2011/02/14

手を動かすこととバーチャルなこと

「手が荒れるほど働く」ことを象徴的に捉えると、「実際に体を使って物事をする」ことの大切さが語られているように思う。

一時期「バーチャル●●」という言葉が隆盛で、昨今は言葉の新鮮さはなくなったものの、方向としてはそういうものが生活にさらに入り込んできている。

映画だって「3Dだ、立体だ」と宣伝されて、見に行ってみれば、確かに映像は立体的だが、ストーリーは平面的で薄っぺらかったり…。チャップリンの映画は3Dでないから今の映画よりも劣っているかというと、全く逆だ。まして、彼の映画には色だってないゾ。

いずれポルノ映画・AVの業界でも3Dものが登場することだろうが、どんな感じになるんだろうかね?(え、もう出てるの? …あってもおかしくはないね)。みんな、赤と青の眼鏡をかけて画面を見るんですかな?

バーチャル技術で便利になっていることもたくさんあるのは事実だと思う。しかし、最終的には「実際にやってみる」ことには敵わないのではなかろうか?

自動車の教習所ではバーチャル運転の講習をやらされたが、加速感、ブレーキングの減速感、人をはねた時の衝撃等、全然ない。あれはあくまでテレビゲームの延長だ(いや、テレビゲームのほうがスピード感はあるな)。二輪車の教習でも、テレビゲームみたいなのでバーチャル運転をしたが、加速感・減速感に加え、風圧・バランス感もなし。受講生達はしらけながらやっていた。あの状況で「二輪車の運転で気を付けることは…」と講義をする教習所の先生の仕事も大変だと思った。

躰《からだ》・脳の発達においては、実際に五感からの刺激が入ってくることが重要な役割をしている。視覚機能の正常な猫の視力を、あえてそれが機能しないように手術をし、その猫が成長してから視覚機能を元に戻しても、その猫は物を見て行動することが上手くできなくなってしまう。そんな実験の話を聞いたことがある。残酷な実験ではあるのだが、その示唆するところは興味深い。

人間で同じような実験をすることはもちろんできないが、テレビやテレビゲームに幼少のころから馴染み、バーチャルな刺激しか与えられない子供たちは、ある意味、件《くだん》の猫と似た実験をしているようなものかも知れない。生物には、ある時期にしか習得できないこと・学べないことっていうのがあるのだ。もちろん、テレビゲームから学べることもあるはずだから、テレビゲームを100%悪者にするつもりはない(でもテレビゲームって、視覚刺激が圧倒的に優位過ぎて、他の感覚刺激が乏しすぎるんだよね)。

自分の手先・感覚器を鍛錬して、その道での技を高めていく人。「職人気質《かたぎ》」なんて言葉もあるが、そういう人たちに一目二目置くというのが、日本人って割と強くあるのかも知れない。職人世界の修行話なんかでも、「親方・先輩の技は見て盗め」のような格言が好んで語られてると思う。

職人を大事にし、職人気質に尊敬を持つ文化。そんなところに日本の良さがある(あるいは「あった」)のではないかと、キルギスの地で思うのである。

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