2012/03/31

君の黄身は黄色気味

写真は見ての通り生卵である。

egg

殻を割って器に移したところを撮った、何の変哲もない写真に思うかも知れないが、さに非ず。

この卵の黄身は何色に見えるだろうか? 写真なので、実物の色をそのまま再現されているとは言えないが、まあ普通に「黄色」と言ってよいだろう。日本なら当たり前の話なのだが、キルギスでこういう黄色い黄身の卵を見ると「!」となるのである。

と言うのも、キルギスでは黄身が黄色でない卵にも出くわすからである。まったく黄色でないというわけではないが、薄黄色というか白に近いような色の黄身なのである。もはや「黄身」と呼ぶのがふさわしいのかさえ分からない。

協力隊というのは、それぞれ得意分野があるというか、あるいは物知りがいるもので、この黄色でない黄身というのは、別に卵が異常なのではないのだと教えてくれる人があった。(へぇ~)

なんでも、これは鶏に与える飼料に、黄身が黄色になるような成分を混ぜるかどうかの違いであり、その辺の家が庭で飼っている鶏などは、そういう飼料を与えられていないから、黄身が黄色にならないのだそうだ。だから、卵の栄養的には、黄身が黄色だろうと白だろうと変わらないのだそうだ。(へぇ~、へぇ~、へぇ~)

でも、皆さん、黄身が黄色くない目玉焼きってどう? やっぱ、なんか物足りない感じがするものである。そんな目玉焼きの写真も、昔、撮ったような気もするのだが、どこに保存したか分からなくなっている。次に出会った時は再撮影して、ブログでもご披露できれば。

プレス発表とソ連の名残り

3/30の活動記録。

現在の配属先АРДИ《アルディ》が、ビシュケク市内の大学で何かの発表をするというので、その手伝いに行く。障害児者支援全般に関わる話だったようだが、新たに始める自閉症児支援についても話をしていたので、それは私にも直接関わりのある話であった。

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(大学のステージみたいな部屋を借りて行われた)

この発表会、前日に「明日、○○大学でやるから来なさい」と通知されたもので、「ひょっとしたらお前にも何かを言ってもらうかも」と付け足されていたから、私としては人前で何を言おうかと、それなりに身構えていたのだが、結局、そのような出番はなく終わった。やれやれ。

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(国営放送局のテレビカメラも入っていた)

今回、会場として借りたのが、アメリカの支援で運営されている「中央アジアアメリカ大学」という大学だったのだが、元々はソ連時代に作られた大学で、ソ連が終焉し、キルギスが独立国家になってしばらくしてからアメリカが大学の運営を引き継いでいるところである。

そんな歴史があるところなので、この会場で面白いものがあった。前出一枚目の写真の壁にある肖像画が、

Marx_Lenin

このお二人さんなのであった。壁の反対には、エンゲルスさんの絵も掛かっていた。「アメリカ大学」と称する建物にこういう絵があるのが、いかにもキルギスらしくて、私は大好きである! それを無理に剥がそうとしない大学運営者も、「アッパレだ、こりゃ~(大沢親分風)」とシールを貼りたい。

ちなみに、大学の前にある公園にもソ連時代の名残に違いない銅像があった。

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(もう一つアッパレだ、こりゃ!)

旧ソ連圏のほとんどで撤去されてしまったというマルクス、エンゲルス、レーニン関係の肖像画、銅像であるが、キルギスはそれらを残している。こういうソ連時代の名残りが見たい方は、是非、キルギスへどうぞ。

(バコンバエバ村にはスターリンのも残っていたぞ~!)

2012/03/29

キルギス語と沖縄方言

キルギス語で「専門職」「特殊技能保持者」「実行する人」などを表す接尾辞がある。日本語で言えば「~人」(例:料理人、案内人)、「~者」(例:司会者)、「~手」(例:運転手)、「~師(士)」(例:消防士、看護師)が対応する。

キルギス語の場合、接尾辞の前にある母音に対応して接尾辞の発音も「~チュ」とか「~チ」という感じになる。

例えば、“羊”を表すкой /コイ/にこの接尾辞が付くとкойчу /コイチュ/となり、「羊の仕事をする人」すなわち「羊飼い」を表す単語になる。

キルギスの民族楽器комуз /コムズ/にこの接尾辞を付けてкомузчу /コムズチュ/となり、「コムズを弾く人」「コムズ演奏家」となる。

沖縄の方言では、“沖縄島民“のことを「うちなんちゅ」と呼ぶようだし、“島民“は「しまんちゅ」と呼ぶようだ。“海人“と書いて「うみんちゅ」とも読むらしい。沖縄旅行の土産なのだか、そういう文字がプリントされたシャツを着ている人もたまに見かける。これらの最後に付いている「~ちゅ」という音は、「~の人」というニュアンスであろう。

キルギス語の「~チュ」というのと、沖縄方言の「~ちゅ」は音と使われ方が似ている。おそらく語源をたどれば同じ所に行き着くのではないかと、素人考えをしているのだが、そういうことを研究してくれている言語学者はいないものかしらん?

