お試しでスライドショーを埋め込んでみる。
中にキルギスの物ではないのも混じってるけど……
2012~2014年、青年海外協力隊員としてキルギスに赴任。現地での活動・見聞したことを記録するためのブログ。 帰国後も、キルギス関連のネタがあればときどき更新してます。
I’m now living in Kyrgyzstan as a volunteer. People in Kyrgyzstan ask me about Japan or Japanese. Some questions are frequently asked.
I have replied to those questions at each moment without preparations. But I thought that I should assume them and prepare to answer them.
So I listed up questions that I’m frequently asked by Kyrgyzes.
Possibly in other countries also they are asked; I also ask foreigner these questions. Can you immediately answer questions about your own country?
大気が澄んでいる夜に、久しぶりに星空の写真撮影に挑戦した。コンパクトデジカメだが、「ISO1600、露出時間15秒」の設定がマニュアルで可能で、結構、きれいに撮れる。
夏に取った時とは、星の位置がずいぶん変わっている。オリオン座なんて、夜1時くらいにやっと上りはじめていたが、今は19時くらいから見られる。
今回撮影した北斗七星。
この写真では分かりづらいかも知れないが、一つひとつの星の色が異なる。目で見ていると、主観的に「白」と判断してしまうが、カメラはそういうことをしないから、色の違いを写し出す(肉眼でも、注意して見れば色の違いに気付く)。
この写真を拡大して見てみたら、下(ひしゃくの柄のほう)から二つ目の星の脇に、もう一つ小さな星が写っていた。こ、こ、これは…!
昔、少年マンガ週刊誌で大ブームになった、胸に7つの傷を持つ主人公が超人的な拳法を使うあのマンガに、北斗七星の脇に小さな星が見えると、その人は死期が近いという設定があった。マンガのなかでは「死兆星《しちょうせい》」と呼ばれていたと記憶している。
「お前にも、あの星が見えるのか?」みたいなセリフがあって、そういうのが男子の間では滅茶苦茶流行った。一番流行ったセリフは、もちろん「お前はすでに死んでいる」「ヒデブ」であった。
ちなみに、北斗七星は英語では「The Plough(英)」「the Big Dipper(米)」で、どちらも「ひしゃく」という意味。ロシア語では「Большая Медведица /ボリシャーヤ メドベーディツァ/」で、「大きな熊」という意味。おおくま座ということですな。
ひしゃくの部分が目立っていて見つけやすいので、「ひしゃくの星座」として覚えている人も多いと思うが、北斗七星はおおくま座の一部分でもあるのだ(ひしゃくの柄の部分が熊の尾、水を汲む部分が臀部《でんぶ》に見立てられている)。
という訳で(?)、今回の締めは
ア、タ、タ、タ、タ、タ、タ、タ、タ、タ、タァ!!!
(ヒデブッ!)
日本では絶対に経験しないと思うキルギスでの出来事。
キルギス人たちに、写真の撮影を頼まれることがたびたび起こる。しかも、まったく知らない人から。
クリスマスツリーがあったのでデジカメを出して撮影をしていたところ、家族連れで来ていた男が、「俺たちを撮れ」と言ってきた(キルギス語、ロシア語ならそういう“命令形”で言うのも標準なのかも知れないが、外国語学習者にとっては、そういう高飛車な表現というのは不愉快なものである。おそらく、本人のニュアンスとしては「写真撮ってよ」程度であったろう)。
撮影したところで、データを渡すことも、現像した写真を渡すこともできないから、断っていたのだが、しつこく、酔った勢いもあって体を付けてくる、腕をつかんでくる始末。「ああ、こういうところが、俺がキルギス人の一番嫌いなところだなぁ」と思いつつ、それ以上断るのも危険そうだったので、撮影することに。
車に乗っていた家族がぞろぞろと出てきて、ツリーの前に整列。撮影終了。
と、それを見ていた別のグループからも、「俺たちも撮ってくれ」と頼まれ、撮影。
当然ながら、データもプリントも渡していない。最初から「無理」と説明してあることだから、気の毒だが仕方がない(そもそも、この写真を撮った場所は自分の村でさえない)。
日本人的感覚であれば、こういうことを頼んでも詮無いことだと考えるが、キルギス人はそうは考えないのだろうか? たまたまその場に居合わせた、見ず知らずのカメラを持っている人に撮影を頼んだら、現像をして届けてくれると思っているのだろうか。
インターネット利用がもはや当たり前になっている(そのために「ネット弱者」という人たちを生み出す弊害も出ている)社会ならば、「このメールアドレスに送ってちょうだい」と頼む可能性はあるかも。一方、遊牧民族の文化を基礎にしているキルギス人は、旅人に対して「またこの辺りを通ることがあったら、写真を届けてくれ」と考えるのか…。
この分析が妥当かどうかは分からないが、いずれにせよ、根本において文化的土台が違っているんだと思う。
実際、この手のエピソードはこの時以外にもしょっちゅうあるし、私以外の隊員もしばしば経験している。キルギス協力隊員のデジカメの中には、見ず知らずのキルギス人の写真が結構入っているのである。
なんか、ここ最近、バコンバエバ村の電気供給が安定していない感じである。昨年の5、6月頃は、季節の変わり目のせいか午後になると風が強く吹くのであったが、その度に停電になっていた。何回目からは、風が吹く音がすると、「あ、こりゃ、停電来るな…」と予想できるようになっていた。そして、予想通りに電気が停まった。
別の村に行った時に、そこでも強風が吹き始めたので停電を予想していたが、そこでは停電は起こらなかった。そこで吹く風のほうが強かったのに。つまり、バコンバエバ村の送電設備が脆弱、ということなのか?
先日、野菜を買おうと小店に入ったが、折しも停電中。以前にも書いたかも知れないが、キルギスでは野菜も菓子も計り売りが基本。特に田舎の店ではそうである。
私が、野菜を取って、店のおばちゃんに渡そうとすると、「停電だから計れない」と言って断られてしまった。秤《はかり》が電気式なのである。だから、停電中は目方が計れず、したがって販売もできないというわけだ。
電気式の秤というのは、日本で肉屋が使ってるのと同じような物。キロあたりの単価を打ち込んで、商品を載せると値段が出る。確かに、これはアナログ(針)の秤でやるよりは簡単である。
しかし、これだけ停電が多い村なのだから、アナログ秤も常備しておくべきだと発想しないのだろうかねぇ…? 良くも悪くも、商売っ気がない。
「Windows XPの動作が、だいぶ重くなってきて、細かい動作不良(?)も出てきたので、OSを再インストールしたい。さりとて、OSインストールは手間(アプリケーションも入れ直さなければならない)なので、残り半年は今の状態で我慢して使い続けるしかないか…」とブログに書いたところ、匿名の方から、ユーザーアカウントを新しく作成することで、レジストリなどがリフレッシュされた状態で使える、というテクニックをコメント欄で教えてもらった。
さっそく試してみた。確かに、プログラムの起動は少し軽快になったような。エラーも出づらくなっている感じがする。
この方法は、OSの再インストールよりは断然に楽にできるが、それでも、一つひとつのソフトの使い始めでは、再設定・カスタマイズしなければならないことも多く(ウェブブラウザのホームページ設定とか)、その設定には時間がかかった。ただ、これもやりようによっては、もっと簡単に設定の移行はできるはず(Dドライブとかに、設定ファイルを保存しておいて、それを新しいアカウントにインポートする)。
やってみて思ったのだが、そもそも、パソコン内に入れているファイルが多すぎるようである。撮り貯めたデジカメデータとかは、かなり膨大な量になっている。この際、バックアップを外付けハードディスクとDVD-Rに取って、PC内のデータは消去することにする(過去にデジカメデータを丸ごと消失した経験があるので、バックアップには慎重なのだ)。
データサイズにして6GBくらい、ファイル数で1万個くらいあった(このうち4分の3くらいは、今後も使わないはずの写真なんだけどね。ついつい残してしまう)。これでPCの動きは多少は改善するか…。ウィルススキャンとかエラーチェックは速くなるはず。
こんな作業をするだけでも、2時間くらいは使ってしまう。やりながら、ロシア語・キルギス語の会話教材でも聴いてればよいものを、日本語の音楽を聴いておりましたとさ。
ユーザーアカウントの効果を、如実には実感できなかったが、理論上は改善されているはず。これはXP以外のバージョンでも使える方法のはずだから、Vista/7ユーザーも場合によっては実行してみる価値はあるだろう。
私が住んでいる村のはずれは平原になっている。時々、その辺りに行って写真を撮ったり、風景を眺めたりするのだが、先日行った時に、竜巻が起こっているのを見られた。
竜巻と言っても、大きなサイズではなかったと思う。地形とか気温差とかが絡み合って、こういう風が起こるのだろうが、私にはその仕組みが分からない。
Я писал о абаки несколько день назад. Опять я нашёл абак в другим месте.
