2011/06/02

日本とキルギス、インフラ不足はどちら?

日本でも、洗濯を手洗いに切り替えたら、節電になるし、肉体労働だから運動にもなって、一石二鳥ではと書いた。ひょっとしたら、3・11大震災後の電気供給不足への不安からそういう話は既にあるのかも知れない。

個人的には大いに結構と思うのだが、それは今、キルギスで手洗いが基本の生活をしているからそう思うだけであって、日本にいたらやはり洗濯機に放り込んでしまうだろうとは思う…。

さて、仮に洗濯を手洗いにするとして、その他のことも途上国を見習って取り入れてみてはどうかと考えてみたが、途上国でできているから先進国でもできるとは限らないのだと気付いた。

例えば東京で、各家庭への上水の供給を止め、家庭ごとに水を汲みに行ってもらうというのは、あり得ないことであるが、もしそういう生活様式になったと空想すると、そもそも水を汲む場所・設備がない。せいぜい思い浮かぶのは、断水の時に自衛隊の給水車が来て、住民が容器を持って並ぶという光景である。

だが、昔は東京だって上水道なんてなかったのだから、住民は水を汲みに行っていたはずである。井戸、汲み上げポンプなんかが、町・村にあったはずだ(これは今のキルギスの村生活を念頭において想像している話である。かつて、アフリカに行った協力隊仲間に聞いたのは、アフリカでは泉のような所まで水を汲みに行くそうである。キルギスの村に汲み上げポンプがあるのは、ソ連時代の恩恵であろう)。

「家の外に水を汲みに行く」ということを取ってみれば、日本はキルギスよりもインフラが整っていないと言える。インフラとは「産業基盤・生活基盤を形成する構造物の総称」(『明鏡国語辞典』、「インフラストラクチャー」の項)のことである。先進国のインフラのほうが高等とは限らない。上水道がない地域には、上水道がなくても生活できるためのインフラがある(公共の水汲み場、用水路など)。

蛇口をひねれば飲用水が手に入る生活は、便利さで勝るのは事実だが、ではそれがない所は「インフラが整っていない」のかと言うと、否、「別のインフラがある」と表現したほうがいいように思う。

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