2010/12/31

口笛タブーの起源

先日、部屋で口笛を吹いていたら、ホストマザーから「口笛を吹くとお金が入ってこなくなるから、吹いちゃだめだよ」と注意された。

そう言えば、キルギスに到着後に受ける現地研修の時も、キルギス人の先生から「口笛を吹くと歯が増えるから」と、口笛は吹かないのがキルギス人の習慣だと教えられた。

もちろん迷信の類である(歯が増える訳がない!)のだが、タブーとされていることというのは、古い時代の生活様式に起因しているものがあるから、想像を巡らしてみると面白い。

実際には、村の中で若者たち(男)がちょっと離れた仲間の注意をひこうとする時などに、「フィー」と口笛(もしくは歯笛?)をならしているのを時折耳にする。どの時代、どの社会でもマナーを守らぬ不躾者はいるから、そういう類の連中なのかも知れない。

そういう連中の吹く口笛の音というのは、人の注意をひくのに十分な音色である。こうも上手に吹くかと感心する。

口笛は、ひょっとしたら羊飼い、牛追いの者たちが家畜を思う方向に動かそうという時に使うのではなかろうか。今、確信をもっては言えないが、そんな場面を見たことがあったようにも思う。村の中では男子は幼いころから、牧羊の仕事を手伝っているから、見よう見まねで口笛も覚えるのかも知れない。

口笛は牧羊作業で重要な音だから、無闇に「フィー、フィー」と吹いては、羊たちがあっちこっちへ動いてしまい、収集がつかなくなってしまいかねない。だから、かつて住民の多くが遊牧生活をしていた時代には、家畜を追う時以外に口笛を吹くことはタブーとされたのではなかろうか?

そう言えば、私などは夜は口笛を吹くのは縁起が悪いと躾られた。日本でも口笛タブーはあったのであろう。あれも何かの音と聞き違えることを忌避したのであろうか。

家で口笛を吹くことを禁じられ、最近、私はハミング専門である。

2010/12/30

電子辞書メーカーさんへ要望

家電量販店の電子辞書コーナーを見ると、簡易的なものから、多機能なもの、ターゲットを絞ったもの(受験生用とか)など、様々な製品がある。

ただし、ロシア語の電子辞書となると、ほぼ一社しかなくなる。別にメーカーの宣伝をする訳ではないが、CASIOのEX-wordシリーズである。他のメーカーも英語辞書のものはたくさん出しているが、ロシア語となるとCASIOだけしかない。まあ、需要が低そうだから仕方がないのだが…

電子辞書全体で見ても、EX-wordのシェアは一番ではないか? 特に、英語以外で仕事をするケースが多い協力隊の場合、英語以外の辞書が使えるこのシリーズのシェアは相当高いと感じた(訓練所で)。

日頃、お世話になっているこのEX-wordロシア語電子辞書なのだが、いくつか不満(使いづらさ)もある。

以前紹介した、MicroSDカードで、外部データを電子辞書で表示させる場合、対応しているのは、日本語/英語(SHIFT-JISで共通でいけるらしい)、中国語、韓国語のみである。ロシア語電子辞書のくせに、ロシア語のテキストデータを読み込んでも、すべて日本語の全角文字としてのみ認識している。

え、 ロシア語辞書なのに!?

この点、どういう技術的なハードルがあるのか見当がつかないのだが、チョチョチョッっとプログラムを追加して、なんとか対応してもらえないだろうか。

あと、自分で単語を追加できないのも、どうにかならないものだろうか?

固有名詞(地名、商品名)、新語など、辞書には載っていない単語もたくさんある。そういうのを、追加させる機能はもたせられないのだろうか? USB接続ができるのだから、PCから操作するのでもいい。

また、それ似たような機能で、現在、製品として出ていない言語に関して、ユーザーが自分で辞書を作れるようなことはできないのかしらん?

これはマレーシア隊員時代に思ったこと。マレー語の場合、使用文字は英語アルファベットと共通だから、文字のエンコード上の問題はないと思うのだ。だったら、自分で作った辞書データを電子辞書に読み込ませるというのはできないものだろうか? CSVデータの項目を読込ませるとか。

CASIO以外のメーカーでもよいので、そういう製品を作ってくれないものかしら。

2010/12/29

電子辞書のすすめ

協力隊が派遣される場所の言葉は様々である。それぞれが派遣される国・地域の状況に合わせて、訓練所で訓練を受ける言葉も異なる。

国によっては英語が公用語として使われている所がある。英語は、ほぼすべての隊員が学校教育で学ぶ機会があった言葉だ。しかし、英語以外となると、大学やラジオ講座などでやっていたことがある場合を除けば、ほとんどが初めて学習する言葉である。訓練言語に入っているスペイン語、フランス語、ロシア語(訓練所での私はこれ)は、NHKのテレビ・ラジオ講座もあるが、ヒンドゥー語、バングラ語、キルギス語(現在の私はこれ)などは、日本でレッスンを受けられる所はかなり限られている。

ともかく、2ヶ月間、そういうマイナー言語(「マイナー」って、本当は相対的な意味でしかない。その言葉が母語である人にとっては「メジャー」なはずだ)も含めて訓練を受けて、任地に赴くのである。

マイナー言語を学んで、現地でもその言葉メインで活動する隊員にとっては、まず辞書など、その言葉の学習・使用を補助するためのツールが極端に手に入りにくい。

例えば、キルギス語だと、キルギス語-日本語のキル日辞書はない(かつてはあったという噂も聞いたが…)。キル英辞書も、欲しくて欲しくて、色々な書店を回ってみたが、どこにも売っていなかった(英キルはある)。手にはいるのはキル露・露キル辞書。これは、キルギスがロシア語文化圏であるためであろう。

キルギス語を学習した隊員が、現地で新しい単語を調べたい時は、訓練所ではやっていないロシア語を介さなければならない可能性が高い(もちろん、他の方法もいくつかある)。これは、ウズベキスタンでも同様らしい(→同期のウズベク語隊員のブログ)。

そういう場合に備えて、たとえロシア語隊員でなくても、キルギス(ウズベキスタンも)ではロシア語辞書があったほうがよいというのが私の考えだ。そして、(やっと本題なのだが)、辞書に関しては断然、電子辞書を用意したほうがよい。

国語辞書でさえも、書籍辞書と電子辞書では、検索のスピードが全然違う。まして、慣れない外国語となると、アルファベット順を思い出すだけでもまごまごしてしまうのだから、キーボードで打って(最近の製品は手書きにも対応している)検索できるのは圧倒的に早い。

また、某社のロシア語電子辞書の場合、露和・和露辞書が入っていて、和露で調べた単語から、簡単に露和辞書にジャンプできるので、単語の詳細な意味もすぐに調べられる。

キルギス語の資料を読む・書くという場合でも、適切なキルギス語単語を調べるためには、露キル辞書をひくことになるから、その時に電子辞書は役に立つ。

8年前、マレーシア隊員として派遣された時も、結局、マレー語-英語-日本語と、英語を介して言葉を調べざるを得なかったので、電子辞書が役に立った。これから派遣される予定の隊員で、現地での使用言語がマイナー言語でも、電子辞書は活動の効率を上げるためには用意しておいたほうが良いと思う。

※ なお、私は書籍辞書を否定している訳ではない。ロシア語に関しては、書籍辞書も持ってきている(中型のと、携帯用の小型のと)。それらも学習時や外出時には使っているが、いざ言葉を急いで調べなければならに時には、やはり電子辞書が便利だ。電子辞書は検索機能性が高いということだ。ただし電子辞書は、学習上のデメリットもあるので、完全に電子辞書だけにする気もない。

2010/12/28

新年の挨拶

昨日のロシア語で書いたブログで触れたのだが、こちらでは新年の挨拶は12月のうちからするようである。日本語で言えば「新年あけましておめでとう」となるか。

年が替わらぬうちに新年の挨拶をするのは変な感じがしたのだが、よくよく考えてみると日本語でも「良いお年を」という挨拶があった。「あけましておめでとう」よりもこちらの訳をあてるほうが良いだろう。