У нас в японии тоже есть абак, который назваются “соробан” на японском. У японским абаки и кыгрызскам абаки другие их образы.
Фотография японского абаки.
http://www.craypas.com/products/fs/product_img_369.jpgВ Википедии.
http://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%90%D0%B1%D0%B0%D0%BA
キルギスに渡航した直後は「え?」とか「こんなのいいの?」みたいに驚いていたことも、1年半も過ごしているうちに、そのことを意識することさえなくなるものである。
その最たるものが、「ペットボトルで売られているビール」である。
(食堂の棚に陳列されていたビール。銘柄は「НАШЕ/ナーシェ/」。
「私たちの」という意味のキルギス国産ビールである。)
まあ、最近ではビールがペットボトルに入っていることなんか、全然、珍しいとも不思議とも思わなくなっているのだが、帰国したら逆に「なんでペットボトル入りビールがないの?」となるのかも知れない。
日本でも売ればいいのに、と思ったりもするのだが、おそらく衛生上の問題でやらないのではないか? (実際、キルギスでペットボトル入りビールで当たった隊員がいた。ボトルの下に、沈殿物があったそうな…)
ペットボトル入りビール自体は気にしなくなっているが、このボトルを開ける時の開け方には、いつも気を遣っている。要は、炭酸飲料と同じで、上手く開けないと、泡が吹き出してきてしまうので、ゆっくりとガスを抜きながら開ける。
海外のビールで驚いたと言えば、マレーシアにいた時、あちらの食堂や屋台でビールを頼むと、氷の入ったコップにビールが注がれて出されていた。日本でこれをやると、「味が薄まってまずくなる」と嫌う人が多いが、私はマレーシアで慣れた。熱帯だから、ビールがすぐにぬるまってしまうわけで、氷を入れて冷たく飲むのが美味しい。
ついでに…
ベトナム隊員だった人によれば、あそこでは、一緒に飲んでいる人のコップにまだビールが残っていても(3~4口分くらい?)、新しく注ぐ前に全部、道に捨て流してしまうのだそうだ。「まだ飲んでる途中なのに…」と思うことが度々あったと聞いた。
枝豆とかから作った飲料を、ビールの代わりにして飲んでいるのも、よその国の人から見たら、随分不思議なさまに思えるかもね。
キルギスで肉を購入する場合、肉屋で「これちょうだい」と言って、店の人がその肉を秤《はかり》にかけて、重量に応じて値段を払う。肉が大きすぎると思えば、切って、分割してもらい、目方を少なくして買う。
私はホームステイなので、基本的に自炊する機会は少ないのだが、家人がいない時などは、自炊をするために食材を買いに行くことがある。
先日、肉を買ってみて気付いたのだが、こちらで売っている肉の中には、骨が付いた状態の物もある。部位によるのだろうが、体の組織で見れば、肉は必ず骨に付いて存在している訳だから、骨付き肉として売っていても不思議ではない。
キルギスを基準に考えれば、骨と肉を分ける処理をした物が売られている日本のほうが不思議とも言える。
私は迂闊にも今まで気付かなかったのだが、目方に応じて値段が決まるのだから、骨付き肉の場合は骨の分だけ損をしていることにはならないか? 骨って、結構重いにも関わらず、食べられない。まあ、スープの出汁《だし》を取るとかの活用法はあるが…。
別の協力隊隊員にそんな話をしたら、その人もそう思って、肉屋で「骨を外して売って」と頼んでみたことがあるそうな。そうしたら、「グラムあたりの単価は高くなるよ」と言われたのこと。つまり、肉屋にしてみれば、骨付きを前提に単価を設定しているということだろう。肉だけで1kgと、骨付きで1kgでは肉屋の採算性は変わるから、値段も変えるということだ。それに、骨と肉を切り外すならば、その分手間がかかるから、その手間賃で値上がりすると考えもよい(キルギスの肉屋の言い分が実際にそうなのかは分からないが)。
日本では肉は骨を外して売られているが、本当はその手間(人件費)も値段に含まれている。安く買って自分で処理するか、プロが処理をして値段が上がるか。同じことである。
骨付き肉に慣れていないので困ったのは、鳥の唐揚げを作ろうとした時だった。骨の付いたまま衣を付けて揚げたが、いざ食べる段になって、骨が邪魔になって食べづらかった。骨付きの鶏肉は日本でも売っているが、ももとか手羽などは、既に食べやすいようにしてあるのであって、実際の鶏には細かいのやらでかいのやら、もっと色んな骨が組み合わさっている。
今まで、食肉の骨をこんなに意識したことはなかった。日本では肉が処理されていることの便利さなんて、当たり前だと思って、処理されている事自体を意識してなかった。肉屋さん、ありがとう。
私のパソコンのオペレーティングシステム(OS)ソフトは、Windows XPである。2010年に買ったノートパソコンなので、Windows Vista/7という選択肢もあったが、処理の速さでXPにした。Vista/7をいじることもあるが、自分のやりたいことの範囲で言えば、XPでも対応できる。
買った当初は、感動するほどに起動時間が速く、アプリケーションの動作も軽快だった。しかし、使っているうちに、音楽や画像のファイルを保存したり、適宜新しいソフトを追加したりしているうちに、段々と「重くなってきたな」と感じるようになっている。まあ、これはパソコンを使っている以上、避けられないことだとも思う。
ただ、困るのは、使っているうちに、Windowsの基本機能が少しずつ変になっていることか。ソフトが急にフリーズしたり、強制終了したり(以前はなかったと思う)。「ハードウェアの安全な取り外し」ができなくなったり(一度スタンバイにしてから外している)。
こうなってくると、一度、OSを再インストールして、パソコンを初期状態に戻したいと思う。軽やかだったあの頃のパソコンに。
再インストール用のディスクは持ってきているので、できなくはない。しかし、自分のパソコンには、自分の好みでフリーソフトを色々と入れていて(それが重くなる原因でもあるが…)、それらも一からインストールし直すのが手間である。ソフトによっては、データサイズが何十MBのもあって、今の自分のネット環境ではダウンロードはほぼ不可能である。
何より、ネット接続自体、OSをリフレッシュしてしまった場合に、うまく認識しなくなる怖れもある。今は携帯端末をUSBでパソコンに繋いでネットに接続しているのだが、これのドライバが認識されなくなる可能性もなくはない。
そんなこんなで、とりあえず、あと半年、だましだましという訳でもないが、今の状態で維持して使おうかと思っている。
“Soroban” is a Japanese word. In English, it’s “abacus”.
