2011/01/31

大人が言っていたこと

1月が終わる。「もう一年の12分の1が終わりです」「時が経つのは速いですねぇ」というテレビキャスターが言うようなお決まりの文句は言いたくないと思いつつも、確かに実感として、新年の花火が打ち上げられるのを見てからのこの1ヶ月間は「気づいたら終わっていた」という感じである。

よく子供の時分は時間が経つのが遅く感じられ、歳を取るに連れ時間の流れが速く感じられるようになると言われる。時計の秒針がチッチッときざむ物理的な時間の流れは一定だが、それとは別に心理的な時間の流れがあるという。

自分が子供の頃は、そういう話を大人がしているのを聞いても、「そんな不思議なことがあるものかしら」「自分はそう感じないかもしれないぞ」などと思ったものだが、この歳になってみると、確かにそんな風に月日時間は過ぎていくようだ。大人から言い聞かされて来たことが刷り込まれて、そういう目で見ているからかも知れないが、それだけでもないように思う。実感がある。

大体において、幼少時に大人から聞いた話というのはこんな風である。その時は意味が分からないのだが、歳を取ると「あっ、このことを言っていたのかも」とポンと膝を打ちたくなるような場面・心情に遭遇する。きっと、私にそういう話を語った両親・祖父母・親戚・その他の大人達も、そのまた上の大人達から同じような話を聞いていたはずである。

子供の時にはどんなに背伸びをしても分からなかったことが、大人になると実感として分かる。これは歳を取ることの最大の愉悦ではなかろうか?

美容エステ、サプリメント、運動器具を売らんとする「アンチエイジング・コマーシャリズム」では、歳を取ることの効能・長所が語られることは絶対にないが、我々はもっと老いるメリットを語らなくちゃならんのじゃないですかな? だって、みんな生きてりゃ歳を取るんだから、なんか楽しみを見つけましょうや。

2011/01/30

テレビに砂嵐が吹いていた頃(嗚呼、アナログ放送!)

今年(2011年)は、日本のテレビ放送が完全地上デジタル化される。確か7月だったはず。あいにく私の帰国予定は来年なので、その日を日本で迎えることができない。残念である。何が残念かというと、完全デジタル化になる瞬間、つまりアナログ放送が終了する瞬間に、アナログ放送がどうなるかを見られないからだ。いずこの誰かが、その模様をYoutubeにでもアップしてくれるのを期待しよう。

つい10年前、いやひょっとしたら5~6年前までは、アナログ放送が当たり前だった。デジタル放送なんていうのは実験的に放送されているだけで、受信機能のついたテレビは高かったから、どの家でもあるというものではなかった。

アナログ放送とデジタル放送で大きく違うと思うのは、電波が弱い時の画面の映り方である。アナログ電波の場合、電波が弱いと画面にノイズが入ったり、あるいは「ゴースト」と呼ばれるように映像がダブって見えたりする。ノイズやゴーストはあっても、画面には何かが映っていた。デジタルの場合、一定以上の電波強度がないと「信号を受信できません」みたいなメッセージが出て、それ以外に面には何も映らない。

今、私がホームステイでお世話になっている家にもテレビがあり、たまに家族の人たちと一緒にテレビを見ることがあるが、キルギスは(当然といえば当然な気がするが)まだアナログ放送である。しかもここは田舎村なので、チャンネルによっては電波が弱くてノイズがたくさん入っている。

それでも、ここの人たちはそういう番組を見ている。時には、ザァザァの白黒状態の画像でも、1時間半程度の映画をそれで見ている。いやぁ、ちょっと私には考えられない忍耐力。

昔のテレビ放送では、放送時間が終了すると、(おそらく電波出力がなくなって)画面は灰色のなかに黒や白の粒子がうごめくものになったものだ。私の周りではこれを「砂嵐」と呼んでいた。多分、全国的にそういう呼び方だったんではないか?

キルギスのテレビを見ていると、そういう昔の日本のテレビ放送が思い出される。別に、『夕日の三丁目』というほどの昭和の昔の話ではないのである。平成の世の話なのだが、もう昔話に変わっている。

砂嵐の中にかろうじて映る番組も、それはそれで忍耐試しのような楽しさがあった(当時はそんなことは思わなかったけど)。室内アンテナを回したり、持ち上げたり…。完全地デジ化になるとそんな話はなくなるんだねぇ…。

念のために付記しておくと、デジタル化することで、使用する電波帯域をアナログ放送よりも節約でき、その余剰分を他の目的に使えるのだというから、デジタル化自体は結構な話だと思っている(総務省の宣伝を鵜呑みにし過ぎかしら?)。

村の人たちは、今日も砂嵐に遭いつつも番組を楽しんでいる。

2011/01/29

買い物楽し也

ホームステイ先のホストマザーが用事で数日家を空ける時があり、そういう時は自炊をすることになる。

こちらの食材の扱いに慣れていないので、作ってみて自分でがっかりすることもしばしばだが、それもやってみて分かることだから、楽しい経験に入る。

楽しいのは作ることだけではなく、食材を買うところから始まる。普段、ホストマザーがいる時は、全部お任せで作ってもらっているので、自分で買い物をする機会がない。自炊の時は、家にある物を使ってよいと言われているが、あえて自分で買いに行くこともある。

キルギスの協力隊は、都市部の隊員はアパート(日本でいうマンション並みの部屋)で独り暮らし、地方(田舎)隊員は現地の家庭にホームステイで暮らしている。地方では手頃なアパート物件が少ないのと、安全対策のためにも独り暮らしよりもホームステイを優先させているらしい。

独り暮らし、ホームステイ、それぞれに隊員生活における一長一短はあるのだが、ホームステイをしている私にとっては、買い物をする機会が少ないのはデメリットだと感じることがある。

独り暮らし隊員は、日常の生活物資を自分で買わなければならない。食材、トイレットペーパー、等々。そうすると、この国の物価がどの程度のものなのか、肌感覚で把握できる。

一方、ホームステイ組は、もちろん買い物が禁じられている訳ではないが、人様のお宅にいるのに、自分だけ好きな物を買いまくるのは控えざるを得ない。正直な所、この国でトイレットペーパーがいくらで売られているのか、私は知らない。買うことがないから、関心がそこに向かないのである。

ステイ先の家族が家を留守にすると、食事を作ってもらえなくなり、おいしい手料理を食べられなくなるのは痛手なのだが、自炊のために食材を買う機会ができるのは嬉しい。そういう機会に、インスタントラーメン1袋がいくらかとか、キャベツ1玉はいくらかということを知るのである。

値段を円に換算してみて、「へぇ、だいたい日本と同じ程度だな」とか「えっ! こんなに安いの?」とか、あるいは「日本円では安いけれど、キルギスの他の物の物価と比較したら高いでねぇのけ?」と感心したり驚いたり考察したり…。

買い物は、その国を知るよい機会になるから楽しい。

2011/01/28

こぼれ話 (お茶の話⑤)

こちらの人が飲むのは、日本語で「紅茶」と呼んでいるお茶。ロシア語だとчёрный чай(黒いお茶)である。キルギス語でもロシア語を流用して使っている。

日本人が飲む緑茶は、зелёный чай(緑のお茶)で同じ。

こちらの人はお茶に、(日本人から見ると)大量の砂糖を加えて飲むのが普通である。マレーシア人も同じだった。マレーシアでは、茶には最初から砂糖が入れられているものだったが、キルギスでは各人で好みの量をとって入れる。