そう言えば、以前、年賀状に関するアンケートをした結果を掲載しておく。たった2票しか回答がなかったので、なにか社会の趨勢を占ったりする用は足さないが、投票していただいた方への礼儀として発表する。

---------------------------
誰に、どのように年賀状を送っていますか?
  日常的に会う人にも送る --- 1票 (50%)
  日常的に会う人には送らない --- 0票 (0%)
  メールで済ます or メールを優先 ---  0票 (0%)
  年賀状は送らない ---  1票 (50%)
  その他 ---  0票 (0%)
---------------------------
(クリックしていただいた方、どうもありがとうございます。)

個人的には、新年と言って、特別にはしゃぐのはしたくない、そういう人付き合いも遠慮したいと思っている。ただ、仕事が休みになるのは、単純にありがたい。

協力隊はたった2年間、新年も2回のみの経験であるから、こちらの人がどんな風に新年を迎えるのか、よく見てみたいと思っている(とは言え、田舎の村なので、大きなイベントはないのではないだろうか)。

職場の人から聞いたところでは、年越しのタイミングで、村の通りごとに火を焚いて、シャンパンか何かの酒を飲むような話であった(こういう点についても、言葉がおぼつかないと正確に理解できないのである)。これについては、12月31日~1月1日にかけての夜に確認できるだろう。

2010/12/27

С Новым Годом!

В последном пятнице, 24е декабря, у нас был вечеринка в нашем центре. Много дети и их семья приняли участие. Это праздник для "Рождества" и "Нового Года".

На вечеринке были рождественская ёлка, Санта Клаус, подароки, угощении, игры и так далее. Нам было очень весело!!

Xmas

В японском культуре мы обмениваемся приветствиями "Омедето" за нового года, когда число сделается 1ое января. А здесь уже обмениваются приветствиями в декабре. Мне интересно это.

Угощении готовили матери детей Шоола-Кола. Кыргызы хорошо знают как сам делают вечеринку. Это был ручная вечеринка.

party

Детям были рады, потому что Санта Клаус их дали подароки, и ещё они могли одеться специальные платья.

dress

Я думаю, что каждый участник развлеклись.

Вас Наилучшие Пожелания в Новом Году!!!!!!

【ネット翻訳 / Перевод по интернету】
http://translate.google.co.jp/
http://www.worldlingo.com/products_services/worldlingo_translator.html
http://www.online-translator.com/Default.aspx/
http://babelfish.yahoo.com/  (英語のみ)

2010/12/26

村の馬は放し飼い

有馬記念ついでに、村でよく見かける馬に関する話。

uma

上は我がバコンバエバ村でよく見かける光景の一つである。日中、5~6頭の馬が群となって、村の中を歩き回って、道ばたの草をムシャムシャと食(は)んでいる。

馬なんてものは牧場で飼育するものと思いこんでいたが、それは日本の話で、キルギスでは放しておくらしい。

それにしても逃げて行ってしまわぬものなのかしらん? どこかに飼い主がいて、馬たちが寝るための小屋があるはずだが、自分の馬小屋が分からなくなることはないのかしらん? そんな疑問が起こるのである。

私が自分の観察から推測したことと前置きしての話だが、時折、足にひもをくくられている馬を見かけることがある。例えば、前足2本を肩幅よりちょっと長いくらいのひもでくくられている。あるいは、右前足と左後ろ足とか。

当然、馬は歩きにくそうである。こういう馬は、動き回るのが好きで、どこかへ行ってしまいかねないから、そうさせぬように動きを制限しているのかもしれない。

馬の群には、どうやらリーダー馬がいるようである。道ばたでムシャムシャとやっている馬たちも、ある一頭が移動し始めると、他のもそれに続いて移動をし始める(ように思われる)。

もしリーダー馬がいるのならば、このリーダー馬さえ自宅(馬小屋)を覚えておれば、その群はちゃんと家に帰れるのではないか。

uma_on_street

いずれ、馬飼いの人にそのあたりの事情を聞けるチャンスがあるかも知れない。それまでは、私の推察が正しいかは分からない。

どちらにせよ、何百年という放牧の経験からキルギス人たちが体得している馬の習性というのがあり、それに基づいて培われた馬を飼い慣らす技術があることは間違いない。

2010/12/25

菊池寛の馬券哲学

青空文庫に菊池寛の『我が馬券哲学』というエッセイがあったので、ダウンロードして読んだ。今は私にとって年に一度の競馬予想(有馬記念)をする時期だから、ちょうどよい。

いくつか抜粋して要約。

本命馬と皆が言っているからとその馬を買うのは競馬予想の楽しみにはならない。自分で血統をしらべ、例え人気がなくとも買って、その馬が勝つ。これこそが競馬の醍醐味。

損を恐れて本命馬しか買わない人がいる。それなら競馬なんてやらなければよいだろうに。

120~30円の配当でも200円の手柄に相当する場合もあれば、200円の配当でも手柄にはならない場合もある。まぐれで200円の当たりを取ったとしても、金を拾ったのと同じことだ。

サラブレットとはどういうものかを知らずに競馬をする人がいる。ただのばくち打ちである。

競馬ファンが蔵を建てたという話はない。自分の財力に無理のない範囲で馬券を楽しむべき。金を儲けたければ、自分の本業に励むべし。

菊池寛が競馬好きだったとは知らなかった。競馬好きな作家としては寺山修司が有名だと思う。競馬エッセイも書いていたはずだが、寺山修司のは青空文庫に入っていないので今は読めぬ。

私などは、血統を重んじる訳でもなく、馬名を見て当てずっぽうに決めるだけだから、菊池寛に言わせれば「馬券買いの邪道」である。まあ、正道に入る気もないので構わないが。

2010/12/24

小学生でも知っていることなのに…

以前ブログに書いたラジオでキルギスのFM放送を流している。面白いことに、日本でいうAM放送というのはないらしい(AM周波域で放送を受信したことがない)。短波周波域では放送がある。少ない中継所でできるだけ全土に放送を伝えるためなのだろうか?

さてFM放送の件。日本でもよくあるが、リスナーから電話をしてもらって、番組のパーソナリティとおしゃべりをするという形態の番組が、キルギスでは多いように思う。ある放送局は、ほぼ一日中そんな感じの番組が続いている。

リスナーと電話がつながった時、しばしば「ウワァ~ン」という音や、電話口の人の声が反響して聞こえてくる。おそらく、リスナーが近くでラジオをつけたまま、放送局に電話をしているためにハウリングが生じているのだと思われる。

拙いキルギス語・ロシア語能力ながらも、私が聞いている限り、パーソナリティのほうから「お手元のラジオを消すか、ボリュームをしぼってもらえますか」(←そうすればハウリングは収まる)と言っているふうはない。

日本だったら、ラジオをつけたまま放送局に電話をするとハウリングが起こることは、小学生でも知っている。どうしてそんなことが言い切れるかと言うと、夏休み、春休みなどにNHKラジオ第一でやっている「夏(春)休み、ラジオ電話科学相談室」というので、よく子供たちがアナウンサーから注意を受けているからだ。

「●●君、近くでラジオがついているかな? ラジオを消すか、音を小さくしてくれるかな? ウワァ~ンっていう音がしちゃっているんだ」というのを、放送の中で一日に一度は聞く。

そんな訳で、日本の小学生はラジオをつけたまま電話をすると「ウワァ~ン」となってしまうことを学んでいるのだ(と言っても、ラジオ、ましてやNHKなんて聴く小学生は少ないだろうけど。むしろ私のようなおっさん、おばはんが、「子供はおもろいこと考え取るなぁ」と微笑ましく放送を聴いているほうが多いと思われる)。