Our Japanese ancestors had used it to calculate. So we can say that soroban is an ancient calculating machine. Actually I had been studying soroban at a private soroban lesson, when I was an elementary schoolchild. Soroban is replaced by computers, and not used often in the present time, though…
It is said that soroban originate in Babylonia in about B.C.2000. Into Japan, it was introduced through China in the 14th century.
Recently I found soroban in a small village which I’m living in Kyrgyzstan. It is used in a small grocery store. I asked a grocer woman to permit to take pictures.
(Soroban is on the table; the grocer is putting her right hand on.)
(An enlargement. It has 10 beads in each bar.)
Japanese soroban is separated 2 parts in a bar. In one side there is a bead which signifies “5”. In the other side there are four beads signifying “4”. Soroban in above pictures obviously has a different feature.
Possibly this type of soroban was introduced not from China. Kyrgyzstan had been locating in the Silk Road. So, soroban could be came by the Silk Road from the west.
Of course, there are electronic calculators in Kyrgyzstan too. But I was pleased to see that soroban has still been used.
(「マルシュ」は定路運行の乗合バス、маршрутка/マルシュルートカ/のこと。)
キルギス人の家では、牛や羊、馬などの家畜を飼育している(イスラム教徒なので豚はいない)。
夏場は山腹のほうに、飼育に適した草が生えるので、ジャイロー(жайлоо)と呼ばれる放牧地に、家畜を連れて行き、羊飼いに預けてそこでひと夏を過ごさせる。
10月頃には、山のほうは気温が下がり、草もなくなってくるためだろう、家畜たちはジャイローを引き上げ、村の各家に戻される。
なぜ、こんな話が乗り物のマルシュと関係があるのか。
冬の間、村に戻された家畜たちは、日中の間、村はずれの平原などに移動させられ、そこで草を食べて過ごす。そして夕方、日が沈む前に家になるとそれぞれに家に戻ってくる。
だから、この秋から冬の時季、田舎道を通ると、そこかしこに馬、牛、羊が草を求めてウロウロしている。普段、牛や羊が離されている環境で暮らしている日本人など、ほとんどいないから誰も知らぬだろうが、こういった草食動物たちというのは、平原なら平原の一ヶ所でずっと草を食べているわけではない。考えてみれば当然だ。同じ所で食べていれば、自分たちが草を食べ尽くしてしまう。したがって、牛や羊たちは、少しずつ場所をずらしながら、草が生えている所を求めて動いていくのである。
家畜たちが平原の中だけを移動しているなら何も問題はないのだが、時に平原の中に道が通っていることがある。いやなに、人間が平原の中に道を作ったまでのことで、牛や羊らにしてみれば、道を隔てた向こう側の平原においしそうな草があれば、そっちへ移動するまでのことだ。
このようなわけで、冬場は都市間を結ぶ幹線道路でも牛、羊、馬が横切っていることがしばしばある。
私たち協力隊員は、キルギス国内で移動する時はマルシュ、または長距離タクシーに乗るしかないが、自分の乗っているマルシュ、タクシーの前に牛などが横切る時があって、これがたまにヒヤッとする。
マルシュが100km/hを超えて走っている前方に、道の真ん中に牛がのっそのっそと歩いている。ぶつかれば、もちろん牛は死ぬだろうが、車のほうもただでは済むまい…。
上の写真はマルシュではないが、状況としてはこんな感じである。牛が通行車両にお構いなく、マイペースで道を渡っていき、車がそれを避ける、または停車して待つのが伝わるだろうか。
私が見るところ、一番、車に動じないのはロバ。車からどんなにクラクションをならされても、ジ~っと立っていることがある。ちなみに、犬というのは車が来たら避けることを知っていて、道を渡る時にもちゃんと見ている(それでも轢かれてしまうことはあるのだが…)。
日本では「メタボ」は健康の大敵として喧伝され続けているが、面白いことに途上国の多くでは、太ることが奨励される風潮がある。貧しくて食事が思う存分食べられないことがあることの裏返し、あるいは太ることへの憧れのためにそういうのかも知れない。
キルギスでも、特に女性は太ることが良しとされる。これは出産、授乳などをする上で、栄養を蓄えておくとよいという古来からの知恵だとも受け取れる。
男に関しても、日本語で言う「恰幅《かっぷく》が良い」風貌を良しとするところがあるようだ。特に、夫が痩せている場合、その妻(嫁)がきちんと夫に仕えていないのではないかと、後ろ指を指されると聞く。私なら「ほっとけ」と思うが、ここの社会で育ち暮らしている人たちにしてみれば、そう簡単に開き直って無視するわけにもいかないのである。
一方で、医学的な知識は時と共に住民の間にも拡まっていくし、テレビ・雑誌などを通じて海外のモデルなどを見ることでそれに憧れる若者層は増えているだろうから、「肥えろ、太れ」という風潮は次第に減っていくんじゃないかと思う。
そうやって時代の風潮が変わっていく中で、気の毒なのは、「肥えろ、太れ」の時代を生きてきて、今やすごい立派なご体型になっている年輩の女性たちである。糖尿病をはじめ、過体重による腰・関節の痛みとか、色々と抱えている様子である。
年上の女性のことは「эже /エジェ/」と呼ぶが、横幅が私の1.5倍はあるエジェたちを見ることも決して少なくない。こういうエジェたちと、乗り合いバス、タクシーで並ぶ時は大変である。2人がけの座席に、1.5倍幅の人が2人座ったらどうなるか…? 言わずもがなであろう。
日本も昔はふくよかな体型の女性のほうが美しいとされていたと聞いたことがある。日本国民の多くが、まだ貧困生活を送っていた頃の話だろう。この辺り、経済的な豊かさと相関するものがあるとのかも。今はまだやせ形のタレント、モデルがもてはやされているが、これがふくよか型になってきたら、いよいよ日本の経済も衰退してきた証なのかも知れない。
サッカーの世界ランキング。
最新のランキングで日本は19位、キルギスは191位。
http://www.tsp21.com/sports/soccer/fifaranking.html
http://www.tsp21.com/sports/soccer/fifaranking2.html
ちなみに、上記サイトのランキングは定期的に更新されるようで、次回のランキング発表は2012年1月18日とあるから、このブログを読んでいる時に、「日本19位、キルギス191位」は変わっているはずである。