キルギスと沖縄の共通点と言うと、キルギスのコムズも、沖縄の三線《さんしん》も、共に弦が3本の楽器である。それを言うと三味線も同類であるが、調弦の仕方では三味線はちょっと独自の発展をしたのではないか? 実は三味線のことは知らないので推量でしかないのだが…。もちろん、伝来の流れで言えば、大陸のほうから日本に入って来たのは間違いない。

楽器とか、言葉の共通点から、キルギスと沖縄を結びつけるルートが検証できれば面白そうだなと思ったので記した。

2012/03/28

シルクロードの国に三蔵法師が帰って来た

キルギスのテレビを観ていて、面白いことをいろいろ発見する。

先日、仕事から帰宅してテレビを付けたら、夕方の時間帯に「西遊記」をやっていた。

おそらく中国で製作されたもので、キルギス語吹き替えになっているから、言っていることは99%分からないのだが、

西遊記

西遊記2

この写真をみれば、間違いないでしょ。

私の世代にとっては、「西遊記」と言えば、孫悟空・堺正章、三蔵法師・夏目雅子、猪八戒・西田敏幸(パート2では西田から左とん平)、沙悟浄・岸部シロー、加えて馬が人間に化けるた時の藤村俊二だ。ゴダイゴがブレイクしたのもこの番組のテーマ曲があったればこそだったはず。

男子はみんな堺の扮する悟空のアクションのマネをしたものだ。当時はビデオデッキなんてものはないから、私はカセットテープに録音していた。思い入れの強い番組である。

キルギスで放送されているのは、前述の通り、中国製作のものだと思うが、まあそのことはどうでもよい。問題なのは、「西遊記」というのは仏教に関係する物語であることだ。

これまで私のブログ内でも何度も触れていることだが、キルギスの7割程度を占めるキルギス人のほとんどはイスラム教徒である。そういう国で「西遊記」が放送されていることは、私にしてみればちょっとした驚きなのである。そして、このことは好意的に評価したい。

別に、この国に仏教が広まるきっかけになるから、ということではない。

私が好意的に評価するというのは、このキルギスは、かつて玄奘三蔵が唐からインドまで行く際に通った地であり、そのことは仏教だのイスラム教だの関係なく、人類の歴史として揺るがせない偉績があった場所だからであり、そのことをキルギス人が認識するきっかけになれば、という期待を込めてのことである。

思えば、この国での三蔵にまつわる史跡の扱いは惨憺たる状態。異教の偉人であるから、興味が持てないのは分からないではないが、いやいや、そんなないがしろにできるような人じゃないでしょ、あんた。と、思うのである。

そう思うのは、やはり日本人だからなのか…。でも、1400年も前に17年かけて3万キロの旅をしたって、それだけでも冒険譚として、面白いはずなんだけどなぁ。西遊記→三蔵というふうに、キルギス国内での関心が高まれば、これまで放置されてきた三蔵関係の史跡も発掘され直すなり、整備され直すきっかけになるのではないか、とかすかな期待を持ったりもする。そうすれば、日本や中国からの観光客も呼べると思うのだ。日本、中国では今でも三蔵はヒーローでしょ(今の日本の子供たちは三蔵法師についてどのように聞いているのだろうか。まさか、ほとんど知らない? まさか…。でも、数年前に某アイドルの孫悟空キャストでリメイクされたドラマ「西遊記」じゃあ、しょうがないか…)。

異教の史跡でも文化的な価値として保護するというのは、必要なことだろう。日本でもないがしろにされてしまっている仏教、神道以外の宗教遺跡というのはあるのかも知れないが、陸続きで国境を接している場所では宗教を巡る歴史は入り組んでしまっているのではないか。遺跡の発掘・整備となれば資金も必要なことだから、異教の物であれば後回しになる、というのもあるだろう。

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(なんか、お笑いタレントが仮装したかのような仏様も登場していた)

自閉症児の指導教室、開始

ビシュケクに引っ越したのが2月27日。日付でいえばちょうど1ヶ月目。

新しい配属先には、自閉症児の指導教室を開くので、ノウハウを伝えてほしいということで呼ばれた。

この1ヶ月、自閉症児の母親で、将来的にはこの教室の先生になる予定の人と一緒に準備をしてきて、今日、その彼女の息子を教室に連れてきてもらって、初めての指導を行った。

何事も初めてというのは緊張するものである。事前にその子の情報も取っていたし、セオリー通りに準備をしてきたつもりであるが、本番では何が起こるか分からない。もし、今日、上手くいかなければ、センターのスタッフや保護者たちからは、「こいつはあてにならんな」と思われる可能性もある。

そう考えると前日は寝ることもできなかった。ということは全くなく、私の場合、こういうプレッシャーの時はかえって現実逃避で寝てしまうのだ、ハ、ハ、ハ(って、笑い事ではないけどね)。

で、結果から言えば、まあ上々のできだったんじゃないか、と。

自閉症児者って、何をすべきかが明示されていれば、自閉症でない人たちよりも余程集中してそのことをやり遂げようとする、と私は思う。時には気の毒なくらい、実直にやる。私にもその10分の1でも集中力があれば、と思うこともしばしばなのだが…。

今回の子供についても、彼が何をすればよいかが分かるように環境を作ることがメインのテーマであった。もちろん、初めて入る教室だから、ポイントごとに誘導・指示は必要であったけれど、全体的には拒否的になることもなく、ほんと健気なほどに学習課題に取り組んでくれた。

っていうか、そもそも、ここのお母さんが家でも相当頑張って教えているという下地があるのだ。私の力ではないので、偉そうに言えることは何もない。でも、誰の業績かということ以前に、キルギスでこのような取り組みが始まったことの意義を記しておきたい。