ハウリングが起こったらすぐに対処をする・させる日本と、ハウリングしていても全く意に介せず放送を続けるキルギス。文化によって、同じことでも気になったり、気にならなかったり。面白いもんですな。

2010/12/23

タイピングがややこしい

ロシア語、キルギス語学習はキリル文字から始まり、その習得時のややこしさを以前書いた(『英語が書けなくなってしまった…』)。

パソコンのキーボード配列も英語とは違う。文章でいくら説明しても埒が開かない。図を貼り付ける。

russian_keyboard

この中で、英語アルファベットと共通と言えなくもないのは「c」のみである(実際には、ロシア語の"c"は英語の"s"である)。

ややこしいのは、キリル文字習得時と同じく、ロシア語にも英語にも存在する文字である。A,B,E,M,H,O,P,C,T,Y,X がそれにあたる(多いなぁ…)。

今はキリル文字タイピングに慣れているから、いざ英語の単語を打たなければならない時になると、上記のロシア語・英語共通文字のタイピングでのミスが非常に多いのである。

私は、日本語を打つ時にはローマ字入力にしているのであるが、その時はあまりミスはしないのである。例えば、「e」という文字を打とうとすると、脳の中で混乱が起こるらしい。日本語は「e」としてではなく、「え」として覚えているから混乱しないのであろう(二つ以上キーを打つ文字でも同様)。

自分の脳の中で起こっていることとはいえ、面白いものである。

2010/12/22

Babylonのインストールはお勧めしない

ネット検索でロシア語-日本語を翻訳してくれる無料サイト、ソフトを探していたら、Google翻訳などいくつかヒット。

その中に、Babylonという無料の多言語翻訳ソフトがあったので、ダウンロードして試しにインストールしてみた。

ところがこのソフト、色々と厄介な代物で、
 ・ブラウザソフトのホームページを勝手に自分の会社のサイトに設定してしまう、
 ・ブラウザソフトに勝手に自社製ツールバーをインストールしてしまう、
 ・検索エンジンを勝手に自社検索エンジンに設定してしまう、
 ・アドレスバー検索を自社検索エンジンに設定してしまう
といったことをしてくれる。

アンインストールをしても、検索エンジンとして残り続け、特にアドレスバー検索はいまだにBabylonエンジンになってしまっている。

Babylonの削除について検索をしてみると、出るわ出るわ、たくさんの人が同じようなトラブルで困っていることが分かる。
http://pub.ne.jp/pchitorigoto/?entry_id=2427924

根本解決には、レジストリをいじくらなければならぬようであり、素人ではちょっと怖くて手を出す気になれない(レジストリを誤って改変してしまうと、Windowsが作動しなくなる恐れもあるらしいので)。

ネットには、「そういうことは『使用許諾』に書いてあったはずだから、インストールした時点で自分がそれを了承したはず」という手厳しい意見も書かれていたが、まあ、そういう正論しか言わん人は何の助けにもならんものである。

私自身はまだこのトラブルを解決できていないが、このソフトをインストールしようかと思う人がいたら、上に書いたようなことが起こることを覚悟しておく必要がある。多言語翻訳ならばネット上の他の翻訳サイトでも十分に代用可能である。

2010/12/21

十徳ナイフはお得か?

3ヶ月くらい前の話だが、首都ビシュケクで十徳ナイフを購入した。

クリックで大きく表示

付いているのは以下のような機能。

  1. ナイフ
  2. はさみ
  3. のこぎり1
  4. のこぎり2
  5. 缶切り
  6. 栓抜き
  7. ワインオープナー
  8. 糸通し(?)
  9. やすり
  10. プラスドライバー

ギザギザ刃のものが二つあるが、用途の違いが分からず、どちらも使ったことなし。
糸通し(?)も、どう使うのか分からない。アウトドアで、魚釣りをする時に使うんだろうか?
やすりは、目が粗くて爪研ぎには不向き。今のところ使ったことなし。

ナイフは一番よく使う。りんごを食べる時に、縦に刃を入れて、三日月形に切り出して食べる。こちらでは皮はむかずに食べるので、そのままかぶりついてもいいのだが、ナイフで切り出しながら食べる方が、芯の近くまできれいに食べられる。

次に使うのはプラスドライバー。ウクレレのペグ(弦巻き)がゆるんできた時に締め直すのに使う。

缶切り、栓抜き、ワインオープナーは使ったことがないが、いずれ使うだろう。

こう見れば、十徳ナイフと言っても、私が実際に使うのは五つくらいのものだ。この十徳ナイフ、首都で600ソムくらいで購入したが、後日、任地のバコンバエバの小さな商店を見たら、まさに五徳ナイフが100ソムで売られていた。

買い物というのは、往々にしてこういうものである。

2010/12/20

年末じゃ、ア~リマせんか!

気づけば今年もこの時期が来ていた。年の瀬、年末、12月の最終日曜日。そう、

有馬記念 開催である。

青年海外協力隊のブログにこんなことを書いているのは、我ながら愚かだと思うが、私の中では一応、年中行事の一つに数えていることなので触れておく。

と何やら意気込んでいる風であるが、私は全くの競馬素人であって、馬券予想なんていうのはとんと分からないのである。ただ、競馬好きの知人たちを見て、年に一度、有馬記念だけは馬券を買うことにしている(案外、そんな人が私の他にも多いと聞く)。

私の馬券の買い方は、単純に馬名から来るインスピレーションのみである。出走表の馬名を見ながら、今年一年にあった出来事とリンクしていそうな名前の馬がいたらチェックである。数年前、「モナ…」なんとかいう馬がいて、そんな名前の女子アナ出身タレントが世間を騒がせた年だったので買ったら、有馬記念で連帯していた。

こういうのは、馬券予想を毎週の趣味、本職、あるいは生活のすべてとしている人たちからみれば邪道である。そう言われようとも返す言葉はない。というか、自分でも邪道だと思う。まあ、その程度の馬券買いなのである。

もちろん、キルギスにいる今年は、馬券を買うことはできないが、予想はしようと思う。いつもの有馬馬券予想仲間には個別にメールをするので、そこんとこよろしく。

2010/12/19

キルギスにも柿がある

バコンバエバ村のバザール(市場のこと。と言ってもとっても小さい。都市部の人には、とても恥ずかしくて「バザール」とは言えないくらい)で柿を見つけた。

kaki

柿と言えば、「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」(だったかな?)の句があるように、日本の情景と結びついているようなイメージがあったが、こんな中央アジアの片田舎でも売られていたことに意外性を感じた。

柿には何十という種類があるよう(確か『ためしてガッテン!』で見た)で、私などはふゆう柿くらいしか名前を知らないが、人が食べないようなものがいくらでも存在するらしい。

とは言っても、村の中で柿の木は見たことがないので、よそから持ち込まれたものだろう。中国のほうからの輸入かも知れない。

さて、バザールで柿を見つけて、その場で五つ買い、その日にさっそく一つ食してみた。

渋い。

日本では、農家が品種改良をしてくれているのと、出荷時に甘いやつだけを選別してくれているから、「渋柿」なんていうのは言葉は使う機会がないくらいだが、「なるほど、これが渋柿か」と口内のザラザラしたような感覚とともに思った次第。

こういう柿を干すと糖度が高くなって美味しくなると発見した古人の知恵はすごい。「なんとしてでも、この渋柿を美味しくして食ってやろう」という執念のようなものだったかも知れない。

一つ目の柿で渋にあたってしまったので、残りは十日ほど置いておいた(実は置いておいたことも忘れていた)。ふと気づいて見ると、柿がぶよぶよになって、底のほうから汁が出るくらいまでになっていた。さすがにこれ以上置いておいたら腐りはじめるだろうと思い、食べてみた。

十日前に食べたのは渋かったのが嘘のように、こちらは甘くなっていた(個体差かも知れぬが)。個人的には、柿は固いほうが好きであるが、こちらのは十分に熟させてからのほうがいい(さもなくば渋にあたる危険が高い)。