それにしても、全部で208位まである中での191位だから、サッカーにおいてはキルギスはまだ弱小国である。ちなみに、過去約1年での最高順位で「160位」というのがある。
日曜日、村の学校の前を通りかかったら、校庭でサッカーの練習をしている子供たちの姿が目に入った。
そろいのユニフォームを来ていて、指導者と思しき男性もいる。
こういう少年サッカークラブがあることは知らなかった(ひょっとしたら最近発足したのかも)。何より驚きだったのは、子供たちがパスをつなぐ練習をしていたこと。普段見かける子供サッカーは、みんながボールに寄っていってしまうことが多いから、こうして基本からやっているのは珍しい光景なのであった。
何年かかるか分からないが、キルギスの代表チームももっと強くなり、キルギスと日本がワールドカップの予選で一緒に争う日が来るかも知れない。
「仕分け事業」というタイトルで、間違ってこのブログに来た人もいるかも知れない。このブログは日本の現在の政治状況について云々するものではないので、予め断っておく(言いたいことはあるけどね)。
私がブログを書くのは、この協力隊ブログが二度目。一度目は契約していた携帯のブログ投稿サービスだった。このブログも既に500を超える記事を書いたのだが、ここまで書いてみて、我ながら、まだ“ブログ慣れ”していなかったなと思うこともある。
ブログでは、記事ごとに「タブ」とか「カテゴリ」が設定できるようになっているが、このカテゴリの設定が、いかにも不慣れな感じが出てしまっている。
弊ブログのカテゴリを見ていただければ分かるが、「キルギス」というカテゴリは、青年海外協力隊員としてキルギスに来ている以上、ある意味、すべてがこのカテゴリに入ってしまう。だけど、このカテゴリを作った時には、そこまでは考えていなかった。
その後、キルギスで、具体的に色々な生活体験をしているうちに、動物のことや植物のこと、食べ物のことや風俗・習慣のことを書くようになり、「キルギス」というカテゴリでは収まり切らなくなり、それぞれのカテゴリを別に設けることになった。
同期の隊員のブログを覗くと、カテゴリが整理されている人ものもあり、ブログ投稿に慣れているのかなと思ったりする。そういうブログを私も作りたかった…。
こんなことをわざわざ書く必要も「ない」と言えばないのだが、まあ、ひょっとしたら、今からブログを始めようという人の参考にはなるかも知れないと思うので、書いてみた。
ブログのカテゴリは、自分のブログで扱いそうなテーマをある程度見極めてから設定したほうが良いですぞ。
協力隊に関して、仲間内でよく言われる、また先輩から後輩へ言い伝えられている話がいくつかある。真偽のほどが定かでないものもあり、いわば協力隊の「都市伝説」とでもいった話もある。
その中でも、割と真実味があると私が思うのは、「任国へ赴任後、女性隊員は肥え、男性隊員は痩《こ》ける」という話である。 もちろんすべてではないが、自分のことを考えても、周りを見ても、この話はあたっているように思う。
なぜ女性隊員が肥えるのか? 謎である。一つ、私が目撃談として言えることは、多くの女性隊員が「こんな脂っこい物を食べたら、また太っちゃう」と言いつつ、美味しそうに現地の食事を食べていることである。 甘い物も、総じて女性のほうが好きだし。
まあ、それはちょっと意地の悪い表現である。そもそも、女性のほうが脂肪が蓄えられやすい体質だというから、同じ食事を摂っていても男性隊員よりも太りやすいはずなのだ。
一方、男性隊員のほうはなぜに痩せるのか? 推測するに、これは自炊隊員に顕著なことだと、私はにらんでいる。私の体験上、自炊するのが面倒で一食抜いたり、ビスケットとかで腹を満たして済ましたりすることが多くなる。そういう食生活を続けていたら、必然、体重は減る。
こういう輩は、日本にいる時も「自炊するの面倒くさい」と言っていたはずなのだが、幸か不幸か日本にはコンビニ店、ファーストフード店が身近にいくらでもあるから、自炊しなくても三食はどうにでもなる(金はかかるけど)。
途上国の場合、首都ならいざ知らず、地方に行けばコンビニもマク●ナルドもない。村内に食堂がある場合もあるだろうが、徒歩で行くのが面倒くさくて、家にあるビスケット、インスタントラーメンで済ますというのは、よくあることだと思う。また、地域の状況によっては、あまり頻繁に外食を続けるのは、村人の生活水準から見ると豪奢《ごうしゃ》に映る場合もあり、食堂の常連になるのを避けざるを得ないこともある。
男性隊員の場合、なによりも、「面倒くさい」ということがベースになっているのが情けない話なのだが…。しかし、他の男性隊員(OBも含めて)には、私のこの分析は共感してもらえるだろうか?
日本国外、特に途上国へ行くと野良犬が多いのに気付く。日本では、野良犬と見なされれば、保健所が捕獲してしかるべき処分がされる。これは野良犬によって人が咬傷を負ったり、狂犬病に感染することのないための対策である。
逆に言えば、途上国で野良犬が多いということは、犬に咬《か》まれたり、狂犬病に感染することがあるということになる。このブログには度々書いている、NHKワールドの短波ラジオ放送で聞いた情報(だったと思う)では、全世界では年間5万人の狂犬病感染者が出ているのだという。
日本は野良犬駆除のおかげだろうが、国内での狂犬病の感染例はもう何十年もゼロである。だから、狂犬病についてはその病名は知っていても、どういう病気なのかについては知らない人も多い。
協力隊は、まさに開発途上国へ赴くことが任務であるから、事前訓練の時に、日本とは違う環境での健康管理について講義を受けるが、その中で狂犬病の話もある。ここで狂犬病のなんたるかを知る人も多いようであった。
狂犬病は恐ろしい感染症で、犬などに咬まれて狂犬病ウィルスに感染し、もし発症すると100%の致死率だという。発症後の治療法がないのだ。(ひえぇ~。)
私自身、犬好きなので、犬を見るとついついナデナデしたくなるのだが、海外旅行ではこれは単に咬まれるということに留まらない危険がある。それに、狂“犬”病と言っても、感染源となる動物は犬だけとは限らない。キツネ、アライグマなどのイヌ科動物も同様に危ないし、血吸いコウモリも感染の媒介をするらしい。
治療法がなく、発症後の致死率は100%であるが、予防法は確立している。一つは、日本ではお馴染みだが、犬に狂犬病ワクチンを接種すること。これとは別に、人間にもワクチン接種ができるそうで、協力隊派遣者は渡航前に全員、このワクチンを受ける。
また、事後対策法もあり、犬に咬まれた後、ただちに(0日=当日)にワクチンの接種をし、以降、3日後、7日後、14日後、28日後とワクチンを受けることで、発症を抑える効果が高い。
このワクチンがなければ、今も人間は狂犬病の全世界的な蔓延に苦しんでいたことだろう。そんなワクチンを開発したのは誰かと調べてみたら、パスツール博士(1822-1895)であった。細菌・ウィルス関連でたまに名前を耳にする気がするが、すごく功績のあった研究者なのであった。
キルギスの野原、草原を見ると、必ずなにかの家畜が放牧されている。
馬がこんな感じで草をはんでいる。不思議なのは、この馬たち、どこか遠くへ逃げていってしまわないのか、ということである。
面白いことに、夕暮れ時になると、馬たちは自分たちで飼育主の家に戻って行っている。道順とか、匂いで家の場所を識別しているらしい。
しかし、放牧されている馬の中には、こんなふうに
足をロープで縛られているのがいたりもする。こういう馬は、気性的に自由気ままに遠くに行きたがるやつなのではないだろうか? だから、行動を制限して遠くに行かせないように、足の動きを不自由にさせているのではないかと思っている。
この写真を撮った馬も、他の馬に遅れを取りながら、普通の歩幅の半分くらいの進度でヨチヨチと歩いていた。
