は自分で商品を直接取ることができるのではないか。

推察するに、これは、一つには万引き防止ということがあるだろう。ただ、衣服店など直接商品を手にすることができる店もあるので、必ずしも万引き防止だけが理由ではないとも思われる。

もう一つ別の理由として思ったのは、ソ連時代からの物品配給の習慣が引き継がれているかも知れないということ。ソ連時代の商店では、買いたい物(肉、パンなど)を店員に伝えて、その商品の価格を書いた紙をもらい、それを持ってレジで支払いをすると支払い証明のレシートがもらえる。再び元の商品の売り場に戻って、そのレシートと引き替えに商品を受け渡してもらう、というシステムだったのだそうだ。ロシア語の学習テキストか何かでそういうのを読んだ記憶がある。なかなか面倒で、かつ非効率的なシステムに思えた。

キルギスの肉屋でもそのシステムを体験したことがあるから、いまだにそのシステムが残っている所があるようである。個人商店がショーケースで仕切られているのも、そういう名残の一部なのかも、と思った。

2012/04/09

本日のあんず花

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薄曇りの中、コンパクトデジカメのマクロモードで撮影。もっと色彩感を出したり、コントラストをはっきりさせる撮影テクニックがあるのだろうが、私の力量ではここまで。

でも、ビシュケクでも桜のような花が咲いていることは伝われば、それで良しとする。

「海洋天堂」上映会

私の配属先である障害児親の会の中の自閉症児の親たちが、自閉症のことを知ってもらおうということで、映画館を借りて自閉症の人とその家族をテーマにした映画の上映会を開催した。

映画は「海洋天堂」。主演はジェット・リーで、昨年あたりに日本でも公開されていたはず。

自閉症に関する映画ということで名前は知っていたが、キルギスにいたので見ることはできないでいた。帰国したらDVDをレンタルして見ようと思っていた映画だったが、図らずもキルギスにいる間に見ることになった。

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(上映前の映画館前)

父子家庭で父親は末期の癌。自分の死後、自閉症の息子の面倒を誰が見てくれるのか、というのがテーマ。内容の詳細は、ネットで調べればすぐにみつかると思うので省略。

映画の終盤、会場のあちらこちらから鼻をすする音が聞こえた。今日は、自閉症児の親たちもかなり来ていた。もちろん、親でない人も感動していただろう。

映画の舞台は香港だと思うが、自閉症の人や家族が利用できる福祉サービスはまだ少ないように見受けた。キルギスはそこよりもさらに少ない。親たちが不安や心配を抱えるのも当然であろう。これから5年後、10年後、この国の福祉サービスはどう変わっていくのだろうか…。

映画の上映後、会を主催したグループのメンバーが、自閉症についてのアピール、また相談をしたい人のために連絡先を案内するなどをしていた。障害児者の家族が連携することで、また新たな動きができていくと良いと思う。

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(会場は7~8割程度埋まっていた)

ところで、こんな真面目な上映会の話をしていてなんなんだが、映画の中で、主人公が荷物を入れるのに使っていた袋が、キルギスでもよく見かける“バザールバッグ”であった。「へぇ、香港にもバザールバッグがあるんだ」と私の目を引いたのであった。

2012/04/08

キルギス、民衆革命から2年

4月7日は、キルギスで民衆革命が起こった記念日。今から2年前、2010年のことであった。

2010年の4月7日は、私にとっても忘れられない日で、キルギス協力隊に参加するにあたって、長野県駒ヶ根市にある協力隊の訓練所に入所した訓練初日であった。二度目の協力隊参加とは言え、一緒に行くメンバーとは初対面だから緊張や不安はあった。

その日の夜にネットニュースを見たら「キルギスで民衆暴動」みたいなニュースが出ていた。キルギスに行く予定の他の訓練生と「俺たちどうなるんだろう」と話していたのを思い出す。