昔から「柿が赤くなると医者が青くなる」と言われるほど、柿に含まれる栄養価は抜群で、柿を食べていれば医者いらずということである。またそのうち買って食べたいが、こちらの物価で考えると、ちとお高い。

たびたび柿を買っていては、贅沢者と思われてしまうかも知れないから、しばらくは間をおくことにしている。

2010/12/18

落ち込んだ…

私の配属先(職場)は、午前中、障害児・者に授業のようなことをして、その後、みんなで昼食を食べて終わり、という流れである。

昼食は、お手伝いのおばちゃんが来て、キッチンで水餃子やヌードルなどを作ってくれている。

先日、「明日はukuleleちゃんが昼食を作ってよ」と言われた。「寿司を作って」と言われたが、1時間くらいの間に巻きずしを作るのは私には無理だったので、どうしようかと思ってると、こちらにスパゲティが売られているのを思い出し、ペペロンチーノのようなのだったらできそうだということで、翌日の昼食を作ることを引き受けた。

で、翌日、店でスパゲティ、にんにくなどを買って教室に戻り、キッチンで料理を開始。

kitchen(職場のキッチン。すべてはここで起こった!)

茹で具合を見ながら10分くらい。茹で上がっていくのと並行して、なんだか麺のこしが極端になくなっていく! このあたりで、何となく違和感を感じ始めた。

きざんでおいたにんにく、玉ねぎとフライパンで炒め合わせたが、その頃には麺はグチャグチャになっているのが、見た目にも分かる状態。気が重~くなりつつも、途中で止める訳にもいかず、一応作り終えた。

spagetti

子供たちはにんにくの入ったのは食べないからということで、私の作った「ペペロンチーノ」は、スタッフ・付き添いで来ているお母さんにふるまわれた。

おしゃべり・冗談が飛び交ういつものにぎやかな食卓とうってかわって、この日は静寂に包まれた高級レストラン(?)のような雰囲気。

「おいしいね」「これからは毎日ukuleleちゃんが作ってくれよ」などの賞賛が、みんなの本心から出たものではなかろうことは、私のような厚顔無恥、鈍感な者でも、みんなのフォークの動きを見れば分かるというものだ。

う~む… 何がいけなかったのか?

そもそも「スパゲティ」と呼ばれている麺が、私たちが日本で思っているものとは違う原料であるようだ。イタリアンパスタに使われている小麦粉は、確かセモリナという名前ではなかったかと思う。日本の店頭でスパゲティ麺を買う際、パッケージに「セモリナ粉使用」とか書いてあるので、なんでわざわざ小麦粉の名前を書く必要があるのかと理解できなかったのだが、おそらくセモリナ粉があってのイタリアンパスタなのだろう。

一方、今回私が使ったのは、おそらく普通の小麦粉から作られたようなもの、少なくともセモリナ粉ではない。茹でているうちに、湯がどんどんドロドロになって行ったものなぁ。

では、こちらの人はどうやって現地のパスタを料理するのか? その答えはその日のうちに示されることになった。

夕方、ホームステイ先の家に帰ると、ホストマザーが作っていたのが、まさにスパゲティ。フライパンの中に乾麺、野菜、肉、調味料を入れておき、そこに水を足して火にかける。こうして麺を茹でると同時に、すべての具材に火が通り、茹で上がったらすべてを混ぜればよい。こうして料理すると、水も必要最低限しか使わずに済む(茹で湯と分ける必要がない)。麺もグチャグチャにならない。そして何よりも、このほうが美味しい。

私が職場の昼食作りで敗北してきたその日の夕食に、ホストマザーがスパゲティを作って待っていたとは…。まさか職場から「ukuleleちゃんにキルギスのスパゲティを食べさせといて」と連絡があったんではと勘ぐらずにはいられぬほどのタイミングであった。

2010/12/16

ふたご座流星群(?)目撃

12月14日はふたご座流星群が観測しやすいというニュースを見て、14日の夜、トイレに行きがてら(トイレは外にある)星空を眺めてみた。

半月が出ていたので空が明るく、月がなくて星がよく見える時と比べるとやや条件は悪い感じがした。そもそも「14日」というのも、日本時間での話だから、キルギスでも同じ条件なのか不安も感じ、さらに、ひょっとしたら14日の未明のことなのかも知れないと思いつつ…

2分も眺めないうちに、北のほうに一つ、流れ星を目撃できた。夜10時頃だったから、日本時間では15日深夜1時頃。同じ流れ星を見た人が日本にもいたかしらん?

もっと観察を続ければ、あと何個かは見られたと思うが、なにせ0℃近い外気の中、部屋着のままで出ていったので、5分が限界であった。否、その後、鼻水が止まらなくなったから、限界は超えてしまっていたと言うべきか。

ホストマザーに「星を見てきた」と言い、流れ星をロシア語でどう言うのか分からなかったので、「ほら、こうヒューっという星」と伝えたら、「ああ、スプートニクね」と返ってきた。こちらも「ダァ、ダァ(ロシア語のyes)」と応えた。

そうか、「スプートニク」って前にも聞いたことがある単語だったけど、「流れ星」のことだったのか! 日本でも聞いたことがあったなぁ。確か宇宙船か何かの名前だったと思うが…

スペルを確かめたくなり、辞書で「スプートニク」を調べてみる。

спутник
  1. 旅仲間、道連れ、同伴者
  2. 人生の伴侶
  3. 必携、虎の巻
  4. 随伴現象、共存物
  5. 《天》衛星
(コンサイス露和辞典より)

「5. 衛星」って、つまり人工衛星のことか。流れ星ではなかった。流れ星はпадающая звезда(落ちていく星)というらしい。

それにしても「ヒューっと行く星」と説明したら、「ああ、人工衛星ね」と理解したうちのホストマザー、ソ連時代の教育を受けた人だからかな? 日本人だったら大概「流れ星」と理解しそうだけど。ちなみに、人工衛星は肉眼でもたまに見ることができる。昔、天文観測が趣味の友人から教えてもらって、見たことがあった。

あ、ひょっとしたら私が見たのは本当にスプートニクだったのかもね。

2010/12/15

БРОДЯЧИЕ СОБОКИ (野良犬考)

キルギスには野良犬がたくさんいる。

基本的に、キルギス人(民族としてのキルギス人)は犬をペットとして飼うという習慣はないようである。ロシア人(キルギス国籍のロシア人)は犬を飼うこともあるようで、首都では犬にひもをつけて散歩をさせているロシア人を見かける。

日本では野良犬を見かけることはほとんどない。山間部などに行けば、ふらふらとひも無しで歩いている犬を見かけるが、こと町中となると野良犬は皆無である。昔は日本にも野良犬はいたはずだ。

マレーシアにいた時も野良犬はたくさんいた。タイ、カンボジアでも見た。日本以外の国では、野良犬は当たり前の存在であることが多いのではないだろうか。

彼らは人間の食べ残しをあてにして生きているから、人がいる所に棲息している。一匹一匹に棲息範囲(テリトリー?)があるようで、例えば通勤途上ではだいたい同じあたりで同じ犬を見かける。

野良犬は総じて人を恐れている。人と道ですれ違う時は、犬のほうから筋を違えて過ぎていく。野良犬というのは、もっと常に、人を襲う気配に満ちているかと思っていたが、キルギスでは人を見れば向こうから道を避けて行く。成長の過程で人に痛い目に合わされて来ているのだろう。彼らにしてみればそれほど怖い人間なのであるが、人間のいる所から離れもしない。ここが不思議で、かつ健気に感じるところである。
中には、一つの家を自分のご主人さまと決めて、いつもその門の前に座っている殊勝なのもいる。

