2011/04/08

「福島」は「フクシマ」になった (2)

日本の歴代首相たちが、国連会議の場などで演説する機会があれば、「唯一の被爆国日本として、核の悲劇を二度と起こさないように尽力する」ということを言ってきたことが思い出される。

その日本で福島原発危機が起きている。

原発は核兵器ではないから、国家の代表者たちが言ってきたこととは矛盾しないのだろうか…。

福島原発の事故は、大地震という天災によってもたらされたものだから、原爆などの核兵器と同一視するのは違うのだろうか…。

私が、確か高校生くらいの頃、広瀬隆の『危険な話』という原発の危険性について書かれた本がブームになり、私より先にそれを読んだ友人から勧められて私も読んだ。そして、原発は危険であり、原発の建設はやめるべきだ、という認識を仲間で分かち合っていた(今、キルギスにいて、マスコミの報道について知ることはできないが、広瀬隆は今回の原発に関連して、テレビ等に出ているようである)。

それから十数年が経ち、テレビ(関東圏)では、原発所在県出身のスポーツ(プロ野球、バレーボール)の元トップ選手が出るCMで、「電力需要の○○パーセントは、原子力発電で担っています。原子力発電は私たちの生活に欠かせません」というメッセージが流されるようになった。

今、自分でもつくづく情けなく思うのだが、そのCMを見た時に、「あ、そんなに原発から電力供給がされているのか。なら、今さら原発を止めるという訳にはいかないな」と、どこかでその数字を容認していた。私のような愚鈍者が一人でもいれば、電力会社としてはCMの効果があったと言えるだろう。

なぜ、あのCMを見せられた時に、「その『○○パーセント』分の需要をなくせば、この国に原発は不要である」と発想できなかったのだろうか? このことが、ここ数日の私にとって、一番の疑問である。

原発建設地、その周辺の住民にとっては、直接的な経済効果の面があるが、それ以外の地域の人(私)が原発の危険性を自分の思考から外してしまったのはなぜなのか。

一つには、「これまで事故は起きてないから、これからも大丈夫だろう」という思い込みがあった。リスクマネージメントではやってはいけないことの第一にあたるが、何事もなく時間が経つと、危険に対する油断が生まれ、危険への対策も次第に緩くなってしまう。そして、終《しま》いには危険そのものが存在していることも忘れてしまう。日本でテレビを見ている時、インターネットをしている時、そのことが原発を存続させる理由になっているという意識はまったくなかった。

また一つには、今の生活スタイルを前提にして、それを維持するためには電気が必要だ、原発も仕方がないと、惰性で原発を受け入れていた。その快適・便利な生活が、原発の持つリスクと引き換えであることを、思考の外に追いやってしまっていた。

今回の大震災、そして福島原発の危機(で終われば良いが…)は、日本人(関東・東北地方住民)の生活観を大きく変えさせることになるし、これだけのことを目の当たりにしたら、嫌でも変わらざるを得ない。そこには「こんなに放射能に怯える危険と引き替えにしてまで、快適・便利な生活を求めたいか」と問いがある。

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