2011/02/01

ブログを書くことについて (「ブログ=俳句」論)

前回協力隊に参加したのは8年前の2002年。当時はブログを書いていなかった。

なにせ、その頃はまだブログというのが出始めたあたりで、ブログへの認知度は高くなかったし、無料でブログ開設なんてできたのかどうかも私は知らない。できたとしても、多分、あの頃はやらなかったろうなと思う。

ウェブサイトを作って任国の状況を紹介している協力隊隊員もいたようだが、ウェブスペースは大抵は有料だったんじゃないかと思う。それに当時の私はウェブサイト作成のためのHTMLというコンピューター言語をほとんど使えなかったから、実現するのは難しかった(今は、当時よりはできるぞ、えへん!)。

あれからインターネットを巡る状況は変わって、今や誰でも無料でウェブサイトもブログも作れる時代だ。作るのも簡単。元々あるデザインの中から選んで、あとは文章を書いて送信すればよい。

キルギスに来てから、私もブログを開設し、体験したことや雑感を書いている。私がブログを書くのは、ひとつには自分の体験を記録として残すため。色々と珍しいことを体験・見聞していても、あとになると結構忘れていることが多い。ブログに投稿しておけばデータとして残る。

もうひとつは、友人・知人たち、特に日本にいる人たちに近況を伝えるため。メールでのやり取りもあるが、毎日のように十数人の人にメールを送るのは面倒であるし、先方にしても「今日はこんなことがありました」というメールを毎日送られるのは閉口するだろう(私宛にそういうメールがあったら、ちょっとストーカーではないかと疑う)。

そういう訳で、ブログのURLをお知らせして、興味のある方に、時間がある時に見てもらえれば、このブログを開設した目的の過半は果たせている。

日本にいた時も自分のブログを書いていた時期があった。携帯電話の付属サービスを使ってやっていたので、携帯を解約したら自動的にそのブログは消滅してしまった。

その頃にも感じたことであるが、ブログを書き始めると、周囲に対する自分の視野が変わるようである。というのも、毎日にせよ不定期にせよブログを更新するためには、書くためのネタ探しが必要になってくる。視野の変化の一つには「何かブログのネタになることはないかな?」という視点で周囲を見るようになる。そもそも言葉というのは、自然界の現象をどう切り取るかという役割をするものだから、切り取ろうと思えばなんだってネタになるものである。

もう一つは見聞したことについて「ブログに書くならどういう切り口、どういう表現で書こうか?」と考えるようになる。一つの現象についても、どこからどこまで切り取るか、どういう表現で書くかによって内容は変わる。ギャグ調、不満爆発調、事実記述のみと文体の問題もある。そんなことを頭の中で考えていると、その場で物事を為《な》している自分とは別に、それを観察している自分もいるようなものである。

これと同じようなことを俳句をやる人の話として聞いたことがある。確かラジオの企画で、俳句経験のない若者に定期的に句会に出てもらい、その間に作った句を発表するというものだったのだが、その若者が「俳句をやるようになって、周囲のものに『これは句にならないかな』と思いながら注意を向けるようになった」と感想を言っていた。俳句には「季語」という約束があるから、自分の周囲のものに季節を感じようとするアンテナが建ったのだろう。私にとってのブログも同じような機能を持っていると思う。

おそらく、ブログを書いていなければ、キルギス生活の記録は今の100分の1も残さなかっただろうし、もっとボーッとして日は過ぎていたはずだ。ブログがあればこそ、「ボーッと過ごした」ことさえもネタの一つになる。

友人・知人の何人かには、携帯で撮った写真を貼り付けるだけでもいいから、自分のブログを持つように勧めたことがあるのだが、「そのうち時間ができたらやるかも」という返事があっただけで、その後一向に彼らがブログを始めたという連絡はない。

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