とにかく砂糖は多い。小さじに山盛りで2杯は普通。3杯目を入れて、「3杯も入れるの?」と思っていると、4杯まで入れている人を見たこともある(職場の人)。話ながらやっているから、自分が何杯入れたか忘れていたのだろうか。

他の国の隊員も、お茶に関しては色々とカルチャーショックを受けるものらしい。もっとも代表的なのが、上に書いた「大量の砂糖投入」。そして、私には経験がないのだが、「砂糖以外のものを入れる」というパターンもある。モンゴルではお茶に山羊の乳と塩を入れて飲むと聞いた気がする。南アジアのほうではバター茶なるものがあるとか。

そうそう、マレーシアでは紅茶にコンデンスミルクを入れて攪拌《かくはん》して飲む「テー・タリック(teh tarik)」というのがありましたな。インド系の人から伝わって、マレーシア中で飲まれている。

日本人は緑茶に何にも入れないのが普通だから、他の文化圏の人たちの飲み方には驚かされる。緑茶って、何かを混ぜるのに合わないのだろうと思うが、どっこい、マレーシアでは緑茶にも砂糖を入れて飲んでいた。キルギスでも緑茶レモンティーが売られている(砂糖入り)。最初の頃は、結構がっかりしたものだが、慣れるとそういう味を欲するようになってくるから、人間の好みなんてものは環境によってどうとでも変わるもんなんでしょう。

(タイトル、お茶だけにこぼれるという洒落だが、分かってもらえたかどうか…。)

宵越しの茶 (お茶の話④)

確か「宵越しの茶は姑に飲ませるな」とか、いや「姑に飲ませろ」とかいう俗諺《ぞくげん》があったはず。

一晩おいた茶は体に悪いから大事な姑には飲ませるな、または逆に、憎い姑に飲ませろという意味だったと思う。

どうやら、一度湯に浸された茶葉は、表面の膜か何かが壊れて、中から人間にとっては毒になる物質が出てしまうらしい。また、水分を得ることによって腐敗が始まるから、それも体に良くないのだとか。そんな話を前に聞いて、なるほどと思ったものだ。

そうしてみると、前回に書いたように、茶を作り置きして、それを薄めながら飲んでいるキルギス流の茶の飲み方はどうなるのだという疑問が起こる(実は、この国に来た当初から思っていた)。

ひょっとして、時々腹具合がゆるくなるのは茶のせいもあるのではないか、と思うこともある(ただし、特定はできない。他にも思い当たる食品が複数あるから…)。

冬場は寒いから腐敗の進み方が遅いのかしらん?

まあ、極端なほど何日も置いている訳ではないのだが、茶葉は使い切りで飲むものと思っていた私にとっては、お湯を足しては徹底的に使い回すキルギス茶道はなかなか凄いと思っているのだ。

2011/01/27

キルギス茶道 (お茶の話③)

「茶道」なんて書くと、日本の茶道を修行している人からはお叱りがあるかも知れないが、要はキルギス人のお茶の飲み方についての話である。

чайнек

キルギス人の家庭のテーブルには、上の写真のような小さなポットがある。これで茶を入れる。

中に茶葉を入れる。その後、熱湯を注ぎ入れるのであるが、湯量は少ないのである。少な目の湯で茶を出し、それをカップに少量注ぎ、最後に白湯を足してちょうど良い濃さに薄めるのである。

日本だったら、急須の中で茶の濃さを調整するのが普通だと思うので、キルギスの茶の入れ方に最初は驚いた。

ポットの中の茶(濃いやつ。「原液」と言えばよいのか…)は、一回のティータイム、食事で使い切らなければ、そのままにしておいて次にまた使う。こちらでは、茶の「原液」に熱湯を足して濃さを調整するから、飲む時はいつも熱いのをいただけるわけだ。日本人の作法ではそうはいかない。

キルギス流の茶の入れ方だと、同じ量の茶葉を使っても、日本流よりもたくさんのカップ分の茶をいれることができる。薄めながら飲むし、同じ茶葉を長く使うから。これはこれで節約の知恵だと思うのだが、問題もある。

茶の香りがあんまりしないのである。

まあ、香りについては、使っている茶葉の種類にもよるのかも知れないが、たまに香りの良いお茶に出会うと、普段飲んでいる茶には香りがないことに気づくのである。私などは、平生は茶の香りなどは気にしないで飲んでいるが、たまに香りのよい茶を出されると、そのよさが分かる。

2011/01/26

お茶に招く・招かれる (お茶の話②)

私は協力隊でマレーシアに派遣されたことがあり、今はキルギスに派遣されている。この両国の人々を接して思うのは、彼らは客人のもてなしがうまいこと。

他の国へ派遣されている(もしくは、されていた)協力隊仲間の話を聞くと、どうも多くの国でそういう印象を協力隊員は持っているようだ。

キルギスでよく経験するのは、一度目は招待されてお宅にお邪魔する。例えば職場の同僚が昼食時に家に招いてくれる。その時に「これからはいつでもうちに寄ってくれよな。オレがいない時でもいいんだよ」と言ってくれる。

私は日本人だから、当人から招待がかかっていない時に、事前の連絡もなしにいきなり訪問するなんてことはできない(と、思っている)。ゆえにその後は相手の家に行くこともなく何日かが過ぎるのだが、そうするとそのうちに「おい、何でうちに来ないんだ? いつでも来いっていっただろ」と言われる。

ここが日本人的感覚と大きく違うと、私が思うところだ。

実際、おそるおそる、連絡なしで知人宅を訪問したこともある。そういう時でも嫌な顔せず、家内にあげてくれお茶を出してくれる。いや、お茶だけではない。大抵は、パンなどの軽食がテーブルにあるからそれをもらう。

聞いたところでは、キルギス人は、訪問客にはパンを出すという民族的な風習があるそうだ。確かに、ちょっと伝言程度に寄った家でも「パンを食べてから帰って」と言われることが度々ある。訪問者にはパンを出すのが礼儀ということらしい。

一方、急いでいる場合(という状況はあんまりないと思うが)でも、皿の上のパンをひとちぎりして、それを食べるのが訪問者側の礼儀でもある。

この辺のやり取りは、形式的にやっているところも見て取れるのであるが、遊牧生活を主としていたキルギス人にとって、食料調達の店など何もない山岳・草原を移動する来訪者に食事と飲み物を与えるのは、相互扶助的な意味合いがあったのではないかと想像するのである。

2011/01/25

「お茶」という言葉 (お茶の話①)

「茶」というのは、世界共通の唯一の単語であると聞いたことがある。

私が知っている範囲で言えば、中国語の「茶(【チャ】と発音するのかな?)」、日本語の「お茶(ちゃ)」、英語の「tea(ティー)」、マレー語の「teh(テー)」、そしてロシア語・キルギス語は共通で「чай(チャイ)」。

「なんだ違うじゃないか」と言うなかれ。もっと狭い地域でだって方言による名称の変化が起こるのだから、全世界レベル・全言語レベル(って、上記には五つの例だけだが)でこの範囲での「方言化」でおさまっているのだから、私はすごいと思う。

どうやらルーツは中国で、茶葉を発酵させて湯を注いで飲んでいたものが、シルクロードの貿易を通じて世界各地に伝播していったものらしい。その際、「茶」という名前もそのまま輸出されたのだろう。

キルギスの人々も茶をよく飲む。机の上には常時、茶飲み道具が出されていて、家人は朝、10時、昼、15時、夕、夜というくらいの感じでお茶の時間をとっている(それぞれの家庭にもよるだろうけどね)。