4月7日から始まった暴動は、その後、当時の大統領が国外逃亡し、暫定政権が成立。“暴動”は“革命”となった。死者80余名出た。政権が変わると、日本の外務省と当該国で交わされた国交契約(?)は一度白紙になるということで、キルギスへの協力隊派遣も、その手続きを待たねばならぬということだった(その後、日本政府が暫定政権を正式な後継政権として認め、協力隊の派遣も実施された)。

6月末にもオシュ州という所で、民族間暴動が起こり、死者数が確定されていないが、1千人とも3千人ともいわれる犠牲者が出た。そのこともあって、当初の予定だった6月下旬の赴任は延期となった。

当初、私たちの隊次のキルギス派遣予定者は7名いた。このうち特別現職参加で来ていた学校教員の人が2名いて、この2名は訓練の序盤で別の派遣国に振り替えとなった。この2名は、先月、任期を終了して帰国、4月から学校に戻って仕事を再開しているそうである。

もし自分がキルギス協力隊員でなかったら、4月7日の暴動(革命)に興味を持つことも一生なかったかも知れない。いや、そんなニュースに関心を持つことはなかった。それが、今はそのキルギスに住みながら革命2周年の特番をテレビで見ている。

2012/04/07

掃除の土曜日

ロシア語で土曜日はсуббота /スボータ/。

で、субботник /スボートニク/というのがあって、土曜日に職場や学校で大掃除をする日がある。

今日、私の配属先がそのスボートニクで、建物の内外を掃除・整理整頓した。

療育センターのスタッフだけでなく、色々な団体からボランティアも呼んでいて、そういう人たちも掃除を手伝ってくれていた。来ていたのは通所している児童の親、大学生のボランティアグループ、石油会社の社員グループであった。どういうルートでこういう団体から協力に来てもらったのかは知らないが、こういうのはいいなと思った。

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村にいた時も、月に一度くらい、土曜日に学校の生徒たちが道路掃除をしているのを見た。日本でもやれば良いのに。日本の子供は、公共のために仕事をする機会がなさ過ぎるのではないか。

掃除が終わると、センターのほうで用意したランチをみんなで食べた。

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当たり前のことのようだが、こういうことができるのはキルギス人の良い所だと思う。日本人も真似できないものかね?

この日、私にとっての収穫(?)は、石油会社から来ていたボランティアたちがかぶっていた、その会社のロゴが入った帽子がかっこうよかったので、「それって、どこかで売っているの?」と質問したら、そのうちの一人がかぶっていた帽子を私にくれたことであった。コレクターというほどではないが、結構、帽子を集めているので、こういう帽子がもらえたのは嬉しい。日本でかぶっても良い感じの帽子である。

2012/04/06

大相撲の放送

有料チャンネルの中に、格闘技専門チャンネルがあり、ボクシング、キックボクシング、総合格闘技などを一日中放送していて、絶えず人が殴り合っているのだが、そのチャンネルで大相撲が放送されていた。

sumo

相撲も格闘技の一種だから、このチャンネルで扱うのは自然ではある。ただ、キルギスで大相撲の放送が見られるとは思いがけないことだった。

残念ながら生中継ではない。取り組みの力士に巻き込まれて行事が失神した場面が出ていた。確か春(1月)場所の出来事ではなかったか。日本では大阪(3月)場所が行われている時であったが、一つ前の場所を放送していたことになる。

ずっと以前に、キルギス人もモンゴル相撲に似た相撲をやることをブログに書いた。キルギスから日本の相撲部屋に入門し、力士になる人がいれば、キルギスに関わった者としては応援したいところである。

キルギス出身力士の四股名も勝手に考えたりしている。キルギスは天山《てんしゃん》山脈に囲まれているので、その字は入れたい。または、イシククル湖のあるイシククル州出身であれば、玄奘三蔵の記録ではイシククル湖が「熱海」と記されているらしいから、その字を入れるのもよい。キルギスという国名に漢字を当てて「吉留義守」とかどうか(吉を留め義を守る、って格好いいね。ワープロは漢字の当て字がすぐできるから便利だ)。

ビシュケク、開花宣言!