ずっと昔に狼の中から、人間に近づいていったものが犬になったそうだが、犬という動物の遺伝子の中に、人間の近くで暮らすという習性が刻まれているのかも知れない。特定の家に忠誠を示している犬は、別に人間から命じられたのでもなく、自らそこを選んでいるのだ(もちろん、家人の残飯をもらえるという報酬あればこそだが)。

そういうキルギスの犬たちは、なんと言うのか「自分の力で生きている」というりりしさを感じる。自分の習性、本能、能力すべてを総動員して食い扶持を求める姿はいじらしさの中にたくましさを感じる。

自分の日本の家にいる犬が、高齢でだいぶ弱ってきているから、ついつい「犬の一生」などに思いを巡らしてしまう。
「宅の●●ちゃんはペットじゃないざます。家族の一員ざます」とかわいがられ、栄養バランスの良いドッグフードを与えられ、病気になれば獣医に診てもらえ、近頃では多くは屋内で飼われ、快適な環境を与えられている犬と、毎日の食べ物の保障はなく、ありつけたとしても大抵はジャンクな物、けがをしても病気になっても自然治癒を待つのみ、しかし自分の力で生きている(生きざるを得ない)犬と、どちらが「犬らしい」生き方なんだろう…

(あ、これは人間でも同じ問いが言えるかも知れない。いわゆる「太く短く生きる」か「細くても長く生きる」か。前者が「野良犬型」、後者が「ペット犬型」、かな…?)

2010/12/14

ふたご座流星群見られるかも

今日の夜あたり、ふたご座流星群が観測しやすいよう。

http://b.hatena.ne.jp/articles/201012/2136

特に任国にいる協力隊の皆さんは、夜は街灯がなくて星空が見やすい所が多いだろうから、観察してはいかが。

私も今夜眺めてみるつもり。ただ、5分が限界かな、寒いから。

意外にキリル文字は使われてる

一昨日、ロシア語のキリル文字 について書いた。慣れるまでは苦労(と言っても、アラビア文字やタイ語、カンボジア語などのサンスクリット系文字、そして数が膨大な漢字に比べれば文字を覚える苦労は圧倒的に少なくてすむ)があったが、覚えてしまうと結構汎用性が高い文字でもある。

なんと言ってもロシア語の文字ということで、旧ソ連圏の多くでは今もキリル文字を使っている国が多い(逆に、キリル文字とは縁を切りたがっている国もある。その辺はロシアとの距離感の問題がからんでいる)。キリル文字文化圏であれば、読むだけならば文字を読むことができる。「英語は世界の共通語」なんて言っている輩は●●喰らえ(←自主規制による伏せ字)である。

協力隊でキルギスに行くことが決まり、ロシア語を勉強をし始めた頃に嬉しかったのは、ロシアの映画とかで場面の後ろに出ている標識の類を読めた時である。ま、読めたと言っても「ОТЕЛЬ(ホテル)」という程度の単語なのだが… ちなみに、キルギス語、ウズベク語の隊員も同様にキリル文字を読める。

なんか「キリル文字できるよ」自慢みたいになって恐縮であるが、実はロシア語を勉強していない日本人でも、結構キリル文字には親しんでいるだろうと思われる。

例えば…

| 壁 |д・)

(-з-)

よく見る絵文字の中にキリル文字が使われいるのである。絵文字なので読みは関係ないことだが、Д,дは英語のDd、зはzに相当する。

そう言えば、キルギス渡航前だったから今年の7月頃の新聞記事で、アメリカのオバマ大統領の政策(国民皆保険制度など)が社会主義的であるとして、自由競争を重んじる人たちからは反発を受けているとあった。その記事に付いていた抗議デモする人たちのプラカードに「SOCIДLIST OBДMД!!(オバマは社会主義者だ)」と書かれていた。確かに字の形はちょっと似てるんだけどねぇ~(もちろん、書いた連中もAではないことは承知だろうけどね)。

ん、何が変かわからなかったですか? もう一度、よく見てくださいませ。 (*´Д`)=з フゥ

2010/12/13

初、散髪。②

私は、できるだけ散髪の手間を少なくしたいから、一度に短く切ってもらうよう頼んだ。髪を霧吹きで湿らせ、まずはバリカンで刈り込んでいく。途中で「これくらいの長さでいい?」と確認してくれた。日本でこのブログを読んでいる人にはどうということのない話かもしれないが、客の好みを確認するというのは、結構、意外なことだったりする。いや、私自身、キルギスで理容室に入ったのは初めてだから、キルギスではこれが当たり前のことなのかも知れないのだが。

日本でもそうだが、こういう尋ね方をされた時、私のような小心者には「あ、いいです」という選択肢しかないものである。鏡で理容師の作業を見ていると、右へ左へと動きながらやってくれている。そこまでやってもらった後で、「いや、もっと短くしてよ」というセリフを言うのは難しい。

顔剃りはなし。シャンプーもなし。このあたり、日本の低料金理容室に入ったような感覚である。1,000~1,500円くらいで散髪してくれる店は洗髪はもともとないか、別料金で設定されている。今回、バコンバエバ村で入った理容室の中を見回したが、洗髪ができそうな設備はなかった。

料金は50ソム。100ソムが約180円なので、90円くらいだったということになる。

初、散髪。①

キルギスに7月末に来て、この間、一度も髪を切らずにいた。

最後に髪を切ったのは、多分、日本を出る数日前にバリカンで20mmくらいにした時ではなかったか。4ヶ月近く手を付けずにいたので、さすがにボサボサになって来た。

キルギスの男性は、基本的に短髪である。長髪にしている人は見たことがない。ここで長髪というのは、「♪僕の髪が肩まで伸びて~」というのよりももっと短い。サイドが耳にかかるくらいになったら、もう長過ぎという感じで、日本で言ったらスポーツ刈りみたいな髪型がもっぱらである。

対する女性の方は、若い人には長髪の人が多く、年輩になるにつれ短めにしている(私個人の印象)。イスラム教ということもあって、女性は髪を布で覆うのが一般的なようだ。特に結婚後は布で覆っている(マレーシアと比べると、髪を隠すことも厳格に行なわれているわけではないようだ)。

さて、私の散髪。バコンバエバ村の中心街に行くと、通りの一角に理容室が並んでいる。待つのが嫌なので、空いている店に入った。こちらの理容室の店員は女性ばかりである。少なくともバコンバエバ村で男性の理容師は見たことがない。そして、客の方は男女の別なく入っている(首都ではどうなんだろ? ヘアーサロンと書いてある店は、女性客がメインかも知れぬ)。

壁に大きな鏡があり、その鏡に向かって座る。首にタオルを巻かれ、次に名前は知らないが髪が服につかないようにするあれ(ビニール製のシート)がかぶせられる。

注文をロシア語でする。いつもこの段階で、私が現地人でないことがばれる。まずロシア語を話すのが不自然。次に、そのロシア語が下手。で、相手は自然に「どこの国の人? 中国人? 韓国人?」と訊いてくる。これもお決まりの流れ。一発で「日本人?」と訊かれることはほとんどない(首都ならたまにある)。キルギスに駐在している人数の違いであろう。

2010/12/12

「年賀状」について考える④

昔、「プリントごっこ」という簡易印刷機があって(今もあるとは思うが)、年賀状作成の必須アイテムだった。版を作ると、それで何十枚、何百枚と印刷ができる機械だった。当時は、結構な数の家に、年賀状のためだけにプリントごっこがあった。今はパソコンがそれに取って代わった。

プリントごっこの前は、ガリ版だったのだろうか? まあ、芋版あたりは、私も小学生の頃に作った記憶がある。今も版木で年賀状を刷っている人もいるだろうが、それは本当にひと仕事である。もらうほうも「今年はこんな柄を彫ったんだな」と思いながら手にすることになる。その差出人にとっては、いわば年に一度の作品発表の場であろう。

昔の手作りでしか年賀状が作れなかった時代は、手の込んだものは一目瞭然だった。細密な版画、あるいは多色刷りの版画など。プリントごっこ隆盛になり、誰でも簡単に年賀状の大量印刷ができるようになったが、「プリントごっこ職人」とでも言えそうな人のものは、やはりひと味違うと感じさせるものだった。