客人があれば、もちろん茶でもてなす。「お茶飲んで行きなさいよ」と勧めるのは、すべての文化圏で共通の客へのもてなしの言葉なのではないか? ま、日本ではその言葉を真に受けてお邪魔するのは失礼になるという、ひねくれた作法もあるようで、私などは困惑してしまうのであるけれど。

2011/01/24

キルギスの乗り物 「マルシュルトカ」

久しぶりの動画アップ(動画は容量が大きいので大変なのである。日本の恵まれた環境でネットをしている皆さんにはご容赦願う)。

キルギスの交通手段の中心は車である。その中の一つ「маршрутка(マルシュルートカ)」は、自家用車のない国民の日常の足として、広く利用されている。

「маршрут(マルシュルート)」が英語の「route(進路、路線)」にあたる言葉で、それに指小《ししょう》の接尾辞「-ка」がついて、定路運行のミニバスの愛称となっている。私は、最初この言葉はキルギス国内の愛称だと思っていたが、ロシア語辞書にも載っているから、ロシアから入ってきた言葉であろう。

アップした動画は、昨夏、首都ビシュケクの近郊で撮影したもの。今見ると、みんな半袖なのが懐かしい。

2011/01/23

お上りさん

「お上《のぼ》りさん」という言葉を知ったのはいつぐらいの頃だったろうか。

田舎の人が華やかな都会の街に出ることを揶揄《やゆ》した言葉だ。場合によっては侮蔑的なニュアンスが含まれることもある。

今週は、健康診断のために首都を訪れた。2ヶ月ぶりの首都。

途上国といえども、首都は高層ビルが建っていて、店も多い。村では売っていない物もたくさん並んでいる。そういう光景を眺めていると、「ビシュケク(キルギスの首都)はすげぇなあ」という台詞が口をついて出てしまう。

車の交通量も格段の差。村では信号機がないから、信号機のある交差点では戸惑ってしまう。村であれば車が来ていなければ渡るのがルール。首都では信号に従って渡るのがルール。考え事などしてボーッと歩いていると、信号機を見ずに渡ろうとしてしまうことがある。

村での生活が半年になる私は、ビシュケクに来ると人、車、店、物の多さに戸惑い、そして、村にはない物が食べられ、買えるのではしゃいでしまうこともある。お上りさんですな。

2011/01/22

歓送迎会 → 二日酔い

協力隊は1年に4回の時期に分かれて、各国に派遣されていく。平成22年度の3次隊が1月に到着し、昨夜はその歓迎会。同時に任期が終わって、キルギスを去る人の送別会も。

1年に4回だから、3ヶ月ごとに新隊員が来て、任期終了隊員が帰って行く。3ヶ月ごとに区切られているので、歓送迎会を繰り返しながら月日が過ぎていることを感じる。昨日のは、私がキルギスに来てから、自分が迎えられたのを除くと2回目の歓送迎会だったから、私たち22年度1次隊が来てから6ヶ月が過ぎたということだ。

昨日は歓送迎会と、2次会のカラオケで飲んでだいぶ酔った。本日二日酔い。自分より十も若い人たちから「いい歳して、あんな飲み方をして…。ちょっと考えなくちゃだめですよ!」と注意をされる体たらく。

「いい歳をして」と言われるが、歳をとるほど飲み方も悪くなってるかも。皆さん、今後もご迷惑おかけします。

2011/01/21

枯れてはいない

私がキルギスに来たのは7月末で、夏の真っ盛り。植物は青々と息吹いていた。

10月ごろから事前に聞いていた通りに、気温が下がり始め、秋から冬へと季節は変わっていった。

日本でもよく見る光景だが、秋になると広葉樹の多くは葉を落とす。そういう葉っぱが道を覆っている。

leaves

秋から冬にかけて、広葉樹が葉を落とすのを見て、私は「木が枯れた」という言葉を使っていた。しかし、ホームステイしている家の庭の木を間近《まぢか》で見ていたら、葉のついていない枝に小さな蕾《つぼみ》がついているのに気づいた。

tsubomi

葉が落ちても、木は枯れているわけではないのだ。おそらく、陽射しが弱く、寒さが強い冬に、樹木自身が生き延びるために葉を落としているのだろう。

そんなこと、昨日今日にはじまったことではないのだから、これまでの人生でだって気づくことはできたはずなのに、そもそも木をまじまじと見ることがなかったのだと思う。

そのことに気づかされた、庭の木の小さな蕾である。

2011/01/20

Ягнята родились

Семья, с которым я живу, выкормит бараны. В конеце года нисколько овцы родили ягнята.

Жаль я не мог смотреть момент, который овца родила, но я фотографировал ягнята.hitsuji

2011/01/19

マレーシアでの蚊との攻防戦 ④ (室内編)

「寝てる時に蚊がブゥゥンて来るの、嫌だよね」という話をマレーシア人にしたら、マレーシア人の知恵を教えてくれた。

寝ている時の蚊が嫌なら、①電灯を付けたまま寝る、②キパスを回したまま寝る、とよいという話だった。

電灯をつけておくというのは、明るい所では活動しない蚊の性質に合致する。電気代がもったいないのと、明るいと寝られないという人には不向きであるが、私は何度かこれで蚊の羽音から逃れることができた。

「キパス」とは、マレー語で「扇風機」のこと。冷房はどの家にもあるという物ではないが、キパスはどの家にも必ずあった。特に、天井に備え付けられているキパスは、日本人の私にとっては、なんか南国のゴージャス感があって好きだった(私の家にはなかったが)。

キパスを回しておくのは、風を送ることで蚊が寄って来づらくするためだ。これもよく使った手である。なにより、夜も暑い国だったから、キパスを回すのは暑さ対策にもなるのであった。

同期隊員の一人は、天井キパスが付いている部屋に住んでいたが、夜、回していたキパスが外れて、寝ている所へ落ちてきたと言っていた。ブーメランみたいな物が飛んで来るんだから、一歩間違えば大けが、あるいはそれ以上のことにもなりかねない話だった。

そういう話を茶飲み話のように話すところが、いかにも協力隊員なのであった。

(「マレーシアでの蚊との攻防戦」シリーズ、終了)

2011/01/18

マレーシアでの蚊との攻防戦 ③ (室内編)

マレーシアでは、私は家を借りて一人暮らしをしていた。マレーシア隊員のほとんどは一人暮らしだった。今もそうかどうかは分からないが、キルギス隊員は半数以上がホームステイ暮らしだから、派遣国によって隊員生活も色々であることがわかる。

私の借りた家は、窓に網戸が付いていたので、それでだいぶ蚊の侵入は防げていたが、それでもゼロというわけにはいかない。出入りの際のドアの開け閉めでも入ってくる。蠅も同様。

蚊は暗くなると活発になる性質があるので、日があるうちは飛び回ってはいない。薄暗くなり始めるとともに動き出す。

また、色が黒いっぽい物に寄っていく性質もある。これらの性質は、蚊が外敵から見つかりにくくするために獲得したものだと思う。ある時、あかるい部屋の中で黒っぽいかばんを見たら、そこに蚊が何匹もじっと止まっていたので、この性質を確認できた。

つまり、彼らは電灯を付けているうちはじっと待機していて、消灯して暗くなるとやる気を出すようにできているのだ。

そんなふうに室内に入ってしまった蚊への対策として、私が先輩隊員から聞いて実践していたのは、たとえば、朝の出勤時に、殺虫スプレーを部屋に撒いて家を出るのである。あるいは、寝室にも寝る3時間くらい前にスプレーをしておく。これで室内の蚊・蠅は駆除していた。