もちろん、既に運営されている指導教室はあると聞いているし、首都には今の日本で言うなら特別支援学校・学級(昔の養護学校・特殊学級)もあるから、私の配属先が「初」というわけではない。でも、多分、ここはやっている運営の仕方も、指導の方法も他とは異なる、自閉症児たちとその家族たちのための教室になると思う。そうなってほしい。

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(日本で同僚だった皆さん、キルギスでも同じようなことをやってまっせ~)

2012/03/26

豚肉が買える

首都で独り暮らしを始めて、自分で料理をしてみて発見することも色々ある。

前にキルギスの肉についてブログに書いた。村では推定99%はキルギス人(あとの1%はロシア系住人)だったので、村内の肉屋で売られているのは牛、羊の肉だけであった(キルギス人はほとんどがイスラム教徒で豚肉食はタブーである)が、首都は人種構成がかなり異なってロシア系住人が多いので、バザール(市場)の肉売り場にも豚肉のコーナーが設けられている。

今、手元にバザールの肉売り場の写真データがないのだが、ビシュケクのバザールでは動物の種類によって売り場コーナーが分かれている。牛、羊、豚と分かれている。特に豚肉は、イスラム教徒であるキルギス人たちにとっては不浄のものだから、牛、羊とははっきりと離して売り場が設けられている。

私がビシュケクで一番よく買い出しに行くのがОш /オシュ/というバザールだが、ここの肉売り場では馬のコーナーもあることに気付いた。私はまだ馬肉は買ったことも調理したこともないが、そのうち使ってみたい食材である。

さて、村にいる時は入手さえ不可能だった豚肉が、ビシュケクであればいつでも買うことができる。日本人の料理レパートリーの中には、豚肉でなければ美味しくないというものもたくさんある(生姜焼きとか酢豚とか)。そういう料理をしたい時は豚肉を買い求めるわけだが、バザールで売っている肉というのは、(豚肉に限らないが)日本でスーパーで買うように薄切りに加工されているのではなく、部位ごとにブロック(塊)でド~ンと置かれているのである。そのうち写真を撮りたいと思っているが、これ、なかなかすごい光景なのである。

肉のことなんて、正直なところ何も分からないので、ブロック肉の脂肪の量とか骨の形とかを見て、バラだのリブだの、あるいはヒレだのと勝手に想像するのである。あるいは、売り手のおばちゃんに身振り手振りで、豚のどの部分かを訊いてみるとかもする。

そうして買って来たブロックの豚肉であるが、料理に使うには薄切り、細切れにするところから始めなければならないのである。こういう作業をしていると、日本の肉屋、スーパーというのが、いかに親切なのかというのが痛感される。だって、日本なら「カレー・シチュー用」とか「とんかつ用」「生姜焼き用」とか、用途別に切られている上に、それが書かれたシールまで貼ってあるのだから(大阪では「お好み焼き用」というラベルも一般的なので驚いた。関東では見たことがないと思う)。

豚肉を切っていて、日本の肉と違うと気付くことがあるのだが、それは「皮」がついているということなのである。いや、日本で流通している豚肉だって、元々は皮が付いているはずなのだが、店頭に出る過程で皮は切り落とされているから、ほとんどの消費者は皮付きの豚肉なんて見たことがないのではなかろうか。

表現・分析が間違っているかも知れないが、豚の皮というのは硬いゼラチン質である。皮を付けたまま肉を切って、たとえば豚肉と野菜の炒め物なんかを作ったとすると、食べる時にこのゼラチン質部分が口に残る。だから不味いというものではない。ただ、日本の豚肉を食べ慣れた私にとっては違和感があるだけのことだ。慣れれば「そんなものか」となってくる。それでも自分の食べ慣れた食感というのはあるので、基本的に私は調理の際には皮は落として使う。

落とした皮は、それだけをカリカリになるまで炒める(揚げるといったほうがいいかも)。すると、これが香ばしくなって、酒のつまみにはピッタリという感じになる。

豚肉の皮は、実はマレーシアにいた時も体験していた。マレー人もイスラム教徒だから豚肉は食べないが、マレーシアには中国系の住民も3割くらいはいて、中華料理屋もたくさんある。そういうところで豚料理を食べると、口に残るものがあり、それが豚の皮なのであった。

日本人は豚の皮を食べない食文化を形成してしまったが、日本以外では豚の皮は普通に食されているのではないかと思う(少なくともロシア人、中国人は食べている)。日本で、流通過程で切り落とされた皮はどうなっているんだろう。

それにしても、肉をブロックで買ってきて、自分で切り分けていくというのも、面倒ではあるが楽しい作業である。帰国してからも、馴染みの肉屋さんを作って、ブロックで肉を売ってもらおうかと思うほどである。豚肉も皮付きのままで売ってもらう。

ビシュケクの春は近い?