今日の昼休みに、自分のランチを買いに、職場の近所の小店まで出た時に、樹に白い花が咲いているのに気付いた。

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あんずの花である(たぶん)。あんずも桜もバラ科の仲間で近いらしい。花を見るとすごく似ている。

キルギスに来たばかりの頃、ホームステイしていた家の人から新聞記事の切り抜きをもらった。イシククル湖の南岸にТамга /タムガ/という村(町?)があって、そこにサナトリウム兼保養所がある。そこは、かつてソ連に抑留された日本人捕虜たちが強制労働で建設に携わったサナトリウムだと書かれていた。記事のタイトルは「日本兵たちはあんずの花を見て故郷の桜を思い出した」みたいな感じだった。それほどあんずと桜の花は似ているということだ。

テレビの天気予報を見ていると、ビシュケクの最高気温は22~23℃と表示されている。日中は半袖で歩いている人もたくさん見かける。つい3週間前くらいまではまだ寒いと思っていたのに、何という変化の速さ。北海道の4月といえばまだ肌寒かったと記憶している(ゴールデンウィーク頃に降雪を経験したこともあった)。

あんずの花も、昨日までは気付かなかったから、今日になって一気に開花したのだろう(私が不注意で見ていなかったというのも大いにあり得るが)。今日一日でも、2時間ほどの間に蕾だったのが徐々に開いているのが見て取れるほど、どんどん咲き始めている。

今日は仕事を早めに切り上げた(というか、木曜日は私以外のスタッフは誰も来ない…)ので、いつもは乗らないマルシュルトカ(147番だった)に乗って終点まで行ってみた。

案の定というか、まったく知らない方へどんどんと進んで行く。他の乗客が全員降りる所がすなわち終点である。降りたあたりは、一度、何かの通り道で見た憶えのある場所であったが、地名や通りの名は分からない。

集合住宅街であったが、ここでも桜が、--おっとっと--、あんずが咲いていた。

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川もあって、春の陽気の中で開放感のようなものを感じつつ、ブラブラと小1時間歩いた。

river
(向こうのほうに立っている煙突はビシュケクのランドマークになっている気もする)

今は19時過ぎてもま だ明るい。20時近くでもまだうっすらと日は残っている。同じくらいの緯度でも札幌ではそんなことはなかったと思うのだが。

昨年のこの時季はバコンバエバ村にいた。あんずが咲くのはもうちょっと先だったと思う。イシククル湖北岸のチョルパンアタであんずの花を見たのも5月頃だった。キルギス国内でも地域差がある。

2012/04/05

パン粉問題

首都では豚肉が容易に手に入るので、豚肉料理をすることが多くなった。

隊員が集まって、誰かの家で手料理の食事会をする時に、これまで何度かとんかつを作った。とんかつは嗜好率が高いので、こういう場では人気のあるメニューなのである。

豚肉さえあればとんかつなんてすぐにできそうに思うのだが、キルギスにおいてはそう簡単でもない。毎回、問題になるのがパン粉の調達なのである。

キルギス人、さらにロシア人もパン粉を使った料理はあまりしないのか、一般の店でパン粉を売っているのを見たことがない。韓国系の食材店では売っていた。ただし高い。日本と同じくらいのパッケージで240ソム(約400円)くらいであった。じゃがいも1kgが8ソム(約13円)と比較すれば40倍であるから、「高く」感じるのが分かってもらえるだろう。

で、自分たちでとんかつをする場合、毎回、手作りパン粉に挑戦することになる。話は簡単で、食パンを買ってきて細かくするのである。話は簡単だが、実践は難しい。

自分たちが持っている道具でパンを細かくする方法を色々と試したが、まず最初に試みたのが「手でちぎる」。だが、すぐに察しが付くと思うが、手でちぎるのではそれほど細かいパン粉にはならない。大粒の「パン玉」ができるだけであり、それを衣に揚げたかつは、何というのか、ガチガチした歯触りのパン玉をまばらにまとった、おおよそ我々がとんかつと聞いて想像する物とはかけ離れた姿、食感の料理になってしまうのである。(T_T)