マレーシアにも蚊取り線香があり、寝室で焚いて寝たことがあるが、煙くて喉を痛めるのと、服に煙のにおいが染み付くので数回でやめた。

殺虫スプレーは自分が家・部屋を空けているいる時に撒かなくてはいけない。でなければ自分も殺虫剤を吸い込んでしまう。一吹き、二吹きで部屋の蚊を一掃してしまう強さだから、どれほど強い殺虫力なのかと思う。そういうのを吸ったらどうなるのか心配になって、現地の医師に「殺虫剤って吸い込んでも大丈夫なものですか?」と尋ねたら、殺虫スプレーを故意に吸って自殺する人もいるくらいだから、吸わないように気を付けなさいと言われた。この話は妙にリアルで驚きがあった。

マレーシアで覚えた殺虫スプレー作戦は、帰国後に日本でも使っていた。今年の夏はキルギスでも使うことになるだろう(スプレーは既に購入済み)。

2011/01/17

マレーシアでの蚊との攻防戦 ② (屋外編)

蚊の発生を抑えるために、地域全体に殺虫剤を撒くのはケミカルなやり方だが、もっとローテクで地道なやり方もあった。

草刈りである。

熱帯では、放っておいたらどんどん草が伸びる。「伸びる」だけでは言い足らない。「のび~る、のび~る」とストレッチマンがストレッチパワーを溜める時のかけ声のように、とにかく伸びる。

草がほうぼうから伸びて藪になると、そこが蚊の棲息場所になるので、草を刈って蚊が住めなくするわけだ。

草刈りの仕事は、おそらく低賃金労働だと思う。金属の棒の先に、ひも状のプラスチックがついていて、それがモーターで勢いよく回る。その勢いで草をバシッバシッとちぎっていく。炎天下だから、立っているだけでも体力は消耗する。そういう中で黙々と作業をしている男達をよく見かけた。

草刈りをするのは町だけである。町だってすべてをカバーできるわけではない。町から離れたら、道の両脇は熱帯の木・草が生い茂っていて、ひもプラスチックの草刈り機で太刀打ちできるものではない。当然、そういう所は人口密度も低いから、マラリヤなどが伝染する率も低い。とんとん、というところか。

jungle

2011/01/16

マレーシアでの蚊との攻防戦 ① (屋外編)

マレーシアは熱帯の国で、日本人から見れば年中夏みたいな所だった(「だった」というのは、私はかつて住んでいたが、今は住んでいないから)。

年中暑い所では、蚊も年中活動している。マレーシアに限らず、ある範囲内の緯度の地域では、蚊が媒介する病気がいくつもあって、そういう地域へ行く協力隊員は、蚊に刺されないよう特に説明と注意を受けるのである。

蚊が媒介する病気の代表はデング熱、マラリヤなどで、熱帯地域ではそれらの病気で死ぬ人が毎年必ず出ている。だから、国や自治体としても、蚊の駆除の施策をとらなければならないことになる。

マレーシアでは、急に家の外に真っ白な煙が立ちこめることがあった。その地域に殺虫剤を一斉散布していたのである。予告なく始まるので、気づくのが遅れて窓を閉め損なうと、殺虫剤の煙が屋内にも入ってきて、人間様も殺虫煙を吸わされるはめになるのであった。

この、地域一斉殺虫剤散布の光景は、シンガポールに行った時にも同じようなのを見た。赤道近辺の他の国ではどうなのだろうか? 蚊を駆除しようというのは分かるのだが、あんなに殺虫剤を撒《ま》いて、人の健康への影響はないものかと思ったものだ。

2011/01/15

寒さにもメリットがある

冬至が過ぎて、心なしか、日の出時間が早くなってきたような、そして日暮れも遅くなってきたような気がする。とはいうものの、7時半の目覚ましで起きる時分は、まだ外は薄暗い。

そして季節はあいかわらず冬で、毎日氷点下まで下がる寒さだ。

「あぁ、毎日寒くて外に出るのが億劫だな~」と思うのだが、こんな寒い冬にも寒さゆえのメリットもあることに気づいた。

冬は蚊や蠅《はえ》がいない!

私にとって蚊の何が嫌と言えば、足の指・裏のような所に、掻いても掻いても掻き足りなく痒みをもたらすことと同じくらいに、あの羽音が嫌なのである。

熱くて寝苦しい夜に、やっとウトウトと眠りに入ったかなという頃合いになって、(決まってその頃合いだ!)、「ゥゥゥン」という音がし始める。多分、空気の動きとかに反応して、動きが静まったら飛び始めるというメカニズムを持っているんだろうけど、こちらにとってはせっかくの寝入り端《ばな》を邪魔されるので、本当に鬱陶《うっとう》しい。

蠅は血を吸って痒くさせはしないが、蚊と同様にブンブン飛び回る羽音がいやらしい。

その蚊・蠅が姿を消すのは、冬の寒さのおかげだ。

春になればまた蚊も蠅も活動をし始めて、睡眠を巡る攻防戦が始まるのだ。またあのうるささに悩まされるのか…。

ここで思い出したのだが、「うるさい」を漢字で書くと「五月蠅い」だ。どうやら日本語独自の当て字のようだ。「暖かくなる五月ごろからブンブン耳障りな蠅」を、この形容詞の中に使うとは、なんという言葉の知恵!

冬に蠅がいなくなることなんて、日本人はとっくに知っていたっちゅうことですな。

2011/01/14

子羊が生まれていた

年末から年始にかけて、ホームステイ先で飼育している羊が出産をしていた。出産のその瞬間は見ていない。気づいたら小屋に子羊がいた。

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その後も出産があったらしく、私が最初に気づいた後も2頭増えていた。

羊は白いものとばかり思っていたが、茶色のもいることをキルギスに来てから知った。ただ、茶色の羊も生まれた時は黒であるようだ。

白いのは生まれた時も白い。

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2011/01/13

全国の「伊達直人」さん!

2011年、年始めに連日報道されている「伊達直人」ニュース。

いい話だと思う。最初の「伊達直人」の行動力は立派だと思うし、その後の「伊達直人」も立派だと思う。

「一体、伊達直人が何人いるのか」というような、無粋な話はやめて、全国の「伊達直人」さんに感謝。目立たなくても、自分の善意を形にしたいという人がいるという事実が、我々の「人の世への希望」を支えてくれたような気がするのだ。

この話と子ども手当てを関連付けて、現政権の政策について話すのもありだろうが、このブログは政治批評のものでないからやめておく。

ところで、今回のニュースで「タイガーマスク」とか「伊達直人」という名前を聞いて、それを漫画の主人公としてわかっていたのは、どれくらいの世代以上だったのだろう? 私は小学生の頃、再放送されていたのを覚えているが、それより下の世代はどうなのか。

漫画の主人公としてよりも、プロレスラーとして「タイガーマスク」に馴染んでいる人たちもいるだろうと思う。

知らない人の中には、「漫画の主人公なのだから、さぞ華やかなヒーローだったに違いない」と想像する人もいるかも知れないが、私のおぼろげな記憶では、漫画『タイガーマスク』はそんなに明るい話ではなかった。

主人公は、なんだか理不尽な理由で命を狙われている。そもそも、彼の出自からして影がある。プロレスラーとしては子供たちのヒーローだが、覆面を脱いだ彼は疎まれる存在である。設定が凄い…。原作、梶原一騎。

この話の結末、(っきりとは覚えていないが、)悲しい終わり方だったはず。もう一度あの漫画を読んでみたくなった。今回のニュースの盛り上がりで、Gyaoあたりでネット配信するかな?