3月25日、ビシュケク市内の「エルキンディック(Эркиндик)」という数ブロックに渡って公園になっている通りの様子。

Erkindick Street

まだ街路樹の枝は裸のままだが、雪は完全に溶けきっている。もう雪が降ることはないように思うのだが、現地の人も「まだ分からない」という感じらしい。北海道でも4月に雪になることもあるからなぁ。

任地変更となって、村で心残りだったのが、春の訪れで庭のあんずや梨の木が葉を付け、タンポポが一斉に咲き乱れて黄色い絨毯のようになるのを見られなかったことだが、首都には首都の春の風景があるはずである。どんなふうに町の様子が変わるのか、楽しみである。

2012/03/25

独り暮らし、首都隊員 ~生活の変化考(2)~

ブログの更新が滞った理由を、2月末に村から首都に任地が変わったことで、生活で変わったことを中心に考えてみている。

  1. ●●解禁!
    伏せ字にしているからといって、いかがわしいことを想像せんでおくれ。いや、いかがわしいかな、やっぱり…。
    ホームステイ先は、キルギス人家族と一緒だったので、隊員仲間が泊まりがけで遊びに来た時くらいしか部屋では酒を飲まなかった。あとは、月に1~2度、同じ村の隊員と週末に村のカフェに集まって乾杯するくらいだった。
    それが今は、そういう気遣いがないから、基本的にアルコールは飲みたければいつでも家で飲める状態。う~ん、私のことを個人的にしっている方々なら、こういう状況が何を意味するのか、だいたい想像がついているんではないか、と…。
  2. “首都隊員”のお務め
    協力隊が派遣される国おける首都の意味というのは、隊員にとっては、日本で「東京が首都です」というのとは違った意味がある。日本であれば東京以外からも海外へ出入りする玄関口はある(実際には東京ではないですな。成田の皆さん、失礼しました)。協力隊が行くのは途上国だから、国際便が飛んでいるのは首都の空港だけということもある。いや、マレーシアのように首都以外の空港でも日本との定期便が飛んでいる国もある(そう考えると、やはりマレーシアって、すでにかなり発展した国なんだなぁ)が、それでも協力隊が赴任・離任する際は首都である。
    その他にもJICAや現地日本大使館に関連する行事なんかも、ほとんどが首都で行われる。私個人は、自分の活動と関係のない行事であれば参加しないと決めているが、そういう行事の際に首都に集まってくる地方隊員がいれば、せっかくの機会だからちょっとした食事会(飲み会?)を開くことになる。いや、別にそれは義務ではないんだけど、2年間という限られた期間で出会う協力隊同士の交流というのは私にとっては貴重なものなのだ。
    それに加えて、前に書いたように離任する隊員の見送り、赴任して来る隊員の出迎えというのも、首都にいる隊員が中心にすることになる。まあ、これも義務ではないし、私もそういうことがしたい気分の時だけするという話なのだが。
    ということで、首都にいるとそういう“お付き合い”をする機会が増える。これは村にいた時より頻度が増えた。というか、3月は4次隊の離任時期と重なったので、送別会やら個人的な食事会が多くなったということだろう。ブログの更新が止まっていたのもその時期である。

まあ、どれをとっても、「ブログ記事が書けない」というほどのものではないのであった。要は、

  1. ダラダラと生活している

と言うに尽きる。

お粗末。

ブログ更新、停滞気味… ~生活の変化考(1)~

大したことを書いているわけではない当ブログだが、なんとなく自分の中では「1日1記事」というペースで書こうという思いがある。必ずしもそのペースで書いてきたわけではないが、概ね1日1記事で「数はこなして」来た。

キルギスの首都、ビシュケク市に任地変更となって、新しい生活、新しい活動が始まって、ブログの更新が滞りがちである。どうしてなんだろうと、自分でこの間の生活の変化との関連を考えてみた。

  1. 新しい活動先に慣れるために忙しい。
    前の配属先での活動に比べれば、確かに忙しいとは言えるが、まったく時間がないわけではないな。あ、でも前の職場では仕事がなさ過ぎて、勤務時間中にブログ記事を書くこともあったな、そう言えば。
  2. 独り暮らしなのでやることが増えた。
    自炊をし始めたと言っても、実は村でホームステイしていた最後の3ヶ月くらいは、実質、自分で食事を作る状況になっていたので、その点ではそんなに大きな変化はない。村では洗濯は1~2週間に1回、ただし手洗いだったのが、今のアパート暮らしでは3日に1回、洗濯機でやるようになった。洗濯に関しては、今のほうが楽になっている(この記事を読んでいる日本の若人よ、2~3度でよいから洗濯を手洗いでしてみると、“洗濯機”という家電が人々の生活をどれだけ変えたかが実感できようというものだよ)。
  3. テレビの出現
    テレビが急にニュッと出てきたということではなく、私の生活の中にテレビがあるようになったということ。何を隠そう、私、テレビ大好き人間である(ラジオも好き)。入居しているアパートの部屋にテレビがあって、大家さんが多チャンネル衛星放送の契約をしてくれているのだ。チャンネル数は60くらい。これの影響ははっきり言って大きい。テレビって惰性で見てしまうのだ。これで時間を無駄にしているの事実。
    ホームステイではテレビは皆と一緒に食事をする時以外は見ていなかったが、今は自分で好きなようにチャンネルを替えて見られるもんね。テレビを見ていて、ブログに書けそうなネタもいくつかはあったので、追々書いていくつもりである。

まだ続く。

2012/03/24

現職参加の協力隊も帰国

キルギスの21年度4次隊隊員たちが3月22日に離任・帰国したことは書いたが、この時期、私と同じ22年度1次隊の中でも任期を終了し帰国した隊員たちがいる。

協力隊の中には、日本での仕事を休職して、2年間の協力隊活動に参加する人たちがいる。これを「現職参加」と呼ぶ。

「2年間」と書いたが、訓練機関も含めると2年3ヶ月となる。現職参加組の中には、学校教員で休職して協力隊に参加する人もいるのだが、この2年3ヶ月が学校の学期と相性が悪い。普通に2年3ヶ月で行って帰って来ると、学年の途中で復帰することになり、つまり年度途中で学級・教科担任が交替することになる。

