2012/07/27

海抜ゼロへ

7月27日午前10時33分、モスクワを経由して成田空港に到着。私は昨年一時帰国をしているので、ちょうど1年ぶりの日本となった。

家族が成田に出迎えに来ているメンバーもいたが、家族にはしばし待ってもらい、空港内のレストランで22-1キルギス隊で帰国後初の食事。

私はビールを注文して皆で乾杯。ヱ●スの黒を飲む。

IMG_3962(日本では今年は黒ビールが流行りだとか…)

帰国の際に乗ったアエロフ●ート社の飛行機では、ビールは有料だったため飲まず。ワインは無料だった。この航空会社は元々そうなのか、経費削減でそうなったのか。

空港に降りた時、予想していた通り、日本の湿気を帯びた暑さに体がだるくなった。ただ、これは暑さだけのせいではなく、これまで海抜1600mで暮らしていたのが、海抜が0mに近いような所に降りたために、気圧の違いでだるさを感じたのもあるのかも知れない。どうなんだろうか。標高の1600m差くらいは大したことではないのだろうか。

空港に着いた時点では「円」の手持ちが無かったので、空港内の両替所でドルを円に交換。1ドル≒75.5円。

2012/07/26

去りゆくものは美しい

本日、キルギスでの活動の最終日。2年間の協力隊生活が終わる。

「走馬灯のように.」は、思い出さないのだけれど、2年という時を過ごしたのだから、もちろんいろんなことを経験した。

村での生活、都市での生活。

活動の場がなかった時期、専門性を活かせた時期。

落ち込んだこと、高揚したこと。

独りでの旅行、仲間たちとの旅行。

節約をしたこと、贅沢をしたこと。

キルギス人が嫌だと思ったこと、キルギス人って良いねと思ったこと。

日本では見たことがない物・こと、日本と共通の物・こと。

暑~い夏、寒~い冬。

キルギスの楽器たち(コムズ、口琴、チョポチョール)、日本から持ってきた楽器たち(ウクレレ、三線、ハーモニカ)。

恋しく思った日本食、恋しく思うであろうキルギス料理。

こんなことは書き出せばいくらでも続く。

それを体験している只中は楽しく思えない経験でも、帰国する今は、それらを辛いという感じでは思い出さないから不思議なものだ。

去りゆくものは美しい思い出に変わっていくのだろうか。

ひょっとしたら、協力隊参加者の中にも、辛い、悔しい気持ちを抱えて帰国する人もいるかも知れないから、あくまでも自分のことだ。

キルギスで、青年海外協力隊員として出会った仲間たち。みなまで言うな。迷惑をかけたことは重々承知しておる。が、みんなが私から受けた迷惑の思い出も、帰国の時にはきっと美しい思い出になっているはずだから、大丈夫(何が?)である!

とにかく、帰国を迎えた今日、「ありがとうキルギス、ありがとうキルギスの人たち」と思いながら、この任地を去っていけるのはラッキーなことには違いない。

このブログをずっと読んでいただいた方にも感謝である。ときどき読んでいただいた方、何回か読んでくれた方、今回たまたまこのページがヒットした方もありがとう。

活動終了とともにブログの更新も終了する人たちも多いが、このブログはまだ更新する予定である。キルギスで見聞したことで、書き残したことはまだあるし、それにブログ名を「千、尋ねる」としておきながら、1000回にはまだまだ遠い道のりである。

とりあえず、これがキルギスで書く最後の記事である。

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2012/07/23

最終報告会

本日、JICA事務所にて、22年度1次隊キルギス協力隊員4名の最終活動報告を行なわれた。

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(プライバシー保護のため、ぼかし処理あり)

報告会の後、個別でJICAキルギスの所長と個別の面談・活動報告も行なわれた。

これでオフィシャルな活動は終了。残すは26日の離任、出発となった。

が、荷物の片付けという一番やっかいな作業がまだ残っている。2年間で一番憂鬱な時間かも知れない。

私は、いまだにマレーシアの任地を発つときのバタバタした状況を夢に見ることがある。

あれは、ひどかった。なにがひどいって、自分で手に負えなくなった荷物を、全部、タクシーに積んで、後輩隊員の家に投げ込んできたのだから、その後輩隊員からは「あの後、大変だったんですよ」と未だに言われる。いや、一生言われるだろう…