今回も話が脱線したが、あらためて、全国の「伊達直人」さんたち、ありがとう。

2011/01/12

現地の人は年上に見える ③

(現地の人が年上に見える話の3回目)

現地の人が、私よりも若いのに年上に見えることのもう一つの理由として、お肌の問題があるように思う。

こちらの人の手を見ると、がさついていて、皺《しわ》が多い。私よりも年下の女性でも手肌を見ると、私よりも歳を取っているような手をしている。

これはスキンケア用品がない、あっても高価なので一般的には使われない、という背景があるのかも知れない。その辺については、私は男であるし、男の中でも無頓着なほうに入るようだから、なおのことよく分からない。

スキンケア用品以外にも、ここは一年中気候が乾燥していることも大きいような気がする。一ト月も雨が降らないような所だ。そういう所で何十年も暮らしているのだから、肌の傷みも速いのではないだろうか。

ちなみに、マレーシアにいた時にも、現地の人の肌は日本人よりも皺が多いと感じた。その時に思ったのは、彼の地は赤道上にあって、陽射し年がら年中強いので、紫外線による影響であろう、と。

彼らの手肌ががさついているのは、おそらく上記の理由だけではない。彼らの日常生活に必要な所作をする結果として、どうしても手が荒れるのである。羊の世話をする、薪を割る、ペチカを炊く、野菜を栽培する、などは「手が荒れるからやらな~い」と言えない生活で必要欠くべからず所作なのである。そいう意味で、彼らの手が荒れているのは、自分たちの生活に必要なものを自分で作っているという証とも言える。

そういえば、トルストイの『イワンの馬鹿』(原題:Сказка О Иван-Дураке)にこんな一節があった。

唖娘は今までに、たびたびなまけ者にだまされていました。そんな者に限って、ろくすっぽ受持の仕事はしないで、誰よりも食事に早くやって来て、おまけに人の分まで平らげてしまうのでした。そこで娘は手を見て、なまけ者を見分けることにしました。ごつごつした硬い手の人はすぐテイブルにつかせましたが、そうでない人は、食べ残しのものしかくれてやりませんでした。(菊池寛訳)

私の手では、食事の順番が後《あと》になってしまいそうだ…。

2011/01/11

「1」並びの記念に

記念のための投稿。それ以上の意味はないので、あしからず…。

次は2011年11月11日。

平成22年2月2日、同22日。

誕生日とか、新年とか、(私には関係ないが)結婚記念日とか、毎年繰り返されるようなものには興が乗らない私であるが、数字が規則性をもって並ぶ日には、なぜかドキドキわくわくする。

そういう日にしたって、人為的に定められた暦の上での話であって、自然界に「2011年」なんてものがあるわけじゃない。しかし、「時間は二度と繰り返されない」というのを体現している感じがある。そこが私にとってはいいのかもね。

同じ数字が並ぶという以外にも、

1987年6月5日4時32分

というのもあった。こういう並びだと、今後は

2109年8月7日6時54分3秒 (←「3秒」って強引?)

2198年7月6日5時43分

2345年6月7日8時9分1秒 (←また「1秒」って!)

このブログを書いている私にも、読んでいる方々にも関係のない頃の話かな…。今回は「暦」の話なので、カテゴリは「天文」に入れることにする。

あ、そう言えば、2011年1月1日のことは忘れてた!

現地の人は年上に見える ②

(現地の人が、実際は自分より年下なのに、年上に見えてしまう話の続き)

こちらの男子であれば、小学高学年くらいまでには、当たり前に薪を割る、羊を追う(牧場に連れて行き、また戻す)ができるようになっているし、成人男性であれば羊を屠《ほふ》ることもできる。

私はどれも満足にできない。薪割りは「お手伝い体験」程度にはやったが、羊追い、屠殺に関してはやったことがない。屠殺は宗教的儀礼の一つだから、私がイスラム教徒にならない限り、やることはないだろう。

現地の人から見れば「あんた、いい歳こいて、そんなこともできんのかぁ」となるんではなかろうか?

立場が逆になることもある。例えばパソコン操作。こっちの人で、Amazonで本を注文して買うなんてできる人はほとんどいないはずだ。そもそもAmazonがキルギスではサービスをしていないという悲しい現実がある。 Windowsの基本的な操作でも、私に尋ねてくることがある。

食洗機(=食器洗浄器)の操作はどうだ? これもできないだろう。食洗機自体がないから、経験する機会がない。他にもあるだろうか。にわかには思いつかないのだが、結構意外なところで、「え、こんなことができないの?」ということがあるはずだ。これはお互いにそうなのだ。

異文化で育った者同士の接触時には、自分の文化では成人ができて然るべきことが、相手の文化の成人ができないと、相手の文化を幼く感じてしまうそうだ。以前、異文化コミュニケーションに関する本で読んだことだ。

薪割りなんかは技術的なことだが、それ以外に社会ルール的なことなんかもある。例えば、日本では電車を待つ際はホームに列を作って並ぶのが「当たり前」である。守らぬ輩もいるが、日本という文化圏において、そのルールを体得できていないというのは(そのルールが不合理なものでない限り)、社会生活を送る上では問題ありの人物である。銀行などの窓口でも順番を守るのは、日本なら当たり前のこととしてみんなやっている()。

社会ルールだけではない。人生の主要なイベントの経験時期というのも、文化によってことなる。例えば初性交の経験年齢。「え~、○○歳なのにまだなのぉ~、ウソ~」みたいに言うあれである。仮にA文化での初性交の平均年齢が20歳だとして、そこにB文化からきた人が25歳で性交経験がなかったとしたら、「遅れてる」とか「かわいそう」(?)みたいな反応になるのじゃないか。

結婚なんていうのも同様だ。日本では「晩婚化」で、30代で結婚していない人はいくらでもいて珍しくもないが、協力隊が派遣されている国・地域のほとんどすべてで人々は「早婚」である。女性であれば18歳あたりで結婚するのは珍しくない。私くらいの年齢なら、孫がいてもおかしくない。

そんなわけだから、「結婚していない」という一点においても、こちらの人たちにしてみれば「独身と言うんだから20代、行っていたとしても30歳くらいだろう」と先入観をもって私を見る。私にしても「孫がいるんだから50半ばくらいだろう」と先入観を持つ。そして、互いに同《おな》い年だと知って驚くのである。(このネタ、さらに続く)

ついでだから書いておくが、「列を作って待つ」というのは日本人の美徳の一つだと確信をもって私は言う。日本を訪れる多くの外国人が、駅のホームで、銀行窓口で、エレベーターで、列を作り順番を守る日本人の行動を見て感動するのである。そしてこのことだけでも日本人は尊敬されているのであることを忘れるべきではない。(本文に戻る

2011/01/10

現地の人は年上に見える ①

私が今住んでいるホームステイ先には26歳の息子さんがいる。

私から見れば十以上も年下である。自分の26歳の頃を思い出せば、世の中の右も左も分からぬくせに、妙に知ったかぶりはするという生意気盛りだった(「今も生意気だ」と言われるかも知れぬが)。