本年1月8日の当ブログに、「海外で日本を聞くとホッとする。日本語を学習してくれている外国人はありがたいものだ」という主旨で記事を書いたのだが、これに関連して書いておかなければならないことがあった。
自分が書いたことと相反するようなことだが、海外で、特に短期の旅行先などで、日本語を使って近寄ってくるような人には、警戒心を持つことが必要である。
外務省が、日本国外に渡航する人向けに「海外安全情報」というのを発信しており、外務省のサイトから地域別・国別に、現地での疫病の流行状況や、政情不安による治安悪化の状況などの情報を提供してくれている。その中に、現地で日本人が遭いそうな、あるいは被害の実例がある犯罪についての情報も入っている。
この海外安全情報の中で、昔からずっとある常連が、「旅先で日本語を話す人にだまされる」というパターンである。
私がマレーシア隊員だった頃によく注意されたのが、自分は日本語を勉強中で、もっと日本語を勉強したいので教えてほしいと、若い女(これが美人なのらしい)が日本語で近寄ってきて、「ぜひうちに来てください」と連れ出される。その彼女の家とされる建物に入ると、家族だか友人だかといった人たちがいて、「やぁやぁ、よく来てくれました。一緒に遊びましょう」とトランプゲームが始まる。勿論、金を賭けている。最初の数回は勝たせてくれるのだが、途中からまったく勝てなくなり、終いには「さぁ、負けた分を払ってもらおうか!」と脅される。手持ちの金でも足りないと、ATMへ連れて行かれカードで現金を引き出させられる、という引っかけ詐欺である。
ATMに連れて行かれた時点で、嘘の番号を教えたりしては行けない、ともよく聞く。逆上した犯人グループに、身体的な暴行を加えられる恐れがあるためである。この詐欺に関しては、日本語を話す美人の口車に乗せられて、一緒に家に行っている時点で完全にアウトである。
幸いにして、私はこの手の詐欺に遭ったことはない(それ以外に、値段をぼったくられたりとかは何度かある)が、今も外務省の海外安全情報にこの手の詐欺に対する注意喚起が出されているから、10年経った今もこの詐欺は無くなっていない、つまりだまされる人が存在し続けているということであろう。どうもアジア圏でこの詐欺は多いようであるが、他の地域だって油断はならぬ。
思うに、この詐欺のポイントは、「①美人の仕掛け人」と「②日本語で話しかける」という点にあるのではないか。①に関しては、旅行者が女性であればイケメン男子が仕掛け人となるだけのことであるから、被害者は男女の別はない。②に関しては、私自身がブログに書いたように、「海外で日本語を話す人に出会うとホッとする」という心理につけ込んだものだ。
勿論、日本語を学ぶ人のほとんどは、犯罪のために言葉を学んでいるのではない。ただし、悪い奴らというのは、常人をだますためには人並み以上の努力をするものであるから、金になるなら日本語の学習だってする。それを頭に入れておき、つまらぬ詐欺に引っかからぬようにしたいものである。
なお、外務省の海外安全情報はNHKワールドで、アナウンサーが読み上げているものを聞ける。短波放送では、これを日に何度も放送している。これを聞いているだけでも色々とためになる(各国の政治・犯罪・感染病の状況を知れる)ので、ネットサーフィンの合間にでも流し聞きしてみるのをお勧めしたい。
◆外務省 海外安全ホームページ
http://www.anzen.mofa.go.jp/◆NHKワールド 海外安全情報
http://www3.nhk.or.jp/nhkworld/anzen/
インスタントラーメンが、冷めてフニャフニャにふやけた状態で出てきた話を書いた。それで思い当たったのだが、ひょっとしたら、キルギス人は熱い物はあんまり好まないのか?
以前、招待された家で、ペリメニという水餃子みたいな具が入ったスープを供してもらったことがあるのだが、沸騰した鍋からよそられたスープは熱々で、一緒にいたキルギス人はしばらく冷ましてから食べている人もいた。私は、元来、どちらかと言えば早食いの質《たち》であるせいもあって、熱いながらも少しずつ食べていた。それにこれくらい熱いほうが美味しいという食べ物も、やはりあるのである。生ぬるいペリメニのスープが出されることもままあるのだが、あれはスープの食味を半減させているように思う。
まあ、このエピソードだけで、キルギス人全般が猫舌だと断じるのは勇み足だろう。日本人にだって猫舌の人はたくさんいるしね。先輩の一人が真の猫舌人で、一緒にラーメン屋に入っても、出てきたラーメンに手を付けず、冷めるまで2~3分待っているのであった。熱々のラーメンを食べられないとは、なんとも気の毒なことだと思ったが、よく考えればそれは余計なお世話というもので、当人にしてみれば熱いラーメンのほうが美味しくないというだけのことであろう。
キルギス人がインスタントラーメンを冷まして、麺がのびてから食べるというのも、本人たちが美味しいと思っているならば、その食べ方が正しいとか間違っているとかいう筋合いはどこにもない。仮にキルギス人すべてが猫舌(そんなことは100%ないのだが)で、すべての食べ物を冷まして食べる食文化(これも仮の話。実際には熱々で食べる物もたくさんある)だとして、それを私が「冷めていては不味い」と言うのは余計なお節介というものである。これを称して「猫舌お節介」と呼ぶ(これも嘘である)。
職場の昼食で、インスタントラーメンが出たことがあった。キルギスでは、食事作りは女の仕事と決まっている。その日も女性スタッフの一人が、買ってきたインスタントラーメンを作ってくれていたのだが、作り始めてから「随分、時間が経つなぁ」と内心思っていたら、しばらくしてできあがったので食べようと呼ばれた。
机の上に、人数分のどんぶり(これは普段、スープやキルギスのうどんを食べるために使われる器)が並んでいて、上に皿で蓋がされている。この日使われたインスタントラーメンは、カップ麺ではなく袋に入った物であったが、なるほど、インスタント麺をふやかすために蓋をしているのだな、と理解。このやり方はカップ麺にお湯を注ぐのと同じ効果がある。私自身は、袋入りのインスタント麺は鍋で煮るのを常としているが、他人(日本人)がこのやり方でインスタント麺を調理しているのを見たことがあった。
蓋を取り、フォーク(キルギス人は箸は使わない)ですくって一口食べて驚いた。ぬるいのである。それに、ひどく麺が軟らかくなっている…。「うひゃ!」と思わず言いそうになったが、作った本人も同席していたこともあり、私は心中の動揺を表さぬように、そして自分自身を落ち着かせながら食べ続けた。
食べながら、一緒に食べているキルギス人スタッフたちの反応も目の端で観察していた。ひょっとしたら、彼らもこの麺を不味いと思っているのではなかろうか? いくらなんでも、こんなに麺がのびるまで冷めてしまったラーメンを美味いと思うわけがないだろう。
と思って見ていたが、誰も、この日のラーメンの出来具合に「これはちょっと麺がのびすぎだよ」と言っている様子ではないのである。つまり、彼らにしてみると、インスタントラーメンの出来上がりはこのくらいで普通なのだ。
ふ~む。「ラーメンのスープは熱々で、麺はコシがなければ美味しくない」というのは、万国共通の美食基準ではないということらしい。「熱々でコシ強」という“ラーメン像”も、ひとつの思い込みなのか…。そうであるなら、ぬるくなり、ふやけきったこのラーメンも、ひとつの調理スタイルとして食べることができる。そう思い直して、私は自分の器のラーメンを完食した。
でも、やはり、ラーメンは熱々・コシ強でお願いしたいというのが、個人的願望である。
キルギス人もインスタントラーメンを食べる。
町のスーパーマーケットや村の商店で売られている。スーパーのほうが商品種が多い。
カップラーメンも売られている。ただし、日本が世界に誇る(?)「CUP N●●DLE」は、キルギスでは見たことがない。個人的には、是非、ここでもシーフードとかカレーとかを食べたい。ニッ●ンさん、市場拡大のチャンスですよ!