ここ十年くらいは、テンプレート(ひな形)を使って、差出人住所・名を入れるだけで、見栄えのよい年賀状が誰でも作れるようになったから、どれも大差なくなっている。今の時代の年賀状職人は、賀状の図案、書くコメントをいかにインパクトのあるものにするかが腕の見せ所だろうか。

今は、パソコンで簡単に凝ったものが作れるから、逆に、黒ボールペンだけで「今年もよろしく」程度の年賀状はインパクトがある(まあ、そういう友人は毎年そういうのを出してくるんだが…)。

「年賀状」について考える③

年賀状で一番困るのは、こちらが出していなかったのに、向こうからは出された場合ではないか。「あ、●●先生に出すのを忘れていた」。これが、一番肝を冷やす時である。恩師にこちらから出し忘れていたのに、向こうからはいただく。私のような無礼者でも、これは失礼だとわかる。慌てて、言い訳を添えて年賀状を出す始末である。

次に困るのが、既に付き合いのない人、もう付き合うことのない人から、思いがけず送られてくる場合である。そういう相手には、年賀状をいただいても返さずにおく。申し訳ないが、そうでもしないと、お互い意味のない年賀状のやりとりが翌年以降も続いてしまうからだ。

年賀状だけのお付き合いというのも、それはそれで風情があるのかも知れないが、今のようにパソコンソフトで年賀状を作っているような状況を考えると、相手も登録した住所を今年も一斉に印刷しただけだろうと思わずにはおれない。この辺、私が中・高校生だった頃までは、手書きで宛先を書いていたから、ちょっと意味合いが違った。

今は、年賀状は出さぬ代わりに、年賀メールの時代である。「明けおめ」メールなる、ある意味、猥語スレスレの風習が一般化し、1月1日0時には、携帯会社はサーバーがパンクしないか毎年大変なようだ。

1月1日に年賀状を送らなければならない必然性はまったくないのだが、年賀状をイベントごととして設定しておくことで、しばらく連絡の絶えた相手ともこのタイミングで連絡を取れるという知恵が込められているのかもしれない。

2010/12/11

ブルキナファソの「二弦ギター」?

ブルキナファソに行っている同期が、現地の「二弦ギター」の動画をアップしてくれた。

「タコカレ海を渡る」

http://blog.goo.ne.jp/tbinterface/07e9f3b0c9caaedfdda90b82452df008/8f

アフリカらしいリズム感。

なぜ、これが二弦“ギター”なのかについての経緯は、タコカレさんのブログを読まれたし。

こちらもそのうち、キルギスの音楽をアップしたいと思う(まだ撮影する機会がない)。

年賀状についてアンケート

年賀状について書いていたら、他の人はどうしているのだろうと疑問に思ったので、アンケートをしてみる。

【質問】 誰に、どのように年賀状を送っていますか?
 ①日常的に会う人にも送る
 ②日常的に会う人には送らない
 ③メールで済ます or メールを優先
 ④年賀状は送らない
 ⑤その他 (→コメント欄へどうぞ)

「その他」の方、コメント欄をご利用ください。

「年賀状」について考える②

年賀状についての続き。

キルギスから年賀状を出しても、今からでは元旦には間に合わないと書いたが、そもそも、私は日本にいた時から年賀状は積極的には出していなかった。

私は365日年中無休の職場に勤めていたから、勤務のローテーションによっては、大晦日に働いて、翌日にまた出勤ということもある。同じように出勤している同僚とは、年をまたいで連日会う。そういう同僚から年賀状が来ていたりすると、年賀状というものが形骸化しているように思われ、私には馬鹿馬鹿しかったので、職場の人には年賀状を出さないし、向こうからも送っていただく必要はないと伝えるようにしていた。

毎年「年賀状はしない」宣言をしていれば、大抵の同僚は私に構わずにいてくれるのだが、それでも、その年新しく入った後輩などは、間違って年賀状を送ってしまうこともあるから、日本で勤めている頃は今くらいの時期から「おれには年賀状を出さないでくれ」と張り紙をするようにしていた。それでも年賀状を送ってくれる人は、もう先方の価値観によるのだろうから、こちらから苦情を申し立てる筋合いではないと決めていた。

「年賀状」について考える①

今頃日本では、師走だ、年の瀬だと言って、なんとなく慌ただしい気分になっているだろう。

海外にいると、同じ12月でも日本とは違った心持ちで過ごしている。日本にいたら、自分の周囲や、テレビニュースなどで師走らしい催し(大掃除や餅つき、今年を表す漢字の発表とか)があるから、「ああ、今年ももうそんな時期になったか」と思うのであろう。キルギス生活一年目の者にしてみれば、何が年の瀬らしい催しなのかが分からぬから、ただ普通に時間が過ぎているだけである(協力隊は2年間だけだから、季節の風物詩などを体感する前にその国を去るものだから、なおさらだ)。

さて、日本人には元旦に合わせて年賀状を送る習慣がある。元旦に配達されるためには、12月25日までに投函したほうがよいらしい。以前、キルギスから実家に絵葉書を出してみたら、1ヶ月強かかった。となると、今から日本の知人宛に年賀状を出しても、元旦には届かない計算になる。

2010/12/10

英語が書けなくなってしまった…

12月7日付けで投稿した「Я стал не мочь писать англиские алфаветы.」という記事の内容はわかっただろうか?

ロシア語を学習するようになってから、英語のアルファベットを書くのがおぼつかなくなった、という内容で書いたつもりだ(自分でも翻訳サイトを試してみたが、やはり自分の意図したものとは違う、ちょっと変な日本語になってしまう)。同じ内容だが、あらためて日本語で(ロシア語で書いた時よりも、内容はふくらましてある。思ったことをロシア語では全部書けないのである)。

=================
ロシア語ではキリル文字という独自の文字を使う。ロシア語を学習するにあたっては、まずこのキリル文字を覚えなければいけない。

キリル文字は全部で33文字ある。大文字・小文字の区別をすると、その倍(区別のない文字もある)近くの数になる。英語のように、大文字と小文字で異なる形のものは少ない(А-а, Б-б, Е-е, Ё-ёだけ)だから、その点は助かる。

キリル文字は、ギリシャ文字を基に作られたらしい。中には英語アルファベットと同じ形のものがある(А, Е, К, М, О, Тなど)。英語と同じ形だが、発音が異なるものもある。Вは英語のV。Н→N, Р→R, Х→F, У→Uと対応している(左がキリル)。当初はこれらの文字に戸惑った。Рを「ピー」と発音してしまうのが特に多かった。

英語には見られない文字もある(Б, Г, Д, Ж, З, П, Фなどなど)。最初の頃は、これらの文字が出てくるたびに読みつかえてしまっていた。Ыなんて字は「b」と「l」と二つの文字に見えるが、これで一つである。

そして、一番厄介なのは、英語によく似ているのに、ちょっと違うやつ。И, Я。一見すると、英語のN, Rだが「なんかちょっと違うぞ。どこが違うんだ?」という第一印象。反対になってるんですな。最初の頃、よくN, Rと書いて先生に注意された。

しかし、慣れというのは恐ろしいもので、今となっては逆に、英語を書こうとすると、はて「Nというのは斜め線はどうだったかな」という具合である。Rもじょうずに書けない。どこから書き始めていいものやら…

2010/12/09

充電池を長持ちさせる

携帯電話、デジカメ、ミュージックプレーヤー、ノートパソコン等々、身の回りに携帯式の電子機器が日常的にある世の中で、充電式電池の使用が当たり前になっている。

そんな状況だから、充電池を長持ちさせて使うのは、そういう機器を使っている人には必要性の高いことがらだと思う。充電池の寿命を長持ちさせるためのコツなど、すでに常識なのかもしれないが、知らない人もだろうから、自分のブログに書いておこうと思う。
(なお、記事の内容自体は、私がこれまで製品の説明書などで知ったことである。ネットを検索すれば、もっと詳しい情報もあるはず)。

使いはじめ (これが一番重要!)