それはあまり学校現場にとってよろしくないという判断だと思うが、学校教員に限っては訓練機関も含めて2年間で協力隊参加できる制度がある(確か「特別現職参加」とかいう名称だった)。

で、その特別現職参加をしている学校教員の隊員の人たちが、3月のこの時期に活動を終えて帰国した。

キルギスには22年度1次隊の特別現職参加の隊員はいなかったが、駒ヶ根訓練所で一緒に訓練を受けた同期で、特別現職参加だった仲間から、帰国するとのメールをもらっていた。

自分の同期であるから、先輩を見送るのとはまたちょっと違った感覚である。「俺たちの隊次も、いよいよ活動を終える日が来たんだな」という感じだろうか…。

そう言えば、10年前は、まだ特別現職参加ではなく、一般の現職参加で協力隊に来ている人もいて、現にマレーシア隊員の中には特別と一般の両方の現職参加隊員が混在していた。今は特別現職参加以外での教員の参加はないんじゃないだろうか? 少なくとも22年度1次隊駒ヶ根訓練所ではそういう人には会わなかった。

帰国した現職参加の人たちは、JICAでの活動報告などの所定の手続きを終えたら、自分の職場の地方に戻り、4月からの新学期への準備に入らなくてはならない。民間企業からの現職参加者だと、帰国後手続き終了後4~5日で職場復帰という話も聞く。

協力隊の余韻に浸る間もなく、日本での日常に戻らざるを得ないわけだ。帰国後に就職活動をしなくてよいメリットは羨ましい限りだが、帰国後すぐに日本社会の中で働かなくてはならない点は気の毒に思う。なんと言っても、たいていの協力隊員は、2年間、発展途上国の良い意味での「まったり、のんびり」ペースにどっぷり浸かって生活・仕事をしてきているので、1~2週間で日本のペースに合わせるというのは、体も気持ちも相当しんどいことだという思うのだ。

うん、でもそれを今さら言っても仕方ないし、何よりも私は現職参加ではないから、当人たちが私が想像しているように感じているとは限らない。とにかく言えることは、既に帰国をした同期の皆さん、2年間、お疲れさまでした。私も7月末に帰国するから、その時にはそれぞれの任国、任地、職場の話をつまみに飲みに行きまっしょい!

2012/03/22

さようなら、21年度4次隊隊員

3月22日は21年度4次隊のキルギス隊員たちの離任日であった。

空港への移動が午前3:30頃ということで、3時に近所に住む隊員の荷物運び出しの手伝いに行く。空港までの迎車がなかなか来ないトラブル(詳細は省略)があったが、やって来た車に私も便乗させてもらって空港へ。

今回の帰国隊員は4名で、全員が女性だったのだが、中に親衛隊(?)の男子を4名引き連れて、バッグ類を運ばせている人がいて、いやいや、なかなかかっこよかった。あとで冷やかしのメールを送ったら、本人曰く「知らないうちに見送りの子が増えちゃってた」とのこと。色恋の話は知らないし、知ろうとも思わないが、それを抜きにしても、現地の人に見送ってもらえるというのは、2年間の活動の締めくくりとしてはよい思い出になるのは間違いない。

私は、昨日、キルギスの祝日だったところを出勤したので、本日が休みとなったので、見送りの後は家に帰って午前中いっぱい寝ていたが、見送りにきていた別の隊員はそのまま朝から出勤と言っていた。お疲れさま。

私、マレーシアでの協力隊時代も含めて、帰国隊員の見送りに空港まで行ったのはこれが初めてであった。これはこれで、協力隊のワンシーンとしてはいいものだな、と思った。結構、最後の最後で、自分の知らなかったその隊員の2年間の生活の一端も見ることになる(場合もある)しね。

マレーシアでもキルギスでも、今までは首都に生活していなかったから、見送りに行くことは物理的に無理だったということもあるが、2年間の活動を終えて帰国していく先輩たちを見送るというのも、協力隊として経験しておいて良かった。今は首都隊員になったことだし、次回も見送りに行くべぇ、と思ったら、次に帰国するのは自分の隊次(22年度1次隊)なのだった。

信じられない感覚だけれど、私の隊次もいよいよ帰国が迫ってきたということだ。

2012/03/21

Нооруз (イスラム教新年)

3月21日はイスラム教新年で祝日。キルギス語表記だとНооруз /ノールズ/。家のテレビでカザフスタンの放送を見ていたら、カザフ語ではНаурыз /ナウルズ/となっていた。

イスラム教徒人口の少ない日本では、こういう祝日があることを知っている人はほとんどいない。私もキルギスに来るまで知らなかった。

ノールズは祝日なのだが、なぜか私が新しく配属された障害児センターは仕事をしていた。そんな日なので、いつもは4~5人通ってくる子供も2人しか来なかった。ノールズのような日は、親戚や友人を招待(逆の立場なら訪問)するので、子供をセンターに連れてくるどころではないだろう。むしろ、2人も子供が来たのかと思ったほどだ。

スタッフに訊いたら、仕事が終わって帰宅後、親戚が家に来ると言っていて、やっぱり祝日としての行事はしたようである。仕事をして、なおかつ祝日行事もするなんて忙しいのに、なんでこの日を営業日にしたのか、説明を聞いたけれど、よく分からなかった。