しかし、そんなに年下の彼であるが、心理的には私よりも年上に感じるのである。

これは、一つには自分の言葉の習熟が不足しているせいで、周りの人々がみな、私の知らない単語を連発するから、大人びたことを言っているように感じるのであろう。

同時に向こうも、言葉の伝わらない私に対しては、時として子供に言い聞かせるように話すから、そのことでも心理的には「自分は子供だ」と思ってしまうのかも知れぬ。

私は、知的障害者福祉分野で仕事をしてきたが、この仕事の対象となる人たちは知的障害があるゆえに、これと同じように接してしまうことがままある(あった)。施設ではよく問題になるのだが、中年になった人を「○○ちゃん」とちゃん付けで呼んでいるスタッフがたまにいる。

これは、その相手の知的発達に障害があるから子供っぽく見えてしまうという、スタッフ側の心理が大きく影響していると思う。しかし、40、50になったおじさん、おばさんを「ちゃん」で呼ぶのは、やはりおかしいことだ。自戒も込めつつ。

現地人が年上に見える話から脱線した。(以下、次回)

2011/01/09

美味なる物は甘い

キルギス語の形容詞で「美味しい」は【даамдуу(ダームドゥー)】と言う。【даам(ダーム,「味」)】を形容詞化して「味がある = 美味しい」となる。ちなみに、これはロシア語でも同様で【вкус(フクース,「味」)】を形容詞化すると【вкусный】で「美味しい」となる。

日本語で「味がある」とか「味な~」と言うと、ちょっとニュアンスが違う。「あの役者はなかなか味がある」、「味なことをいう奴だ」みたいな、一種独特の存在感のある人物・言動に対しての形容として使う。食事をもてなされて、「ああ、この肉じゃがは味がありますねぇ」というのは誉め言葉にならぬ(むしろ喧嘩を売っているようなものではないか?)。

ところで、キルギス語では上記の【даамдуу(ダームドゥー)】の他に、【татуу(タットゥー)】というのも「美味しい」になる。これは「甘い」というのが元の意味であるが、美味しい場合にも「タットゥー」と言うのである。実際にキルギス人が話しているのを聞くと、こちらの単語のほうが使われているようにも思える(私の聞き取り力に頼った話なので、心許ないが)。

「甘い」と「美味い」を同じ言葉で表現するのは変な気もしたのだが、よくよく考えてみると、漢字の「甘」にも「あまい」と「うまい」の両方の字義がある(念のために漢和辞典で調べたので間違いない)。漢語には【甘食(かんしょく)】という「美味い物」を表す熟語があるようだ。これは初めて知った。

想像するに、その昔は甘味料というのは貴重品で、甘い物はめったに口にすることができない珍重品であったのではなかろうか。だから、甘い物は人々の憧れであり、甘い物はすなわち美味しい物と同義となったのではないか。余談だが、芥川龍之介の『芋粥』はちょうどそんな話であった。

「甘食」にはもう一つ、「食を甘し(あまし、うまし)とする」と読ませて別の意味もある。「どんな物でも美味いとして食べる」ことだそうだ。

2011/01/08

最期の晩餐に食べたい物

昔、「ニュースステーション」という娯楽趣味的報道番組のはしりの番組の中で、著名人に「あなたは人生の食事は何を食べたいですか?」と問うてインタビューするコーナーがあったと記憶している。

私が見たのは故ジャイアント馬場のインタビューで、確か彼は「母の作ったぼた餅」と答えていたのではなかったか。

日本の友人から、牡蛎の季節だというメールが来る。

こちらにいる間は日本食のことは考えぬようにしているが、牡蛎の話なぞ聞かされては、次から次へと日本の食べ物が頭に浮かんできてしまう。

酢牡蛎

豚の角煮

天そば

カツ丼

そして私にとっての極めつけは、鰻重

う~む、どれもここでは食べられぬ物ばかり。自分で自分の首をしめるようなものだ。この記事を読んでいる、現在派遣中の隊員の皆さん、こんなしょうもないこと書いて、すんまそん。帰国の日までお互いがんばりませう。

2011/01/07

2011年、年頭のご挨拶②

(年頭の挨拶の続き。自分の抱負を語っているような内容になっているな…。)

知人たちからのメールには「とにかく健康には気を付けて」と書いてもらっている。ありがたい。5年前までの私だったら、そんなのはお決まりの定型句にすぎないと、聞き流してしまっていた。自分の健康への過信があった。歳を重ねるにつれて、若さとか健康なんてのはいずれ衰退するものだと実感せざるを得ないから、定型句にしたって気遣ってくれることがありがたく感じられる(むしろ、こういうことは定型句以外では表現しようもないのかも)。

同時に私も友人・知人たちの健康を願う。私が歳をとった分、彼らも歳をとっているのに違いない。ただ、「健康」と言っても、当節流行りの「アンチ・エイジング」というのは、どうも承伏しかねる。歳をとるのは、万人が万人避けられぬことだろうに、そのことに「アンチ(=反対・対抗)」するってのはいかがなものか? 仏教徒の多いはずの日本で、こういう言葉が流行るのが不思議でならない(関西の某放送局は「アンチ・エイジング・ステーション」と自局を宣伝していたが、一体それはなんのことなの?!)。

私は今年も「アンチ『アンチ・エイジング』」で行く。歳をとって体力が衰えていくのは寂しいことだが、それは逆らえない現実として受け入れられるようになれば一番いい。ただし、友と楽しみ、他者から求められる働きができるための健康は備えておきたいものだ。

というわけで、何となく年頭の挨拶らしいことも書けたような気がするのでここまでとする。どうぞ皆さん、今年一年健康でいてください。アンチ・エイジングにはだまされないでください。そして皆さんにとって大切な人たちとの関係が良好に保たれますように。

Всё! (以上!)

2011年、年頭のご挨拶 ①

昨年暮れにブログにアップした「新年の挨拶」という記事へのアクセスが多い。

たまたま、そのブログを開いてしまった人が多いのかも知れないが、どうもタイトルから「ukuleleの奴も、これまでとは心を入れ替えて、新年の挨拶をする気になったか。どれどれひとつどんなものか読んでやろう」と思ってクリックした友人・知人が多いのではないかと察する。

ブログの内容は、キルギスでは年が替わらぬうちに「新年おめでとう」と言っているので、日本とは違う、ということを述べているだけだ。私のしおらしい(?)挨拶を期待した皆さんを裏切っていないか心配である。

それならいっそ、年頭の挨拶を書こうではないか。ということで、こういうタイトルにした(とは言うものの、ご挨拶にふさわしい台詞が思い浮かばず、今回も期待を裏切ってしまいそうである)。

来年7月まではキルギスでの生活だから、ここにいる間は少しでもキルギス語・ロシア語が上達するように努めたい。

そして、キルギスの文化もたくさん見聞したいと思う。特に楽器に関しては、今年のうちに新しく2~3種類は弾けるようになりたいと願っている。この願いは、まず楽器の入手ができるかどうかも大きな鍵となる。幸い、地元の音楽の先生に知己を得たので、楽器のことを相談できるだろう。

楽器以外にも覚えたいこと、新しく始めてみたいはたくさんある。パソコンのプログラミングとかは、何度も手を付けて、その度に挫折している。せめてVBAくらいは書けるようになりたいものだ。HTML、CSSに関しては、近々に使う必要がありそうなので、以前覚えたことを思い出しつつ、ソースを書いているところである。

ブログもほぼ一日一記事のペースでアップしているので、ネタが続く限りはこんな感じか。しかし、ブログタイトル「千 尋ねる」の1000という数字は達成できるかどうか…。毎日一記事アップしたとして、一年で365、2年で730。う~む。いっそツイッターのように細切れにしてみるか。まあ、そのうちそういうイカサマに手を染めるかも知れぬ。
(じゃあ、ここで区切りに。以下続く)

2011/01/06

天文シミュレーションソフト「Mitaka」をもう見たか?

