ウォシュレット(自動洗浄式トイレ)が世の中に出回り始めた頃、私は学生だったと記憶しているが、あれで尻を洗ったことがあるかどうかみたいな話が仲間内で交わされたものである。
男同士でそういう話をしているとたいてい誰かが「”ビデ”ってボタンがあるけど、あれは何に使うの?」という疑問を呈《てい》するのであった。私もその場で回答できない自分の無知を恥じて、密かにその意味を調べた。調べてみれば、我々男子学生がなんのことか分からないのも無理はない物だとわかった。
さて、そのビデは元はヨーロッパで作られた物であったはずだ。一般庶民の家庭にまで設置されていたのかはわからないが、ずっと昔からあった物のはずである。今でも、海外のホテルに行くと、便器の横にもう一つ別の便器のような、さりとて形がちょっと違う物が並んでいる所を見ることがある。あれに付いている蛇口のような物が上向きになっている所から考察するに、あれは現代版ビデなのだろう。
ここで不思議なのは、昔からビデという器具を持っていたヨーロッパでウォシュレットの開発につながらなかったということである。だって、ビデからウォシュレットへ連想するのって、つながりやすいように思えてしまうのだもの。
これは決して、ウォシュレットを開発した日本のエンジニアを「二番煎じ」と卑下しているのではない! むしろ、ビデ文化がなかった日本人だからこそウォシュレットを連想できたのだとさえ思う。というのも、我々は今目の前にある物で暮らして不便を感じていなければ、そこから新しい利器を作ろうとは思わないものだと思うからである。
ビデで事足れりと思っている人に、細い管から一定の圧力で水を噴射して、排泄後の汚れを落とす自動機械を作ろうとは発想しづらかったはずなのだ。だからこそ、そこに新しい商品の可能性を発見し、開発した会社・エンジニアの努力に一種の感動を覚えるのである。
同時に、それを思いつかなかったヨーロッパの人々を笑うこともできない。どの道、我々だって同じようなものである。今の状況に不便を感じていなければ、それを改善しようとか、新しい道具・やり方を開発しようとは思わないのである。物事に飽き足りなくなるというのは、人類に進歩をもたらした最大の要因だったとさえ思うのである。
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