首都ビシュケクのアラ・トー(Ала Тоо)広場という、大きなイベントがいつも開催される場所では、ノールズにちなんだイベントが開かれていたようであるが、私は出勤していたので行けなかった。というか、休みでも行ったかどうかは怪しい。夜、テレビで録画中継を見たが、歌手が歌ったりしていた様子であった。う~ん、まあ、現地で生で観られなくても悔いは残らない感じかな…

ノールズを出勤日にしたので、22日は振り替えで休業日となった。22日はキルギス21年度4次隊の帰国日で、朝に空港から出発するのだが、仕事を気にせず見送りに行けるので、結果的にノールズが出勤日になったのは良かった。

2012/03/12

3・11、1周年

あれから1年が経ったのか。

1年という時間が経って、自分の中で東日本大震災の衝撃とか緊張の感覚は薄らいでいる。時間の経過で体験に対する記憶が変わっていくことは当然であるが、日本国外にいるから尚更であるのかと思うのと、日本にいたとしても自分はどれほど震災や原発の問題に向き合っていただろうか。

1周年の3・11当日は、各地で行われた慰霊祭・鎮魂祭の模様がこちらのテレビニュースでも伝えられていた。その1週間前くらいから、3・11に向けて、現在の被災地の状況や復興の取り組みが特集されているのもテレビでやっていた。

この1年、ほとんど被災地の映像を見ることがなかったのだが、ニュース映像を見ると1年が経ったとは信じられないほど、崩れたままになった建物、津波で流された船などがそのままになっている状況に驚いた。原発事故で立ち入り禁止区域になっているために、倒壊建物の処理が進まないなどの事情があるのだろうか。ロシア語で聞いているので、ニュースの10分の1も理解できておらず、とんちんかんな疑問であるが…

2011年を表す漢字かなにかが「絆」だったということで、大震災を経験し、その後の被災者・被災地支援の動きや人々の気持ちを代表する言葉には違いなかったのだろうが、ひとたびその言葉が定置されると、何をやるにしても「絆プロジェクト」「絆○○」となって、それは「絆」というキーワードが置かれる前に人々が動いていた気分とは、少しずれたところにあるのかもなぁ、などとも思う。「絆」というキーワードを置いたことを非難するつもりで言っているのではなく、ある状況にネーミングをすると、今度はその名前が状況を限定するようになる不思議を思う。

あの震災で露わになった一番のものは原発を巡る諸問題だったと思うが、これについては地球資源の利用方法や経済活動のあり方など、議論を深めている人たちがいるようである。私などは、当然、そのように深めていく力はないので、そういう議論を端で見ながら多少は自分でも考えてみるという感じになる。書評サイト(?)の「松岡正剛の千夜千冊」で、松岡氏がそういう議論を俯瞰しているのが参考になっている。

あと、西條剛央という人の「ふんばろう東日本プロジェクト」というのも最近知ったのだが、この西條氏というのは構成構造主義という学問(というか研究方法?)を紹介している人で、自分の仕事の関係で関心を持っている人であった。被災者・被災地の支援と、構成構造主義というのは結び付かないように思ったのだが、西條氏曰く、復興支援に構成構造主義の方法論はすごく有効なのだそうだ。自分の研究テーマを、被災者・被災地支援に応用しているということになるようだ。

ふんばろう東日本支援プロジェクト

ほぼ日刊イトイ新聞での糸井重里×西條剛央対談

と、とりとめのない内容になってしまったが、3・11の1周年の雑感を記しておく。

2012/03/10

○○も都会も3日で慣れる?

村の隊員だった時は、健康診断やその他の行事に合わせて首都のビシュケクに来ていた。3~4ヶ月に一度くらいの割合だったろうか。そうやってたまに首都に来てみると、村とは全然違った生活風景に毎回驚いたものであった。

キルギスの総人口が約550万人なのだそうだが、その内、首都の人口が100万人。総人口の5分の1程度の人が一つの市に集中していることになる。100万人の人口規模となれば、色々な商売が成り立ってくる。売られている物や立ち並ぶ店を見ても、ある程度までは日本と同じ様な物は揃っているという印象である(とは言っても、いざという時にほしい物が手に入らないということはままあるのだが)。

そういうキルギス唯一の大都会では、歩いている人のファッションを見ても、道を行く車を見ても、「いやぁ、ビシュケクは違うべな」と思わずにはいられなかった。「おのぼりさん」とは田舎者が都会の光景を見て舞い上がるようなことを揶揄する言葉だが、まさ自分もそういうおのぼりさんの一人であった。(逆に、田舎に行って田園や山川、家畜などを見てはしゃぐ都会の者は「おさがりさん」とは呼ばないのであろうか?)

たまに来るビシュケクというのは、人も車もごった返している感じで、市場《バザール》で買い物するのにもバスに乗るのにも、人混みに揉まれるのに耐えられないほどであった。まさか自分が首都で暮らすことになるとは思っていなかったのだが、首都への引っ越しが決まった時にまず思ったのは、「自分は、あの人混みの中で、毎日生活をしていてけるのだろうか」という心配であった。

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(撮影した日のバザールは割と人手が少なかったが…)

ビシュケクでの生活が始まって2週間が過ぎて、最初はやはりマルシュルトカに乗るだけでも、おしくらまんじゅう状態にうんざり辟易していたが、通勤のために朝夕乗らざるを得なければ乗るだけの話で、毎日乗っていれば、いずれおしくらまんじゅう状態の中でもどう処すればより楽かは分かってくる。