日本のインスタントラーメンはまるで入って来ていないのだが、韓国製のは、首都ビシュケクのスーパーマーケットチェーンでは必ず売られている。これはこれでおいしい。他のはロシア製(あるいはカザフスタン辺りのもあるかも)のようだが、味に関しては韓国製のインスタントラーメンが日本人の口には合う。
この写真のは「辛」と漢字で書かれている(し、パッケージも真っ赤だから)ので分かると思うが、辛口ラーメン。日本でもこの手のは売り出されたことはあったと思うが、結局、あんまり定着してないようだ。激辛ラーメンの店とかもあるが、日本人にしてみれば、ラーメンはいつもいつも辛口で食べる物というイメージはないのじゃないか。では逆に、韓国の人たちは日常的に辛口ラーメンを食べているんかな?
韓国製のインスタントラーメンで、添付されている乾燥具材に昆布が入っているのがあり、日本ではこういうのは見たことがないなと思いながら食したら、これが実に胃にやさしい感じでおいしかった。しかし、これも首都でなければ買えないので、その後は食べていない。
韓国製ラーメンの話ばかりになってしまったが、ロシア製のにもおいしいのはある。値段が安い物(8ソム≒13円)の中には、麺に臭みがあって、私は避けている商品もある。15ソムくらいの物ならば、まずまず。ちなみに、韓国ラーメンは40ソムくらいだから、ちょっと高い(日本円で換算したらそうでもないのだが)。
こちらで売られているラーメンで、日本と決定的に違うこと。それは「だし」。
こちらのラーメンには、絶対に「豚骨スープ」のラーメンは売っていない。もう察している読者もいるだろうが、それは宗教的な理由による。イスラム教では豚は禁忌として食べない。誰も食べない物を陳列しても売れないから、売られていない。
(では、ロシアなんかでは豚骨スープのインスタントラーメンは製造・販売されているのか? そもそも、豚骨ラーメンは、日本とか中国くらいでしか食されていないのだろうか?)
当ブログを読んでいる方で、もし、イスラム教徒の人を観光案内なんかで食事に連れて行く場合には、是非、そのことを留意しておかれたし。豚骨スープのラーメン屋はNGだし、鶏ガラでスープを取っている店でも、チャーシューは豚であろうから、これもまたNG。まあ、ラーメン屋には案内しないのが無難ということか(勿論、とんかつ屋もダメよ)。
食の禁忌ルールについては、我々日本人は、ピンと来ないものがある(とは言っても、日本人の多くが「仏教徒」と自覚しているその仏教では、本来、肉食《にくじき》は禁止である)が、世界には豚食を避けている人たち、あるいは牛食を避けている人たちがいて、それらの禁忌については軽んじて見るべきではないのである。
うん、でも個人的には豚骨ラーメン食いたかぁ…
キルギスの日本語学習者の日本語コンテストの話題をこのブログに書いた。コンテストに参加しない学習者もいる(そのほうが多い)から、キルギスでの日本語学習者はもっといる。
全世界での日本語学習者の数は300万人とのこと(ウィキペディア)。日本語学習者の多い国は韓国(96万人)、中国(82万人)、インドネシア(71万人)などとなっている(外務省)。
「300万人」という数字が客観的に見て多いと言えるのか、そうでないのかは分からない。もちろん、英語、中国語などに比べれば、圧倒的に少数であるのは間違いない。それにしても、である。300万人の人が、(そしてかつて学習したことのある人を含めればさらに多くの人が)、日本語を学んでいることに、私はある種の感謝の念を抱くのである。
「彼らは何で、何のために日本語を学ぶのだろう?」と、日本語を学習する人に会うたび、頭の片隅で疑問に思う。
かつての、日本が世界一の経済力を持っていた頃であれば、「日本語でビジネスをするため」という理由もあっただろうが、すでに斜陽化し始めており、相対的な経済力はますます衰退していくのは間違いない日本にあって、わざわざビジネスのために日本語を学ぶメリットは少ないはずだ。
それに、300万人の日本語学習者すべてが、ビジネスで通用するほどの日本語習得レベルに達することはまずあり得ない。我々日本人の英語力を考えれば分かることだ。
ただし、インドネシアの71万人という数字は、日本との労働者市場の協定で、一部職種(看護士など)での出稼ぎの機会があるために、そこに期待して学習していると読めなくない。これはビジネス(仕事)目的の学習と言える。
日本のオタク文化に憧れて、原語で日本のアニメ、マンガ、ゲームを理解したいから、という者もいるそうである。確かに、海外の日本語学習者の中には、アニメキャラのグッズを集めたり、自らマンガを描く者も見かける。趣味が高じて外国語習得まで到るならば、それは立派なものだと感心してしまう。オタク文化と言わないでも、日本文化全般に関心を寄せて、日本語を学ぶ者もいることだろう。
他にも色々と日本語を学習しはじめたきっかけはあるだろう。きっかけは千差万別だとして、我々の母語である日本語に関心を持ち、学んでくれる人々がいることをありがたく思う。
旅行などで海外に行って、現地で多少でも日本語ができる人と会った時の、いわく言い難い安堵感というのを感じたことがある人はいるだろう。「バス停、あそこ。近いです」みたいな言葉でも、自分の馴染んだ言葉で言われると嬉しいし、なぜか安心するものである。英語が得意でなく、まして現地語なんてまるで分からぬならば、なおさらそうである。
英語、中国語に比すれば、全然少数派に過ぎないのではあるが、世界の各地に、日本語でやりとりができる人たちが存在してくれていることを、私はありがたく思う。
昨年(2011年)の12月に、キルギスで日本語を学習する生徒・学生たちの2つの日本語コンテストがあった。一つは首都ビシュケクの大学生を対象にしたもの。もう一つは地方で協力隊員から日本語を学んでいる子供たちのもの。
この2つのコンテストは成り立ちも主催者も別々のものであったが、キルギス協力隊員たちが深く関与していた。私は運営にはまったく関わっていなかったのだが、たまたまどちらも開催日に現地にいたので陪席することができた。
首都のコンテストは、日本語学科がある複数の大学の共同開催で、「作文」と「朗読」の2つの部門が設けられていた。出場していたのは日本語学科の学生たちで、作文部門の入賞者の作文はしっかりとした内容だったし、朗読部門も結構長い文章を読み上げていた。
会場は大学の講堂を使っており、参加者・聴衆を含め250人くらい入っていたのではないだろうか。
ビシュケクのコンテストは10回目を迎えたとのことで、過去の最優秀賞受賞者からは日本企業等との交渉での通訳として活躍している人もいるようである(その人は今回、審査員の一人として参加していた)。キルギスにおいてこのコンテストが、日本語分野での職業キャリアを積むための登竜門の一つになっていると考えられる。
地方で開催されたコンテストのほうは、町庁舎の講堂を会場にして行われ、50~60人くらいの人が入っていた。こちらは協力隊の一人が企画したものだった。
こちらのコンテストの参加者は、5つくらいの村から集まった、それぞれの村に派遣されている協力隊員から日本語を教わっている子供たちである。もちろん、日本語コンテストなどというものに参加すること自体が初体験である。
首都の日本語学科の学生たちと比べれば、当然のことながら格段に日本語習得のレベルは下であるが、それぞれの実力に見合った発表で、味わいのあるコンテストだった。
普段、「日本語教師」として村の子供たちに日本語を教えている隊員からは、「他の村の学習者の熱意を見て、子供たちが触発されたようだ」とか、「練習を十分にしないでも大丈夫と高をくくっていた子が、他の子たちの発表を聞いて、『次回はもっとちゃんと準備をしなければいけない』と言っていた」など、子供たちに刺激を与える場となったようだ。
日本語の学習目的も習得レベルも大きく異なる、首都と地方それぞれの日本語コンテストの参加者たち。この中で日本語を生業とする者は1%にもなるまい。しかし単に日本語に留まらず、参加した個々人が何らかの知的な刺激を受けたのだとしたら、この2つのコンテストはその意義を果たしたと言えると思う。
2011年から2012年の年越しは、キルギス協力隊の何名かと過ごした。温泉風呂のある山小屋に宿を取り、雪山の中での年越し。シャンパンで乾杯をしたり、花火をしたり、宿の従業員たちとダンパをしたりして過ごした。
その時に、習字道具一式を持ち込んで、一人ずつ「2012年の抱負」と題して書き初めを行った。
筆書きの上手い下手は脇に置いて、各人の性格を映し出すような字体で書かれた字句。書かれる言葉にもその人らしさが反映されていて面白かった。
その数日後、山小屋での新年会に参加しなかった隊員と会った際、皆が書いた書き初めを持っていって、それぞれの書き初めを誰が書いたのかを当てるゲームをした。名前のところを隠して、字体と言葉から誰かを当てる。結構、当たるものである。これも書き初めの二次利用として楽しめた。
余談だが、書き初めをする際、「さあ、筆おろしをしましょう」と言っている人がいたが、「筆はじめ」の誤りに気付いていなかったようだ。「姫はじめ」と言っていた者もいたが、さて誰だったかな…?
