2011/04/09

キルギスの飲酒問題 (2)

飲酒常習者は、アルコール依存症になる危険が高い。昼間、村の路上を、泥酔してふらふらの千鳥足で歩いている男たちを毎日のように見ているが、中には何度も見かける者もいる。そういう人はアル中と見てほぼ間違いない(素人判断だが)。

ところで「アルコール依存症」と「アルコール中毒」の違いはなんぞや? と疑問に思って、ネット検索で出てきたサイトを読んでみた。

「アル中」とは「アルコール依存症」のこと。医学的には「アルコール依存症」が正式な呼び方です。(略)「アル中」という言葉には「飲んだくれて道に転がっているどうしようもない人」「ダメ人間」という蔑視的な含みがあるため、「アルコール依存症」という正しい呼称を使いましょう。
http://www.ask.or.jp/alchu.htmlより転載)

(「アル中」は蔑称なのね…。「正しい呼称」って言われてもねぇ、という気がしないでもないが、そのあたりの区別が大切だと思っている人もいるということは覚えておかなければ。)

さて、日本語で書かれたアルコール依存症、アル中のサイトを読むと、「アルコール依存症は病気の一つです。本人の意志の弱さやだらしなさが原因ではありません」と書かれている。本人の嗜好で飲んでいるのではなく、病気なのだから、きちんと治療しましょうという話になっていく。

こういう話がキルギスにはないんじゃないかと思われる。「○○は酒好きだから、いつも昼間っから飲んでる」とか「あいつは大酒飲みだからねぇ…」という括《くく》りで片づけられている。誰もそれが病気だとは思っていないのではないか?

いや、実は日本でだってアルコール依存症という病気が十分に知れ渡っているかは確かではない。だからこそネットなどで「アルコール依存症は病気の一種です」と発信しているのだろうし。ただ、その情報(アルコール依存症は病気であること)に行き着く可能性は高い。

キルギスでは果たしてどうなのだろうか? それを治療が必要なものとして認識している人はどれくらいいるのだろう? ウィキペディア「アルコール依存症」の項では、アルコール依存症は本人が認めたがらない「否認の病」であると書かれていた。病気を認めると酒を飲めなくなってしまうからだという。そうであるなら、なおさらアルコール依存症は病気として認識されづらいだろう。

飲んでいる本人たちは「俺たちは酒が強いんだ」と威張って飲んでいる。これでは病識を持つことは難しい。中には「飲むのは悪いのは分かってるけど、飲んじゃうんだよ」みたいなことを小声で言っている人もいた。こっちのほうが依存症としては深刻なような気もする。

またウィキペディアには、依存症者の周り(おもに家族)には、小遣い銭を与えたり、飲酒によってしでかした不始末を、本人に代わって謝罪したりする人が存在することが多いとも。尻ぬぐいをすることで、「自分は役に立っている」という存在意義を味わい、共依存になってしまうのである。(→ ウィキペディア

「どうしてこんなアル中男と連れ添っているんだろう」とこちらが思うような夫婦を見ることがある。これについては日本とキルギスでは事情は違うような気もするので、「共依存」と括れないケースが多いのではないか? 離婚することの世間体とか、離婚後に行く場所のあてないとか…。

幻聴、被害妄想、家庭内暴力、肝硬変、肝臓癌などなど、アルコール依存症者の末路について書かれたところを読むと、自分も酒を飲むのが怖くなってくる。

安い値段でウォッカが買え、その害に関する啓蒙はなく、病気だと気付く契機になりそうな情報もない(のかどうかは私の語学力だけで判断してはいけないが)。キルギスが国力を高めていく上で、大きな障害になっているように思える飲酒問題は、なかなか根が深い。

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