星座のことを書いたついでに、「Mitaka」という天文シミュレーションソフトについて書いておく。

このソフトは、国立天文台が無料で提供してくれているソフト(フリーソフト)である。

半年ほど前に、ウェブ上で天体のことをお勉強できるサイトはないかとあちこち見ていたら、たまたまこのソフトのことを知ってダウンロードしてインストールした。画面の一例である。

mitaka

インストールをしたものの、このソフトを楽しむ前提となる知識がまず不足しているようで、正直、今のところ頻繁に使っている訳ではない。せめて、星座の位置くらいは覚えたいものだ。

Mitakaにはかなり色んな機能がついているようで、視座・視野を変化させたり、時間を進めたり戻したりといったことができる。例えば、時間をずっと進めたある日時の太陽系の惑星の位置を見てみる(ということを知りたい興味は今は私にはないのだけれど、こういうことに興味が尽きない人もおるはずだ)。

mitaka_11155_1_6

西暦11155年1月6日日本時間2:25の太陽系惑星の位置である。西暦11155年!! 私にしてみると、この頃に人類様が存続しているとはどうしても思われない。したがって「西暦」などいう言い方も彼の時には存在していないことになろうが、それはさておき、今から9143年後(←これだって西暦を基準にした時間だ…)の太陽系はこんな感じになっているんだと。

天文の話というのは、こういうスケールで話が進むから面白いし、時に恐怖を覚えさえする。「太陽は今から50億年後には膨張して惑星を飲み込んで、その後燃え尽きます」という話とか、私にもこのブログを読んでいる誰にも(知的興味は別にして)全く関係のない話なのに、「太陽が燃え尽きる」と聞かされると、「えぇ~、どうしよう、どうしよう!?」という気分になってしまう。

こういう面白いソフトを国立機関が作っているんだから、もっと宣伝したらよいのに…。開発するのも苦労したと思う。Mitakaを十分に使っているとは言い難い私であるが、感謝の気持ちも込めて紹介した次第。

≪Mitaka Ver.1.2.0 (←私がインストールしたバージョン)≫
国立天文台4次元デジタル宇宙プロジェクト
開発者:加藤恒彦(大阪大学/4D2U)
公式HP:http://4d2u.nao.ac.jp/html/program/mitaka/

※調べてわかったのだが、天文関係の出版物や、歌手のビデオクリップにもMitakaの映像が使われているそうだ。上記サイトに色々書かれている。

2011/01/05

月夜の晩にひらめいた

「月明かり」という日本語がある。月光が差して、夜の地上を明るく照らす様を表わす言葉である。都会ではそんな言葉は使われることはないだろう。なにせ電灯で照らされているから、月の明かりなんか意識する機会がない。

前回のブログにも書いたが、私が今いるキルギスのバコンバエバ村では、夜中は街路灯がない。こういう環境だと、日没後に月があたりを本当によく照らしてくれているのが実感される。もちろん月が出ている夜に限ってである。

半月に近づいたあたりからは、月光によって影ができるのがよく分かる。月のない夜は、夜半にトイレ通いには懐中電灯が必携品だが、月夜であればそれも不要だ(と言ってもトイレの中は暗いので懐中電灯は持っていくが)。

日本の町に住んでいては知ることのなかった「月明かり」という言葉の意味が、ここでは実感として分かる。

さて、月というのは28日周期で新月→満月→新月と変化しているはずだが、三日月、半月、満月となっていくにつれ、あたりがより明るく照らされる。そして、空を見上げると、月が明るくなるにつれ、星々が見えなくなっていく。つまり、日本で街灯りによって星が見えないのと同じ現象が起こる。

「ああ、月明かりが強くて、いつものように星が見えないなぁ」と思うのであるが、そういう中でもはっきりと輝いて見える星々がある。そう、それが星座の星たちなのである。

前回のブログにあげた疑問の答えはここにあった。古代、電灯のない時代でも、月によって光度の弱い星たちは見えなかったはずで、月明かりがマックスになる時でさえもはっきりと見える星たちを、古代人たちは星座として結んだのであろう。

神々が生活の中で息づいていた時代にあっては、他の星々が見えなくなってもなおその輝きが失われない星々は、古代人にとっては一層の神秘性を帯びていたんじゃなかろうかとも想像される。

2011/01/04

星座の星はどうやって選ばれたのか?

協力隊の多くが赴任している土地は、夜になると街灯もなく、日が沈んだ後は本当に真っ暗となる。マレーシア隊員時代は、活動地が州都で、街路灯が整備されていて、夜でも明るかった。そのため協力隊任地の中では星が見えずらい場所であった。それでも、出張などで田舎町・村に行くと、夜は文字通り「満天の星」を見ることができた。

キルギスで今いる村は街灯は中心部のごく限られたエリアのみ。星がよく見える。我が家のトイレは屋外にあるため、用を足すために1分ほど歩いて行かなければならないが、夜はその途上で星を見ながら行くのが楽しみである。

これだけ無数の星が見えると、疑問として浮かんでくるのが、「これだけの星の中から、どうやって星座の星を選んだのか?」ということである。

だって、そうではないか。北斗七星、オリオン座、カシオペア座など、天文ファンでない私でも学校の授業で習って知っている星座たちは、なぜあえてそれが選ばれたのか不思議である。夜空にあれだけたくさんの星々があるのだから、他の星を線で結んだって良かっただろうに。

ましてや、古代であれば今よりももっと夜は闇に包まれていただろうと想像されるから、夜空は常にプラネタリウム状態であったろう。それでも現在まで伝えられる星座がなぜに選ばれたのか…?

その疑問への答えに、ある日の夜、トイレに行く時にパッと気づいた。(以下、次回)

2011/01/03

キルギスの年越し③

(②から続き)

0時になると、通りでは、各家庭が事前に買い込んでいた花火を上げはじめる。ロケット花火や、打ち上げ花火、音がピィピィするものなど。打ち上げ花火なぞは、日本では一般人が店頭で買うことはできないと思われるような大きなのが上がっていた。

日本では当然、そんな花火を町中で打ち上げることはできないだろう。日本は木造建築が多い所ので、こんなふうに好き勝手に花火を上げていたら、必ず火災に発展するケースが出てくる。キルギスは基本的には土で家を建てているから、火の粉が降ってきても火災になる心配はない(そう言えば、村の中で消防局は見たことがない)。

ただ、餓鬼(あえてこう書かせてもらう!)が打ち上げ花火を人に向けて来たのは怖かった。大人は誰も注意せず。頼むよ、ホント!

