以前の投稿「現地の人は年上に見える ③」で、村の人たちは家事や家畜の世話のような仕事が多いので、手肌があれやすい、またそれが彼らが仕事をしている証であると書いた。
先日、とある場所で会った男性から、「手を見せてほしい」と言われたので手を差し出すと、私の手を触って「ふぅん、これが日本人の手ね」と言われた。やや侮蔑的な言い方だったように感じたのだが、その彼が続けて「俺たちの手は仕事をしているからこうだよ」と、皮の分厚く、肌の荒れた手を私に見せたのだった。
まさに、自分が先のブログで引用した『イワンのばか』(トルストイ作)に出てきた話と同じなので、内心、自分で苦笑いしてしまった。
『イワンのばか』では、怠け者が食事の時だけ我先にテーブルにつくので、給仕の女が相手の手を見て、仕事をしているか判断するというものであった。土地を耕し、食べ物を作る。そういう労働が尊いのだよ、というトルストイの思いであろう。
キルギスもソビエト連邦の一員であったから、そういうトルストイの思想を受け継いでいるのだろうか? いや、そういう考え方は、どこの文化でも当たり前にあるものなんじゃないだろうか。日本語でも「働かざる者、食うべからず」と言うし(ひょっとしたら、これは外来の警句が訳されて定着したものかも知れないが)。
私など、「福祉サービス業」に従事していたような者にとっては、土地を耕す・魚を獲る・物を加工生産する仕事の人に対しては一種の憧れと畏敬の念があるが、サービス業もそれはそれで仕事としてやりがいのあるものだと思うので、「手が荒れている = 仕事をしている」という一つの図式だけでは、仕事の本質は語りつくせないと思う。
実際のところ、私も福祉施設に勤めている頃は、「入浴介助」という業務があって、一日に30人くらいの人の入浴のしていた。その結果、冬場は特に手が荒れて困ったものだ。同業の人に聞くと、結構みんなその悩みはあったようだ。
私に手を見せろと言った男性は、私の手を見た後、「これがキルギス人の手だ」と自分の手を私に示した。確かにがっちりと厚い皮の、肌は多少ひび割れがあり、爪のすき間には土が入って黒ずんでいる、立派な「働く手」であった。
「オレだって、働いてない訳じゃないゾよ」と思う部分もあったが、自分の手を誇らしげに見せるという彼の態度に、一種の清々《すがすが》しさを感じたのも事実である。
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