どうやら、充電池を長持ちさせる一番重要なポイントは、充電池を初めて使う時にあるようだ。買ったばかりの充電池は、まず充電をしなければならないのが、このときに必ず「フル充電する」こと!!

ついつい新しく買った製品を早く使いたくて、充電が完了する前に充電を止めてしまいがちだが、これが良くない。この一番最初の充電で、その電池の本来の容量の7割までしか充電しなかったとすると、その電池君は「あ、俺の限界はこの辺なのね」と思って(あくまで擬人化した話、念のため…)、それ以降はどんなに長く充電しても、その7割のレベル以上は充電されないようになってしまう(らしい)。

電池の内容物(ニッケル水素とか)すべてを働かせるために、最初にフル充電して「お前ら、全員よく働くように!」と言い聞かせるための作業が、初回のフル充電である。

ちなみに、協力隊の派遣されている地域では停電がお決まりで、最初の充電中に停電になり、その後、充電しても電池が長くもたないというのはよく聞く話である…(合掌)

フル放電

次に、フル充電し終わった充電池は、電池容量がゼロになるまで放電すること(ひょっとしたら、専門的には「放電」という言葉は意味が違うかもしれぬ。要は、電池を使い切るということ)。これも電池君に「俺はここまで仕事できるのね」と覚えてもらうためである。

デジカメとかなら、動画モードとかにして、とにかく電池がなくなるまで撮影させておく(机の上に放置)。動画モードで「電池残量がありません」と表示されても、まだ余力は残っているので、静止画モードにしてフラッシュありで撮りまくる、または再生モードにして先ほど撮った動画を電池が切れるまで再生する。これくらいすると、かなりゼロに近いところまで使い切れる(この作業は停電に関係なくできる)。

使いはじめには、この「フル充電→フル放電」を2~3回繰り返すといっそう良いらしい。

日常のメンテナンス (基本は同じ)

最初のフル充電・放電の後の、日常的なメンテナンスも基本は同じである。すなわち、マックスまで充電してから使い(それまでは充電を中断しない)、電池が切れるまで使い切る(それまでは充電しない)ようにする。

携帯電話なんかは、毎日寝る前に充電するという人も多いだろうが、こういうのは充電池を長持ちさせる観点からは良くないはずだ。私などは、電池を長持ちさせたばかりに「充電してください」(英語だと"Battery Low!")メッセージが出るまで粘る。そのおかげで、大事な時に電池が切れるという目にも何度もあった。自業自得である…。

元々電話の使用頻度が低い私のような場合はそれでもご愛敬で済むだろうが、人によってはそうはいかぬだろうから、できるだけ使い切ってから充電するようにするしかないだろう。

満タン表示にだまされるな!

携帯電話の充電などで誰でも経験があると思うが、短時間しか充電しておらず、フル充電されていないはずなのに、バッテリーメーターはフルになっていることがある。この現象は、先述した「7割の充電しかしてなくても、電池君はそこを限界値だと思ってしまう」ということを示している。事実、そういう時の電池のもちはすぐにだめになる。

こういう中途半端な充電を繰り返すと、せっかく最初にフル充電・放電をしていた電池でも、劣化が速まってしまう。

未使用状態も禁物

携帯電話ならほぼ毎日使うだろうが、デジカメ、デジビデの類になると、気づけば1~2ヶ月、まったく使っていなかったということも出てくる。充電池の説明書を読むと、こういうのも良くないそうだ。

充電池を長持ちさせるためには、週に一度くらいはその機器を動かし、充電池を働かせて置く方が良い。そういうことを知る以前は、「充電池を長く使うために、休ませるほうが良いだろう」と信じ、いざ使おうと思ったら充電容量が極端に下がっているという経験もあった。真空パック食品と同じで、袋を開けるまでは鮮度を保てるが、一度袋を開けたら早めに食べきらないといけない(充電池はまた復活させられるから、例えが適切ではないが…)。

私の場合、デジビデを持ってきてはいるものの、使うことが少ないので、土日に電池使い切り→充電をするようにしている。

battery

充電池も、昔と比べれば断然性能は上がっている(技術者・開発者に感謝)。それでも使い方次第で、その性能をダメにしてしまうこともあれば、高い性能を長く使い続けることもできる。

携帯電話を半日に一度は充電をしないともたないという状態の人を見かけることがある。こうなるとそろそろ充電池そのものを交換しないと無理だろう(何か復活の方法があれば教えてもらいたい)。新しい充電池を買ったら、是非、長持ちさせる方法を試してもらいたいものである。

2010/12/08

信号機が壊れたら… in ビシュケク

夏、まだキルギスについてばかりで、首都ビシュケクで語学研修を受けていた頃。交差点の信号機が停電かなにかで停止しており、縦横の道の車が、お互いに「自分のほうが優先」と思っているのか、どんどん交差点に突っ込んできていた。


これで交通事故が起こらないところが、逆にすごい運転テクニックなんではないかと錯覚してしまう。

2010/12/07

Я стал не мочь писать англиские алфаветы.

Я начинал изучать русский язык с апреля в этом году. На русском языке пишут по кириллице. Кириллица – русский алфавит. Первое задане человека, который изучать русски язык, заучить кириллицу.

На кириллице есть тридцать три буквы. Есть буквы, которые есть на английском алфавите. Например А, Е, К, О, Т, и т. д. Их произношение около одинаковые с английскым алфавитом.

Есть также буквы, которых нет на английском алфавите. Б, Г, Ж, Ш, Щ, и т. д., их нет на английском алфавите.
Буквы, которые похожие на английского алфавит и имеют другые произношение с английскым алфавитом, сложные. Произнесут "Н" как английскый "N". "С" как "S". "Р" как "R". И "Х" как "F".

Уже вы поняли, как сложно изучать кириллицу после заучить английского алфавит.
Мне самая трудная буква - "И". Она очень похожая с английскым буквой "N". Но её произношение совершенно другое. Её форма похожий с "N", поэтому сначала я часто ошибился в письме. Теперь я привык с "И", но стал плохо писать английском "N"!!

<Преведший сайт>
Google(ru) http://translate.google.com/?hl=ru#
Google(ja) http://translate.google.co.jp/#

2010/12/06

障害者の日イベント

12月3日は「国際障害者の日」ということで、私の配属先のNPOではイベントを実施した。

村の中にあるカフェ(…カフェっていうのは、日本でいうとレストランくらいの感じ。こちらでレストランと言うと、ちょっと高級な店になる)を貸し切りにして、普段はセンターに来ていないが登録されている子ども、その家族を招いてのお食事会。

20101203_shokujikai

100名超の参加者があったそうで、ホールもご覧のとおりぎっしり。

音楽の先生をしてい る人を呼んで、YAMAHAキーボードの生演奏でカラオケなんかもしていた。

sing_song

食事が終わったら、子どもたちはダンスパーティー。

20101203_dance

4時間くらいのイベントだったが、初めて会う子ども・親とも多くて気を遣ったのと、ずっと「わたくし、悪い人じゃありませんよ~」的な笑顔を作り続けていたので、皆さん帰ったあとは後はどっと疲れがきた。

このイベントの準備から実施までに関しては、ところどころに「そういうやり方って、いかがなモンでしょう?」という思いを抱いたのだが、また別のエントリー(=ブログの記事)にて。

2010/12/05

「キルギス行きたい?」アンケート結果

先日、ブログ上でやってみた「キルギスへ行ってみたい?」のアンケート結果。

  • 行ってみた~い! 【3票】
  • 行きたいけど、現実的には無理そう 【4票】
  • 興味ないッス 【0票】
  • 行きたくな~い! 【0票】

「興味なし」「行きたくない」という回答がゼロだったのは、ブログの投稿者がキルギス協力隊員だから、遠慮してくれたのか…。

アンケートというのは、選択肢をどう設定するかも重要な要素だが、今回はなんか中途半端な選択肢だったと反省(一番目と二番目の差が曖昧。一番目は「絶対に行く!」くらいにすればよかった)。

また何か思いついたらアンケートをするので、遠慮なしでクリックをしてください。どうせ遊びですから。

今回のアンケートに投票をしてくれた方、ありがとうございました。

2010/12/04

車からの景色

車で移動中に撮影した映像。

キルギスの田舎道の雰囲気が、ちょっとは伝わるかと。

 

音楽は後付けです(車内の会話がプライバシーに関わるおそれがあるため、音を変更。なお、音楽はYouTubeのサービスで無料で使えるものらしい)。

あなたが1000番目の閲覧者かも

このブログの閲覧数が900を超えたので、今日あたりに1000を達成すると思う。

もし下の"сколько читатели?"の数字がちょうど1000だったあなた! どうぞコメントを残してくださいませ。

Maybe you’re the 1000th viewer.