市場の人混みも人疲れするのは以前と変わりはないが、どこに何が売っているのか見当を付けて、必要な物だけを手早く買って終わりにしてしまえば良いだけだと思うようになった(村から首都に来ていた頃は、物珍しさに、買う物がないのにウロウロと歩き回っていたものだから疲れたのだ)。

怖れていた首都暮らしも、始まってみれば慣れるものである。私が特別に適応力があるわけではない。たいていの人はこうやってどこの場所でも適応するものだ。むしろ、日本では町育ち・町生活をしてきた私が、まったく村人と同じとは言わないが、村で生活していたことのほうが特異なことだったとも言える(生活だけを比較するなら、バコンバエバ村でのほうが好きだったけどね)。

昔から「美人は3日で飽きる、ブスは3日で慣れる」と言うそうだが(私が言ったわけではないよ!)、同様に、都会の人混みも満員のバスも3日で慣れるということか。

そういえば、村からたまにビシュケクに来ていた頃は、首都の女性たちの華やかさに心躍らせていたものだが、こちらも毎日見ているうちにそうでもなくなってきた。これは「3日で飽きる」ほうの適用だろうか、あるいは私が若くなくなった証拠だろうか…

新しい配属先で2週間経過

2月末に職場・任地変更をし、新しい配属先で活動し始めてから2週間が経過。残り5ヶ月だし、大したこともできないだろうから、今さら焦ってバタバタとしなくても良いだろうと、自分の中で算段を決めていたが、配属先のほうから自閉症の子供の指導クラスを開く予定なので、そのための準備をしてくれと言われ、予定外の忙しさになった。

新しい配属先は障害児の親たちの組織した療育センターで、スタッフの中には自分も障害児の母親という人もいる。「だから」と言ってしまうと、それで飯を食ってきた職業人としては無責任ではあるが、やはり障害のある子を持つ親のモチベーションは高いと感じる。前の配属先では、スタッフが勝手にセンターを休みにしたりしてたもんなぁ…。

親の会が運営しているこのセンターは、現時点では肢体不自由児やダウン症の子らが通ってきているので、その子達の療育クラスが行われている時間はそちらを手伝い、それが終わってから、あるいはクラスがない曜日に、新たな自閉症クラスの開始の準備をしている。

一緒に組むことになる予定の人は、自身も自閉症児の母親で、この国では珍しい英語が話せる人(夫の仕事の都合でアメリカに在住していたのだとか)。自分で英語、ロシア語の文献を取り寄せて、あるいはロシアの療育講座を受けに行って、本当によく勉強している。仕事において私にとってのメンター(指導者、助言者)的な人からは、「専門家は親が勉強する以上に勉強してなきゃね」と言われていたのを思い出す。う~ん、正直、自分の知識をどれだけアップデートできていたかと問われれば、忸怩《じくじ》たるものがある。

今は、そのパートナーとなるスタッフと、お互いの自閉症という障害に対する認識や、指導・援助の方法論の部分のすり合わせをしている。実際問題、世の中にはあまたの療育の考え方があり、方法論もある。私自身がその中のどのあたりの立場にいるのか、自閉症をどのように捉えていて、どういうアプローチが有効だと考えているか、またどのあたりが私の限界かも示しておかないと、相手は自分の期待値で解釈をしてしまうだろうし、この先話が噛み合わなくことも考えられる。だから、ここの部分はちょっと丁寧に説明をしておきたいし、相手の考えも聞いておきたいのである。

それにしても、その人が英語を話せるということが、どれだけ私を助けてくれていることか。自分のロシア語・キルギス語のレベルでは、ここまでの話はできなかったということもやり取りできる。この内容をすべてロシア語で伝えるとしたら、資料の作成とかも5倍くらいは時間がかかる。いや、5倍じゃ済まないな、きっと…。

久しぶりに英語を使いはじめて、いろいろと思うこともあるので、ブログにも近いうちに書きたいとは思っている。

2012/03/09

バルクチのロシア正教寺院

バルクチ散策の時、鐘の鳴る音が聞こえ、その音のもとを探して見るとロシア正教寺院があった。

前回のブログにも書いたように、ソ連時代はロシアとの物資のやり取りの拠点にもなっていたようだから、その名残でロシア系の住民もたくさんこの町に住んでいる。キルギス系の村であればロシア正教の寺院はないから、こういう寺院があること自体が、その町・村の履歴を顕している。

церковь

私たちが聞いた鐘の音は、建物の上にあるこの鐘であったのだろう。

司祭(と呼ぶのか?)と思われる男性がいたので、中に入って良いかと尋ねると「どうぞ、ご自由に」という感じの手振りをされたので、礼拝堂に入ってみた。

以前、カラコルという町のロシア正教寺院に入った時には、女性は髪を隠すように求められたので、同行していた女性隊員はスカーフなどで髪を隠した。男の私は特に何も必要ないだろうと思っていたら、かぶっていたニット帽を脱ぐように言われた。男は髪を出さなければいけないということか? 多くの宗教において、何らかの頭髪に関する決まりがあるのは興味深いところである。

会堂の中には「イコン」として知られる、聖書の中のキリストにまつわる話の一場面を表す絵が壁や天上にいくつも描かれていた。会堂の中は撮影ができないので、建物の外にあったイコンしかお見せできないが。

icon

我々日本人は、見た目はキルギス人に近いから、そういう連中がロシア正教の会堂に入っていくことは、ロシア人、キルギス人それぞれにとってどのように見えるのだろうか、などと考えながらの見学であった。