次に考案されたのが「下ろし金」である。食パンを下ろし金ですり下ろすのである。これは上手くいくのではと、隊員一同の期待がかかった方法であったが、やってみるとさほど効果は上がらなかった。まず、パンが生っぽいとダメなのである。しっとりと水分を含んだパンだと、上手くすれずに、手でちぎった時のようにパン玉になってしまうのである。

そこで改良案として、パンを乾燥させてから下ろし金にあてる方法が出てきた。買ってきてから部屋で2~3日放置したパンは乾燥してカチカチになる。2~3日放置したパンがない時は、パンを1cm厚に切って、それをフライパンで焼いて、強制乾燥させる。乾燥させたパンは生のパンよりはすり下ろしやすいが、それでも会心のできとなったことはない。

一度だけ「上手くできた」と心から思ったパン粉が作れたのだが、それは、菓子パンというのかミルクパンというのか、そういうふっくら、ふんわりした感じのパン(ロシア語だとбулочка /ブーラチカ/)を使った時であった。ブーラチカをさいの目に切って、フライパンで炒めてカリカリに乾燥させる。その後、手の平や指で砕いたら、これがいい感じで細かくなった(同じ方法を食パンでもやったことがあるが、生地の目(というのか?)がつまりすぎていて、細かく砕けなかった)。

panko
(隊員を悩ますパン粉。最初にパン粉を発案した人はどうやって作ったのだろうか?)

将来のキルギス隊員がこのブログに行き当たるかも知れないし、キルギス以外でもパン粉の手に入らない国でとんかつを作りたい人に、少しは参考になるかも知れないので記録しておく(パン粉作りについてネット検索もしてみたのだが、紹介されているのは、ブレンダー(ミキサー)を使うのがほとんどで、自分には参考にならなかった)。

まあ、ここまで労力をかけることを考えると、韓国食材店に行って、市販のパン粉を買ってくるのもさほど高いとは言えないかも知れない、と思わないでもないが…。

そして、パン粉問題はとんかつのみならず、コロッケや串揚げでもぶち当たる共通の問題であることは言うまでもない。

croquette
(このコロッケは手作りパン粉と市販パン粉を混ぜて作った)

2012/04/04

キルギス語とカザフ語

我が家で見られる有料チャンネルは、ほとんどがロシア語番組なのだが、それ以外にもカザフスタンのチャンネルも2つくらいある。実は、キルギス語とカザフ語はかなり近い言葉同士で、お互いの言葉を使って会話をすることもできる。言ってみれば方言同士という感じだ。スペイン語とポルトガル語がそんな関係だと聞いたことがあるし、現にスペイン人とブラジル人が話しているのを見たこともある(その人たちに聞いたら「だいたい分かる」と教えてくれたのだ)。

そんなことを書いていて思い出したが、タイの東北部の言葉とラオス語は近いらしく、ラオスの協力隊員がタイの東北部へ行ったら言葉が通じたと聞いた。タイ隊員は、タイの共通語を訓練させられるから、東北部においてはタイ隊員よりもラオス隊員のほうが言葉が通じてしまった、というエピソードだったと記憶している。

国境なんてものは、あとから恣意的に策定されたものであって、かつては人々は境なんてものを気にせずに暮らしていたわけで、当然、今は「国境」と呼ばれている境の向こうとこちらも、元々は同じ言葉を使う人たちであったという地域は世界中にたくさんあるんじゃないか。

2012/04/03

キルギスでテレビを見る

ビシュケクの団地で独り暮らしをしているが、大家が有料チャンネルを入れてくれて(ん? 支払いはあとで自分がするのかな?)、地上波以外にも衛星チャンネルを見ることができる。

衛星チャンネルの会社はいくつかあるようだが、私の家で見られるのは「ala-tv」というもの。全部で65チャンネルくらいか。

番組のほとんどはロシア語放送。おそらく、ロシアの番組を買ってきて、キルギスで配信しているのではないか。番組を見ていて、1年半以上ロシア語圏の国に住んでいて、自分がほとんどロシア語の会話を理解できないことを痛感されられ撃沈気分を味わうこともしばしば。

