2010/12/15

БРОДЯЧИЕ СОБОКИ (野良犬考)

キルギスには野良犬がたくさんいる。

基本的に、キルギス人(民族としてのキルギス人)は犬をペットとして飼うという習慣はないようである。ロシア人(キルギス国籍のロシア人)は犬を飼うこともあるようで、首都では犬にひもをつけて散歩をさせているロシア人を見かける。

日本では野良犬を見かけることはほとんどない。山間部などに行けば、ふらふらとひも無しで歩いている犬を見かけるが、こと町中となると野良犬は皆無である。昔は日本にも野良犬はいたはずだ。

マレーシアにいた時も野良犬はたくさんいた。タイ、カンボジアでも見た。日本以外の国では、野良犬は当たり前の存在であることが多いのではないだろうか。

彼らは人間の食べ残しをあてにして生きているから、人がいる所に棲息している。一匹一匹に棲息範囲(テリトリー?)があるようで、例えば通勤途上ではだいたい同じあたりで同じ犬を見かける。

野良犬は総じて人を恐れている。人と道ですれ違う時は、犬のほうから筋を違えて過ぎていく。野良犬というのは、もっと常に、人を襲う気配に満ちているかと思っていたが、キルギスでは人を見れば向こうから道を避けて行く。成長の過程で人に痛い目に合わされて来ているのだろう。彼らにしてみればそれほど怖い人間なのであるが、人間のいる所から離れもしない。ここが不思議で、かつ健気に感じるところである。
中には、一つの家を自分のご主人さまと決めて、いつもその門の前に座っている殊勝なのもいる。

ずっと昔に狼の中から、人間に近づいていったものが犬になったそうだが、犬という動物の遺伝子の中に、人間の近くで暮らすという習性が刻まれているのかも知れない。特定の家に忠誠を示している犬は、別に人間から命じられたのでもなく、自らそこを選んでいるのだ(もちろん、家人の残飯をもらえるという報酬あればこそだが)。

そういうキルギスの犬たちは、なんと言うのか「自分の力で生きている」というりりしさを感じる。自分の習性、本能、能力すべてを総動員して食い扶持を求める姿はいじらしさの中にたくましさを感じる。

自分の日本の家にいる犬が、高齢でだいぶ弱ってきているから、ついつい「犬の一生」などに思いを巡らしてしまう。
「宅の●●ちゃんはペットじゃないざます。家族の一員ざます」とかわいがられ、栄養バランスの良いドッグフードを与えられ、病気になれば獣医に診てもらえ、近頃では多くは屋内で飼われ、快適な環境を与えられている犬と、毎日の食べ物の保障はなく、ありつけたとしても大抵はジャンクな物、けがをしても病気になっても自然治癒を待つのみ、しかし自分の力で生きている(生きざるを得ない)犬と、どちらが「犬らしい」生き方なんだろう…

(あ、これは人間でも同じ問いが言えるかも知れない。いわゆる「太く短く生きる」か「細くても長く生きる」か。前者が「野良犬型」、後者が「ペット犬型」、かな…?)

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