2012/03/08

サギに遭った

キルギス、イシククル湖の西端にバルクチという町がある。キルギス語で「балык /バルック/」が“魚”の意味で、それに“職業者、専門家”を表す接尾辞「чы /チ/」を付けた言葉で、魚の仕事をする人、つまり“漁師”という意味の単語である。

町の名前から分かるように、ここはかつてイシククル湖の漁師町として栄えていたのだそうだ。今は漁業禁止となっているそうで、確かにイシククル湖で漁をしている船は見たことはない(釣り人はいるけれど)。そういう背景があってだろうか、バルクチという町はうらさびれた感じの町になっている。

私がバコンバエバ村を離れる前に、同じ村の隊員たちとバルクチに遠出。バコンバエバからはタクシーで1時間。いつもは首都への移動の通過点であるので、大通りの一本裏の筋がどういう雰囲気なのかさえも知らなかった。

Balikuch1

裏通りであるが、道幅はかなり広い。大型トラックが対面通行してもなお余裕がある。おそらく昔はこっちがメイン道路だったのではないか。

Balikuch2

バルクチは、キルギスで唯一の鉄道路線の終着地点でもある。ソ連時代にはロシア圏との物資輸送として大いに活用されていたようだが、今は需要が減って本数も少ない。旅客車両は夏場にしか運行しないそうである。ちなみに、ビシュケクで新しく住み始めた家のすぐ近くが鉄道の駅である。

そんな感じでバルクチ内をうろうろと散歩をしていたのであるが、線路に沿って流れる小川にあれを発見。

sagi1

この白い鳥はサギである(詳しい種類は分からないが、“シロサギ”ってことでよいのだろうか)。これまで、ビシュケクへ移動するマルシュルトカ(乗り合いワゴン)で、何度かサギを見かけたことがあったのだが、いかんせん乗り合いの車であるから、停めてもらうこともできず写真を撮れずにいた。そのサギをこの日は撮影することに成功。キルギスでのサギ撮影は半ばあきらめていたので嬉しかった。

sagi2

ちょっと見つけづらいが、別の一羽も撮影。光学3倍ズームのコンパクトデジカメではこのくらいが限界の距離であった。

私がサギを身近に見たのは、マレーシアにいた時で、その後、日本でも大阪の川で見たりもしたので、この鳥は暖かい所に棲むものだと思っていたが、マイナス気温になる場所でも生息していることになる。

2012/03/06

悪のり…、「北の国から」で動画を製作

以前、音声ファイルのみをアップしたウクレレ演奏での「北の国から」にキルギスの風景を付けて動画を作ってみた。

自分もチラッと映ったりして、ちょっと悪のりの感もあるが…

2012/03/05

コムズレッスン再開

ビシュケクに引っ越して、ここ3ヶ月ほど途絶えていたコムズのレッスンを再開した。

村の音楽学校で週1回程度レッスンを受けていたのだが、自分の用事で行けなかったり、先生が体調を崩したりが重なって、ずっとレッスンを受けられなかった。

首都の協力隊員のうち何人かがコムズを習っている先生がおり、私もそのレッスングループに参加させてもらった(レッスンは個々に行われる)。

村で教えてもらっていた先生よりかなり若い、というか彼女自身もまだ音楽学校の学生なのだそうだが、今まで受けてこなかった指導・アドバイスをいくつかしてもらって、「村の先生はなんで言ってくれなかったの?」と思った。

結構、基本的な弦の弾《はじ》き方からして間違った形で弾いていた。ギター弾きの要領でコムズも弾いてしまっていたようだ。一度覚えた癖を修正するのはゼロから覚えるよりも時間がかかる場合もあるが、手がコムズ弾きの形を覚えるまで繰り返し練習を積むしかない。

物価記録(2012年2月)

2012年月2の買い物から、キルギス(主にボコンバエバ村)での物価記録。

商品 キルギスソム 円換算
スリッパ 180 299
靴中敷き 40 66
レピョーシカ 15 25
パン 25 42
サラミ 95 158
キャベツ(1kg) 12 20
玉ねぎ(1kg) 15 25
にんじん(1kg) 15 25
コンソメ(1つ) 4 7
マッチ(1箱、低品質) 1 2
マッチ(1箱、割と良い) 2 3

2012年2月のドル-ソム為替レートは、だいたい1ドル=46.5ソム。ドル-円が1ドル=77円として、1ソム≒1.66円として換算。

村での買い物もこの2月でおしまい。首都ビシュケクでの独り暮らしで、これまでよりも買い物をする必要は多くなると思う。改めて物価記録表を作るが、首都のほうが野菜が安い(たまねぎ、にんじんはキロあたり10ソム)ので驚いた。物流が首都に集中するので、品物の量が多くなり安くなるということだろうか。首都のほうが物価が高いと思っていたので、ちょっと意外であった。

2012/03/04

気になるあの木

先日2月26日のブログに載せた写真の木は何かというクイズ。

回答は2の「洋梨の木」であった。

「洋梨の木」のクリックが2つ、「ポプラ」が1つ。クリックしていただいた方、ありがとうございました。

回答者数を見る限り、「気になる木」と思った人は少なかったようだが、枝がずいぶん細かいところまで分かれていて、私には毛細血管のように見えて、洋梨の木を見るたびにおもしろい木だと思う。

春から秋にかけて葉が茂っている頃は、枝ぶりが隠れているから気付かないのだが、秋が深まって落葉してしまうとこの毛細血管のような枝が現れるのである。