2011/06/16

コスト見積もりに環境倫理学の視点を

6/14のNHKラジオ「夜7時のニュース」を短波放送で聴いていたら、トップでイタリアの国民投票のことを報じ、最後に付け加えで、「イタリアの発電は約80%が水力で、10何%が火力。それで供給できない分は他国から購入している。そのため、イタリアの電気料金は、周辺国よりも1.6倍ほど高くなっている」という解説を入れていた。

これって、「原発を使ったら電力が安くなるよ~」っていう刷り込みじゃないのか? と疑ってしまった。「自然エネルギー発電だと高くつくよ、どうする、どうする?」みたいな。(そこまでのプロパガンダではないと信じたいところだが、何とも不自然な印象はあった)

電気は日常的に使うものだから、高いよりは安いほうが嬉しい。しかし、現在、自分が支払う電気料金の話をしているだけで良いのか? 福島原発事故が起こるまで、正直なところ、見て見ぬふりをしてしまっていたが、放射性廃棄物の処理にかかる歳月・費用はどれくらいなのか、再び大事故が起こった時の緊急処理費用とか、そこに住めなくなった人たちの生活の保障とか、そういうことも含めて話さなければ、「●●発電だと電気代が安くなりますよ~」という話はできない。

昔読んだ、加藤尚武『環境倫理学のすすめ』に環境問題を考える上で柱となることの一つに「世代間倫理」があると書かれていた(問題の柱は三つあって、「世代間倫理」のほかに、「自然の生存権の問題」「地球全体主義」である。ほかの二つを忘れていたので、Amazonレビューで思い出して書かせてもらった。ちなみにこの本の改訂版『新・環境倫理学のすすめ』が出ていたのも、今回知った)。

世代間倫理とは、通常、我々の世界において加害者と被害者がいれば、現在において賠償が行われる。AがBに貸したデジカメを、Bが壊してしまった、ということであれば、BはAにそのデジカメを弁償する。

しかし、環境問題においては、そのようなリアルタイムな関係を超えて、未来世代が被害者になる。例えば、今の世代が、地球にある石油をあと10年で全部使い切ったとする。そうすると、11年後、20年後の世代は、石油資源を使うことで得られる快適な生活、知的活動、その他諸々を享受することは不可能になる。100年後の人々が「ちくしょう! 100年前の奴らが使い切りやがったから、俺たちはこんな惨めな生活を強いられるんだ! う~、寒い、ブルブル」と言ったところで、恨む相手はもうこの世にいないから、賠償してもらうことは不可能である。

だから、今の世代に対して「●●発電だと、電気代が安価でっせぇ」という話は、私は眉唾だと思うのである。現世代が安く電気を使った代償として、未来世代が現世代の10倍の料金を払うことになるとしたら、あるいは電気そのものが使えなくなるとしたら、それは不公平だと思う。多分、これは電気だけの話ではない。水とか、空気とか、食べ物とか、どれをとっても潜在している問題である。それに「●●発電」というのは、原発だけのことではないはずでもある。

村上春樹のカタルニア演説でも、「私たちは『効率』を優先させて、ノーと言うべき原発にノーと言わずにいた」とあったと思うが、我々が「効率」的だと思ってきたもののスパンを変えなければいけないのかも知れない。今は効率的に思えても、将来的には非効率・被害甚大ということがあるからである。

0 件のコメント:

コメントを投稿