え? 「キルギス協力隊はレベルが低い」って? そう言うなかれ。皆、日本語を忘れるほど、現地語になじみ深くなっているのだということにしておかれたし。
協力隊ブログからはかなりテーマが外れているのだが、勢いで続ける。
パソコンの日本語変換ソフトに、私には解せないことある。一部の言葉を敢えて変換候補から外していることである。特に障害を表す言葉はそうである。
例を挙げれば「きちがい(気違い・気狂い)」「めくら(盲)」「つんぼ(聾)」などである。
「福祉に従事するお前がそんなことを言ってよいのか!」と糾弾されるかも知れない。確かに上に例示した3つは、現在は「精神障害者」「視覚障害者」「聴覚障害者」とそれぞれ表記される言葉である。それらの障害のある人に向かって、上のような呼び方をするのは人権侵害となるし、「己の欲せざる所は人に施す勿《なか》れ」という孔子の教えを引き出すべくもなく、他人に使うべきでないと考える。
しかし、そのことと言語史の問題は別ではないか? 現に、日本語の歴史の中で上に挙げたような言葉が使われた時代はあったわけだし、現在でも文章中で書くことはあり得る(時代ものの小説を書くとか)。侍の小説で「そこの盲坊主!」という台詞を「そこの視覚障害の僧!」と書き換えることはできない。
「いや、どんな場合でも、そんな言葉を使うのはけしからんのであって、変換候補から除外するべきだ」と考える人もいるだろうが、そういう人たちが言う「そんな言葉」という規定は、どうしたって恣意的な基準に依らざるを得ないわけで、そういう基準で「これは正しい、これは悪い」と規定するのは危険なことだと思う。
日本語変換ソフトの機能で、日本語の誤用・不適切用法があった場合に「《ら抜き》言葉」とか「近ずく《近づく》の誤り」とか出るのだから、もし、通常は使うことが適切でない言葉があるなら、「蔑称語・差別語」と表示して注意を促せばどうだろう。
一頃、昭和40~50年代のテレビ番組(ドラマ、アニメ)の再放送で、「ピー」という音消しが盛んだった頃があった。「木枯らし紋次郎」なんかは、再放送では「このP野郎! てめぇなんかPに行って、PとPしやがれ!」みたいなことになっていて、何を言っているんだかさっぱり分からないシーンも度々あった(それが返ってドラマの迫力を出していたかも知れないが)。
近頃は、そういった再放送ドラマでも、冒頭に「このドラマには現在では不適切・差別的な表現が含まれていますが、作品放送時の時代背景を考慮し、ノーカット・無編集でお送りします」と断りを入れて、作品のオリジナルのまま放送することが増えた。私はそれで良いと思う。やたらと「ピー、ピー」鳴っていては意味が分からなくなるし(ギャグとしては良いが)、外部からの非難を恐れて再放送を止めてしまえば、我々は過去の作品を見る機会が減ってしまう。
日本語変換もそれと同じように対処すれば良いと思う。
コンピューターの日本語変換は、時として予想だにしなかった日本語を表示してくれ、思わず笑ってしまうことがある。
最近のお気に入りは、キルギスの首都の「ビシュケク(英語ではBishkek)」を打ったら、「美酒けく」と出たので、「これは行けるぞ!」と思い、「けく」も当て字で探していった結果、「美酒華宮」という漢字に行き着いたことである。こういう当て字を探すのは、コンピューターの日本語変換は大得意ではないか?
不正会計で大騒ぎになった漢字関係のあの団体も、「変“漢”ミスコンテスト」なんていう洒落た企画をしているようである。面白いので一読あれ。
それにしても、「美酒華宮」。酒と女の似合う街…。
そこんとこ、夜露死苦!
ブラインドタッチで手元を見ずに文字入力をするのは、手元をいちいち見ながら打つよりも効率は良い。
しかし、疲れている、焦っているなど、自分の状態によっては打ち間違いも多く出てくる。私は、午前中にやる入力作業では打ち間違いが多いような気がする(いや、言い訳かも知れない。午後も同じくらい打ち間違えているかも)。
焦ってカタカタと打っていて、度々起こる間違いというのがある。自分の名前、所属する組織の名前なんかは入力する回数が多く、同じ様な打ち間違いをすることも多くなるものである。例えば、私がこのブログで使っているペンネームの「ウクレレちゃん」であるが、「ウクレレ」をローマ字入力で打つと「ukurere」である(※楽器のウクレレはukuleleと表記する)。ここでタイピングするキーの順番を打ち間違えて「kuurere」とか「ukuerer」とかにすると、変換キーを叩くと「くうれれ(食うれれ)」とか「うくえれr(浮くえれr)」といった訳の分からない言葉が登場する。
昔の職場で、「おれ、こういうことよくやるんだよねぇ」と話すと、職場の中にも「私もよくある」という人がいて、飲み会の時などには打ち間違いで出てくる名前で呼んでふざけたものである。
インターネットの検索サイトでは、こうした打ち間違いも考慮して結果を出すようになっている。例えば「んhk」と入れると、「もしかして”NHK”?」と出てきて、「NHK」関連の検索結果が出る。
今や何でもかんでもパソコン、携帯電話、インターネットを使うことが前提になっている時代で、それらを持っていない、あるいは機能を使えない人にとっては、本当に不便な時代になっていると思う。
私自身は、一般向けに提供されている物は理解して、使えるという気がしているが、あくまでも自分で思っているだけで、本当は「一般向け」とされている物の何分の一しか分かっておらず、使いこなせていない落ちこぼれかも知れん。ウェブサイトのサービスだとかスマートフォンだとか、こういったものは高度多機能化しているから、どこまでが一般向けなのかさえ分からなくなっている。
パソコンを使う多くの場面で、キーボード入力は必要となる(身体障害者用にマウス操作やペンタッチで入力するのもあるが、障害がなければキーボードを使う人が多いだろう)。
キーボード入力は、パソコンが普及する前に、ワープロ専用機が普及しており、その頃にキー配置を覚えた世代もあるだろう。キーボード入力では「ブラインドタッチ」が一つの目標地点とされる。これができるか否かで入力スピードに格段の差が出てしまう。キーボードを見ながら、右手と左手の人差し指でタイピングをするやり方しかできない人もいるが、それはそれで仕方のないことだし、バカにするような話ではない(タイピングのスピードではなく、タイピングする内容が重要なのである)。しかし、効率の面ではやはりブラインドタッチが優れている。
私もブラインドタッチはできる(威張って言うのではない。今やブラインドタッチができる人はごまんといる)。私は英語アルファベットのいわゆるQWERTY(左手のホームポジション一段上のキーを左から読むとそうなる)配列でローマ字打ちをしているが、日本語入力にはかな打ちのほうが効率がよいと聞いて、かな配列も練習したことがあった。一応覚えたが、スピードが上がらず、結局ローマ字入力に戻った。
ワープロが普及していった時期、NECの文豪シリーズか何かだったと思うが、QWERTY配列ではなく独自のキー配列のキーボードを出していたと記憶している。テレビCMには林マリ子が出ていたと思うのだが…。QWERTY配列に慣れてしまって、この配列に特別に疑問を持つこともないが、実はもっと効率がよく便利なキー配列があるのかも知れない。上に書いたメーカー独自のキーボードを使っていた人の中には、その後もその配列のキーボードを使い続けている人もいると聞いたことがある。ネットで調べればそういう商品が見つかるかも。