筋違いの通りからも、ずっと離れた通りから花火が絶え間なく上がっていた。この光景を見て、私はマレーシアで迎えた新年を思い出した。マレーシアは華人も多くいることもあって、こういう祝祭の時には爆竹・花火の乱れうち状態となっていた。

私がいた2003年には、火災のもととなるので、爆竹・花火は禁止とのお達しが出ていたが、みんな普通にパチパチ、ドンドン鳴らしていた。

私事だが、昨年はオーストラリアいる友人に会いに行き、シドニーで年越しをした(のを思い出した)。観光船などの船着き場になっている所で仕掛け花火が上がっていた。こういうのは日本でも流行っているじゃないだろうか? カウントダウンイベントで、よく花火が上がっている映像を見る。

ひとしきり(10分ほど)花火をすると、近所の家の中に入っていき、そこで食事と酒がふるまわれた。続いてその隣の家にもお邪魔して、同様に食べ物と酒。この時点で食べ物はもう喉を通らないほど満腹になっていた。酒は注がれた分は飲まないとしつこく「飲め、飲め」と言われるので、飲まざるを得ない。

こうして自宅に戻ったのは1時。年明けと同時に近所同士が互いの家を訪問するというのは、何となく楽しかった。

その後、床についたが、0時前に1時間半ほど寝てしまったのと、中途半端に酒を飲んだせいで目が冴えてしまった(酒は微量だと覚醒作用もあるでしょ?)。電子辞書の小説を読みながら、しばらくすると眠りに落ちていたようである。

それにしてもこの日だけで相当な量を食べたので、胃腸はもたれていた。それと酒。キルギス人たちの飲酒文化については、あらためて別に書くつもりである。

キルギスの年越し②

(キルギスの年越し①の続き)

大晦日の夕食は「マントゥ」という、餃子の皮で羊肉・玉ねぎ・じゃがいも・にんにくの具を包んで蒸すまんじゅうを食べた。

さて、夕食を終えたら、Эже(「エジェ」、キルギス語で年上の女性に対しての呼称。私のホームステイ先のお母さんのこともこう呼ぶ)の友人宅へお邪魔した。そこは先輩隊員のホームステイ先で、今度はそこで「ラグマン」(うどんに野菜・肉の煮込んだあんをかける)をいただいた。この時点で腹は90%くらいの状態になっていたのではないか?

こういう席では乾杯の酒を飲むのが通例。この日も乾杯があった。こちらは度数の強い酒(主にウォッカ、アルコール40°)を飲むためなのか、杯はショットグラスである。この日はワインを注いでもらって乾杯。

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一人ずつ祝詞を述べるのもキルギスの習慣。最近覚えたロシア語の祝詞の決まり口上を述べる。

そのお宅に暇(いとま)をつげて、帰宅したのは22時頃。0時にさらに祝いがあるというので、それまで部屋で本でも読んでいようと思ってソファに横になったら、そのまま居眠りしていた。

起こされて居間に行ってみると、時刻は年が替わる5分前。テレビのカウントダウンを見ながら0時を待つ。ロシアのテレビ局のチャンネルにしていたのだが、0時の2分前くらいにメドベージェフ大統領が登場し(録画と思われる)、クレムリンをバック(合成)にメッセージを送っている。

モスクワとは時差が3時間あるので、あちらはまだ0時ではないはずだ。理由を訊いてみたのだが、説明が理解できなかった。私の推測だが、ロシアは広くて地域の時差も相当あるので、キルギスと同じ時間を使っている地域もあるはずだ。東のほうから、0時を迎える順に、予め録画してあった大統領のメッセージを放送しているということではないかしらん?

そしていよいよ0時。2011年1月1日となったタイミングで、家族でシャンパンの乾杯。シャンパンを飲み終わると、今度は外へ。(続く)

2011/01/02

蛸足配線に見るバコンバエバのハイテク

このブログを読んでいる人(若い世代の人)の中には、「蛸足(たこあし)配線」なんていう言葉に耳馴染みのない人もあろうか。

一つの電源(コンセント)に、いくつもの電気機器のコードをつないで使うことをいう。コードが蛸の足のようにいくつもつながっているからこう呼ぶのである。

電源には許容量があるから、いくつもの機器を同時に使うと、容量オーバーで発火する危険がある。蛸足配線は危ないのである。

なんでそんな話をするかと言えば、お察しの通り、現在、まさに蛸足配線生活をしているからなのである。

私の部屋には電源がない(いや、あるにはあるのだが、壊れていて使えない)ので、別の部屋から延長コードで電源を延ばしてもらって使っている。この延長コードは3つのコンセント口があって、主にノートパソコン、ラジオ、電気ペチカ(ストーブ)に使用している。その他、携帯の充電でも使う。

先日、電気がつかないので、延長コードの元が外れていないか確かめるため、元のコンセントを見に行ったら、なんと、私の延長コードは、別の延長コード(三口タップ)につながっていたのである。その延長コードは、ホストファミリーが温風ヒーター、電気ポットなどをつないで使っている。

図にしてみるとこんな感じになる(クリックすると大きめの図で見られる)。

takoashi

ちなみに、私が使わせてもらっている延長コードは家人が手製で組み立てたもののようで、コンセントを差し込む際、バチバチと音がする時がある。私は電気には詳しくないので、こんなことで大丈夫なのかと恐れつつ、大事なノートPCをつないでいる(一応、変圧器、サージプロテクターを中継させている)。

職場でも、2つの電源からデスクトップPC3台(もちろん、モニターも含む)、プリンタ、コピー機、温熱ヒーターがつなげられている。ある意味、日本のテクノロジーなど敵わぬのでなかと思うほど、バコンバエバの人たちは電気を大胆に使いこなしているのだ!

2011/01/01

キルギスの年越し①

年が明けた。日本からは3時間遅れて、キルギスも2011年になった。

年越しは、大抵どこの文化でもイベントが伴うものだが、そのやり
方は色々と異なる。

日本なら、年が替わると、近くの寺社に詣でる人も多かろう。紅白
歌合戦のあとの「行く年 来る年」も、そういう人々を中心に番組
製作をしている(紅白歌合戦がなくなっても、この番組は存続させ
てほしいと思う)。

キルギスでは、12月の最終週あたりから「С Новым Годом」と言っ
て、新年への祝辞を述べはじめる。日本語に訳すとしたら、さしず
め「よいお年を」という所か。

私の配属されている職場では、12月30日にスタッフのパー
ティー(日本だった「忘年会」になるか?)が開かれ、村の中のレ
ストランの一室を借り切って、食事、ダンス、ゲームなどをした。

その席上で、組織のトップ(こちらではディレクターと呼ぶ)が、
「明日は休みにします」と宣言。そう、元来、12月31日まで出勤日
になっていたのだ。それが前日になって休日宣言。スタッフはみん
な「Ура!!(ウラー = やった〜。いいぞ〜。)」と言っていた
が、私は内心、「そんなことは年間スケジュールで決めておく話だ
ろうに…」と半ば呆れつつ、この辺のいい加減さの中で仕事をして
いるのも、気分が良いのであった(日本なら宴席で上司が「今日は
無礼講だ」というのが限界でしょうな。社長がいきなり「明日は休
みにする」という職場があったら、是非勤めてみたいね)。

さて、そういう訳で大晦日は出勤しなくてよくなり、10時半頃まで
布団の中。起きると、ホームステイ先のお母さん(キルギス語
「Эже(エジェ)」と呼ぶ)から、年越しに向けて部屋を掃除してお
くよう言われる。日本の年末大掃除と似た感覚かも知れぬ。

そして、新年の食卓に出すための寿司を作るように言われ、午後は
巻き寿司を作った。Эжеもキルギスの料理を作っていた。これが夕
食の食卓に並んだ。

家族だけの食事であるが、いつも食事をしている居間ではなくて、
客間のほうに配膳して、そこで食事。20代半ばの息子も同居してい
るのだが、彼は夕食前にどこか友人の所に行ってしまい、私とЭже
二人だけの食事。

この家は5人姉妹と1人の息子がいるので、「子供たちがいた頃は、
部屋が一杯だったんだよ…」と昔話が出る。夫も11年前に亡くして
おり、娘たちは嫁いだり、大学に通うために首都で下宿していたり
でおらず、家に残っている息子も外出。結局、外国人の下宿人であ
る私と二人での食事となった。

もし私がいなかったら、どうなったんでしょ? その場合は息子は
家に残っていたかな…。