ロシア語が分からなくても楽しめるのがスポーツ番組である。ルールを知っている競技であれば、ロシア語実況が何を言っているか分からなくとも、見ていることの意味は分かる。例えば「○○選手は、この試合で引退です」とか「○○チームは、この試合に勝てば今季の優勝が決まります」とか言っていたら、それは分からないことになるが…。

それにしてもサッカー放送は多い。常にやってる。スペイン、イタリア、イングランド、ドイツ、ロシアの各リーグの試合を放送しているから、それだけで1週間なんて時間が足りないくらいである。ワールドカップの地区予選で、日本の試合も放送されたことがあったらしい。

私のお気に入りの番組となっているのは、「マッチ棒クイズ」の番組。

match_quiz1

 

「マッチを一本だけ動かして数式が正しくなるようにせよ」という問題。右辺は変えられない。生放送で、番組に電話をかけて解答を言って、正解ならば12000ルーブルとか13000ルーブルといった賞金がもらえる。どんな問題でも、5分以内には答えが見つかる簡単なものなのだが、1時間くらい誰も正解者が出ない。というかそもそも電話がかかってこない。この番組、本当に生放送? いつも、番組終了1分前になると正解者が現れる。って、それ怪しくない? と疑惑だらけの番組なのであるが、その疑惑の真偽を確かめたくて見てしまうのである…。

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(なぜ、正解が出ない? 司会の女性はずっとしゃべり続けているが、誰がこの番組を見ているのか? 私だけ?)

もう一つは、「Animal Channel」という動物専門チャンネルでやっている、おそらくアメリカの番組をロシア語吹き替えしたもので、「DOG Whisperer」という番組。視聴者から寄せられた、飼い犬に関するお悩み相談に、ドッグトレーナーの男の人(歯がやたらに白い!)が実際に家に訪問して、トレーニングをしてくれる番組である。

「噛み癖のある犬」とかは、日本でもよく見る困ったワンちゃんのパターンであるが、この前は「臆病で散歩に行けない犬」という回があった。家の敷地から出るのを断固拒否。飼い主が紐を引っ張っても、犬が足を踏ん張って動かない。大きなサイズの犬なので、飼い主もヘトヘト。トレーナーも4週間くらいかけて、少しずつ犬の行動を変えていった。感動した、と言いたいくらいの内容であった。

このトレーナーのやっているのはおそらく“行動療法”をベースにしたもので、それは私の仕事でもおおいに参考になる(いちおう書いておくが、動物と障害児を一緒に扱うという意味ではないよ。「行動」というものをどう捉えるか、というアプローチの話である)。

このトレーナーは犬の特性についてよく知っており、犬の立場から状況がどう把握されるかを考えている。それに基づいて犬の行動が変わるようなアプローチをしている。さらに、ねばり強い。犬に対して、一度ですぐに結果を求めない。なんだこれ、自分の仕事にもそのままあてはまるじゃん! と思いながら見ている。

日本では放送されていないのだろうか?

2012/04/02

豚肉の皮の写真をアップ

当ブログの豚肉ネタで、キルギスで買う豚肉には皮の部分が落とされずに売られていることを書いた。

ベーコンであるが、皮付き肉の写真が撮れたのでアップする。

bacon

上の茶色い部分が皮。表現はよくないかも知れぬが、ゴム状の弾力があり、噛むとくちゃくちゃとした感じがする。

とんかつや生姜焼きのような、自分が食べ慣れた料理として食べると、どうしてもこの皮の部分に違和感を覚えてしまう。「日本で食べたのはこんな食感じゃなかったぞ」的な。

で、私はこの皮の部分は極力落として料理をするのだが、落とした皮はそれだけをフライパンでカリカリになるまで熱する。それが美味い。

2012/04/01

個人的なお知らせ

協力隊ブログとして書いているこのブログであるが、今日は個人的なことを発表させていただく。

私、結婚をすることになりました。

相手は、キルギスで知り合ったキルギス人の女性。

詳細は書かぬが、とりあえずのお知らせということでブログ上で発表させていただいた。