日本語を入力するのに、ローマ字(つまりアルファベット文字)で打ち込むというのは、ひょっとしたら不自然、というか脳内の処理プロセスとしては、一度、寄り道をしているんじゃないかしらん? と、思ったりもする。しかも、パソコン、ワープロで打ち込むローマ字というのは、正確なローマ字でもない。例えば、「ん」の後にな行の音が続く場合(こんにちは)や、「ん」の後にや行が続く場合(きんようび)は、「n」を2回叩いて「ん」を確定させる。
今年発売された携帯端末(だったか?)では、音声認識機能が一つの売りだったそうである(ただし英語への対応で、日本語は未対応)が、この機能が一般的になれば、文書作成の方法は劇的に変化するはずだし、おそらく人間の思考法そのものが変わるんじゃないだろうか。ワープロ普及で、漢字を書けなくなった人が増えたと言われるが、音声認識入力が普及したらその辺はどうなっていくだろう。変換結果を見て確認する作業は残るから、その点では現状と変わらんのかな?
上の写真は、小店で売られていたのを買ってきた物。30ソム(50円)。家族5人で2日くらいで食べきる感じか。私一人なら4~5日間くらい分ある。
たいていの家では、その家の女(嫁、嫁がいなければ母親)が自家製のパンを焼く。
日本語サイトでパンの作り方を見ると、材料に卵を入れる作り方と、そうでない作り方があるようだ。キルギスのほとんどの家庭では卵を入れていないと思う。私はまだ卵を入れて生地をこねているのを見たことがない(そこまで注意して見ていたこともないのだが)。
女たちがパンをこねて、オーブンで焼くのを見ていると、すごく簡単そうである。自分でもできそうに思う。帰国したら絶対作ってみようと思うのだが、実際のところ、家庭によってパンの味は色々である。塩気の多寡《たか》。焼き上がりの硬軟。これだけ個性が出るということは、作る過程での調整ポイントがいくつかあるはずだ。
思うよりも難しいに違いない。
昨日、ローマ字だけで書いた文章を、日本語表記で書き直した。
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協力隊には、安全管理のため、任国で携帯が貸与される。
私たちが使う携帯は海外対応の物で、N●KIA製である。そのため、日本語の文字表示はできない。
SMSでメッセージを送る時は、英語のアルファベットを使って、ローマ字で書く。
ローマ字を書く時、スペース(space)を入れない人がいて困る。
Supesuwoirezunikakuto,konnanimizurakunarunoda!
(スペースを入れずに書くと、こんなに見づらくなるのだ!)
何でも書けば良いというものではないのである。読みやすく書くという気遣いも必要である。
しかし、そもそも、ローマ字の正しい書き方というのが決められていないようである。だから「watashi wa(私は)」も「watashi ha(私は)」も混在しており、「Nihon e(日本へ)」も「Nihon he(日本へ)」も正解とされているようである。
協力隊員同士のSMSでは、省略もよく使われる。「よろしく」は「4649」。「野田さん」は「野田3」など。
N●KIA携帯に中国語対応のがあるのを見たことがあるが、日本語も対応できるのだろうか? ひらがなかカタカナだけでよいので、対応させてくれたら便利なのだが…
ビシュケクにあるロシア正教の寺院。
ロシア正教の場合、「寺院」で良いのかな? キリスト教だからやはり「教会」か? 「会堂」とはユダヤ教的な呼び方になってしまうか…? 「礼拝堂」もあり得る。
中にも入って、礼拝に参列したが、儀礼が分からず、周囲の人に合わせて頭を下げていただけ。
ロシア正教の寺院の中は、参列者が座るためのベンチがなく(脇の方にわずかに置かれていた)、全員、ずっと立ったままでの礼拝。高齢の参列者は、疲れると脇のベンチに腰掛けて礼拝していた。
私は人との約束があったので、礼拝の途中で中座したが、最後まで参列していた別の人によれば2時間半以上の礼拝だったそうである。
聞いたことのないロシア語の賛美歌(と呼ぶのかは不明)を聞けた。日本人が聞き馴染んでいる賛美歌はアメリカのプロテスタントのものが多いのではないかと思うが、ロシア正教には別の歌があるようだ(一つも聞いたことのある歌がなかった)。
礼拝の儀礼中、火を灯《とも》した蝋燭が使われることが多く、何か重要な意味が付けられているのだと推察した。礼拝堂内の脇に、信者が蝋燭を立てる場所があり、そこに小さな蝋燭を立てていた。蝋燭は寺院の敷地内に売り場があった。ちょうど、日本の仏教寺院でもそんな感じであるから想像しやすいだろう。蝋燭を立てる台も似たような物である。
火は宗教儀礼では特別な物として用いられることが多い。多くの宗教で火の使用がある。そう書いていて思ったのだが、イスラム教では火は使わないようだ。これは新たな発見!
Kyoryokutai niwa, anzen kanri no tame, ninkoku de keitai ga taiyo sareru.
Watashitachi ga tsukau keitai wa kaigai taiou no mono de, N*KIA sei de aru. Sono tame, nihongo no moji hyouji wa dekinai.
SMS de message wo okuru toki wa, eigo no alphabet wo tsukatte, romaji de kaku.
Romaji wo kaku toki, supesu(space) wo irenai hito ga ite komaru.
Supesuwoirezunikakuto,konnanimizurakunarunoda!
Nandemo kakeba yoi toiu mono dewa nai nodearu. Yomiyasuku kaku toiu kizukai mo hitsuyou de aru.
Shikashi, somosomo, romaji no tadashii kakikata toiu noga kimerarete inai youdearu. Dakara “watashi wa” mo “watashi ha” mo konzai shiteori, “Nihon e” mo “Nihon he” mo tomo ni seikai to sarete iru youdearu.
Kyouryoku taiin doushi no SMS dewa, shouryaku mo yoku tsukawareru. “Yoroshiku” wa “4649”. “Noda san” wa “Noda3” nado.
N*KIA keitai ni chuugokugo taiou noga aru nowo mita koto ga aru ga, nihongo mo taiou dekiru no darouka? Hiragana ka katakana dakede yoi node, taiou sasete kuretara benri nano daga…