Viewers of my blog has been over 900. Today it might become “1000”.

See the bottom of the this site, and if the number of “сколько читатели?”, it means “how many readers?”, is just 1000, please leave comment below.

Mungkin anda pembaca ke1000.

Blog saya telah dilihat lebih atas 900 kali. Saya fikir pembaca blog ini menjadi 1000 hari ini.

Jika angka "читатели сколько?" di bawah adalah tepat 1000, sila meninggalkan komen anda.

Вы возможно 1000ный читатель

Число читателей моего блог стало 900. Может быть, оно будет 1000 сегодня.

Если у вас число 1000 в низе этого сайты, то напишите, пожалуйста, что-нибуть на комментарие.

2010/12/03

北側のラジオ放送、傍受成功

「傍受」って言っても、ちゃんと公式に放送されているものなんだけどね…

朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が短波で放送している日本語放送をたまたま受信した。「朝鮮の声(Voice of Korea)」という放送(ちなみに、大韓民国(韓国)から放送されているのは「Radio Korea International」というそうだ)。

どんなことを話しているかと聞いてみた。最近の大きなトピックとして、国境線をはさんで銃撃戦があり、韓国側に民間人の死者が出たという事件があったとネットニュースで見た。この事件についてずっと話していた。

あちらの主張を間接的に伝えることになるので、放送の内容については詳述しない。しかし、容易に想像できるだろうが、我々が日本のメディアを通じて聞いている話とは正反対の内容である。どちらが先に仕掛けたかという点からして、真逆の見解を取っているのである。

う~ん…

政治っていうのは、何というか、すごい駆け引きの場なんですなぁ。

協力隊というのは、一応、公的な身分で外国に渡っているし、このブログも協力隊員として書いているので、一つの事件についての個人的な見解というのは書かない。

思ったのは、それぞれの立場で、それぞれの都合に合わせてニュースって流れているんだろうな、ということ。今回、私が聞いたような報道だけを聞いて生活している人にしてみたら、日本や韓国などの人たちに対しては「どうしてこんな明らかな真実に気が付かないんだ」と言いたくなるだろうな、と。私たちだって、よその国の人たちに対して「なんでこんなことがわからんのだ?」と思うことがあるのと同様、向こうもこちらをそう見ているかも知れないのだ。

人類っちゅうのは、あと百年経っても、こんなことを繰り返しているんでしょうかね。

2010/12/02

Pingyからリンクあり

英語で書いたことと同じだが、私のブログにPingyというサイトにリンクが貼られていた。
http://pingywebedition.somee.com/

おそらく、Googleのブログを自動で表示しているだけ(他にならんでいるブログもすべてGoogleのブログ)だと思われる。

こんな所にリンクを貼ってもらったおかげで、キルギスにも協力隊にも興味のない英語圏の人が来る可能性もあるかも知れない。ま、読まずにウィンドウを閉じるだろうけど…

でもって、Pingyって何なのか、よく分からないままである。なんか、やばいことにならんのかな?(←小心者)

What is “Pingy” at all?

Somehow my blog was linked from “Pingy”. On its top page, my blog was recommended. (I’m writing this on Dec. 1st. The page might be changed in a future.)
http://pingywebedition.somee.com/

I don’t know what “Pingy” is. I searched on web, then it may be something for web managing tool.

Anyway, I still don’t know why “Pingy” has recommended my blog…

<P.S.>
I usually write blogs in Japanese (sometimes in Russian). Today I wrote in English for those who visited to my blog from “Pingy”. If you’re interested in other my blog which were written in Japanese, please use web translation.

Google Translation
http://translate.google.com/

2010/12/01

食べ残しましょう!?

この国の人たちの元々の習慣なのか、あるいは私が外国人だからなのか、日本にいた時よりも人の家に招かれて食事をもてなされることが多い。

食事に招かれた時、いつも戸惑うのが、取り分けられた自分の皿の料理を、食べきってはいけないらしいということ。同席しているキルギス人を見ると、皆、皿に食事を残して箸を置く…、もとい、フォークとスプーンを置いている。

良く聞く話であるが、文化によってはもてなされた側は、食事を残すことがマナーになっている。「私が食べきれないほど、あなたは食事をもてなしてくれました」という感謝を含意した表現なのだという。

マレーシアにいた時の話だが、知人(中華系)宅に食事に招かれて、その日は鍋をいただいた。鍋だから、鍋から自分の器に食べ物を取って食べる。こういう時、その家の主人が客人の器に食べ物を取ってあげることが多い。私は取ってもらった分は残してはいけないと思い、盛られる度に食べきっていたのだが、次から次へと食べ物が足されていく。私は半ば拷問にでもあったように気持ちでがんばって食べていたのだが、さすがにこれ以上は食べられないという極限まで行ってしまい、「ごめんなさい、もう食べられないので、この分は残してもいいですか」と言った。

あとで思い返して気づいたのだが、どうやら食事の終わりは、食べ残すことで表すことになっていたようだ。私が、よそわれる度に器を空にしていたのは、「もっと食べさせろ」という表現になっていたと思われる。その証拠に、私が食べきる度に「おなか一杯になりました」と言っても、間髪入れずによそわれていたが、食べ残して箸を置いた途端、接待は終わったのだ(実は、人数に対して席が足りず、食べ終わった人は次の人に席を空けなくてはいけなかったのだが、私はずっと席を占拠しつづけいたという不作法も働いてしまっていた)。

日本ではどうだろう? 食べずに残すというのは「まずかったので食べたくない」という意思表示と見なされる場合もある。外食店で注文をして、出てきたのがよほどひどい味ならば、私はそうしている。
しかしながら、残すことによって感謝を表すというマナーは、日本でもあるかもしれない。例えば、個人宅での食事会、または結婚披露宴などで、食べ物がすべてなくなってしまえば、ホスト側は「あいつはけちな奴だ」と陰口をたたかれる。会費制の飲み会でも食べ物が少ないと、幹事の評価は下がってしまう。逆に言えば、食べ物が残るのは、宴を催した側にしてみれば成功にあたる。食べきるのが良しとはされていない場合があるということだ。

ただ、日本の場合、取り分けられた分は食べきるのがマナーではなかろうか(家庭によるかな?)。というのも、いったん手を付けてしまったものは、「汚い」と認識されてしまうからだ。「自分の食べられる分だけ取りなさい」。そういうしつけをしている家は多いのではなかろうか。
そのようにしつけられた者にとっては、自分の皿の食べ物を残すというのは後ろめたさがある。しかし、海外の多くの文化においては、残すことが客側のマナーである以上、それに合わせて振る舞うのも、必要なことなのである。

客に呼ばれたら、食事は残しましょう!(ただし、周りの人の様子を見ながら…)

 美味しそうだけど残しましょう