今回も、ちょっとそれに似た状況になりつつあるかも。ビシュケクの隊員に荷物を預かってもらうことになりそうだ。

10年経っても、まるで学習していない自分である。

2012/07/21

ラマダン

http://sky.geocities.jp/kaltimjp/ramadan.htm

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%B3

キルギスの24年度1次隊の新ボランティアの歓迎会と、ちょこっと22年度1次隊の送迎会のために、各地方で活動している隊員たちがビシュケクに集まってくれた。

歓迎会の時に誰かと話していて、「ラマダン、始まったね」と言われ、自分はまったく知らなかったのだが、どうやらそうらしいのである。

ネットで調べてみたら、今回のラマダンは西暦2012年の7月20日から8月18日までとのことである。今さら説明するまでもないと思うが、イスラム教の宗教行事である「ラマダン(断食月)」は、イスラム暦(太陰暦)に基づいて行なわれる(イスラム暦の9月)ために、西暦カレンダーだと、毎年異なる日程に行なわれる。

私はキルギスで3度のラマダンを過ごしたが、3度とも街の様子からは断食が行なわれているのかどうかが分からなかった。以前も書いたと思うが、マレーシアでのラマダンは、イスラム教徒(マレー人のほぼ全員)はかなり厳格に断食をしていた(家で軽食を取っている人を見たことがある隊員もいたが…)。マレー系の食堂は日中は営業休止になり、日没後から店を開くという感じであった。「これがイスラムの断食月か」と、間近に見て衝撃に似た感覚を覚えた。

キルギス人も宗教はイスラム教であるが、私がマレーシアで見たラマダンと比べると、「ゆるい」感じである。みんな、朝から晩まで、いつも通りに食事をしている。厳格に断食をしている人も一定数はいるようであるが、私の身近では見ない。

キルギスに来た当初、イスラム教の戒律を守っていないキルギス人たちを見て、「真面目にやらんでいいんか!」とやや批判めいた目で見ていたものだった。思えば、それは私がマレーシアで生活をした時のマレー人たちを規準にしてものを考えていたからだろう。

キルギスで暮らしているうちに、「ここの人たちがこれでいいと思うなら、こういうやり方もありなんだろうな」と思うようになった。そもそもムスリムでない部外者の私が、マレーシアのやり方が正しくて、キルギスのは間違っている、なんてことをいうのもおこがましいのだ。

他のイスラム教地域の人たちからはどう思われているのかは知らない(まあ、きっと眉をひそめる人たちが多いだろうけど)が、こんな人たちもいることで、イスラム教の中の多様性が保たれているという面もあるんじゃないか、とも思う。

【参照】

ウィキペディア 「ラマダーン」

2012年の断食月(おもにインドネシアの断食の様子)

2012/07/16

あと、10日。現実感、まだ無し。

7月26日が離任なので、今日で残り10日となった。でも、まだ帰国することにそれほど実感はわいていない感じでもある。

今週は仕事の最終週で、指導をしている自閉症の子供たちにとっても、最終回の指導となる。最終回なので、家族の人に頼んで、レッスンの後に記念撮影をする。自閉症の子には、カメラのほうを見るというのは難しい子が多いので、記念撮影でも一人よそを向いている。それがまた、その子らしい。あとで見ても「ああ、この子」と思い出すことになるだろう。

子供に付き添ってきている親からは「もっといてほしかった」「また来てくれないのか?」と声をかけてもらう。すべての子供・親にとって役立つ指導・支援ができたとは思っていないが、そうやって声をかけてくれる親にしてみれば、この数ヶ月の指導を通じて、多少なりの変化を感じられたということではないかと思う。

それにしても、日本を出発する時には「やれやれ、今から2年か」と、自ら志願して協力隊に参加したにも関わらず、2年という月日を長く感じたものだが、ぼーっとしたり、遊んだり、仕事したり、飲んだり食べたりして毎日を過ごしているうちに、730日間という時間は蓄積されていくのだ。

協力隊は期限がある上での話だが、人生全体を尺にとってみても同じことである。毎日、楽しんだり、苦しんだり、笑ったり、泣いたり、痒がったり、痛がったり、ほしがったり、嫌がったり、そんな一つひとつの感覚や感情を過ごしているうちに、いつか終わりの日を迎える。

人生の終わりの日については、いつ、どのように終えるのかはわからないが、協力隊の2年を「あっという間だった」と感じるように、「ああ、この○○年はあっという間に過ぎたなぁ」と思うのは、ほぼ間違いない。

2012/07/09

カマールにかまれーる Комар кусает

ビシュケクの夏がこんなに暑いとは、住んでみるまでは知らなかった。ビシュケク住人のみなさん、お疲れさま。

気温が35℃ともなれば、日本と変わらないくらいの猛暑である。実際、直射日光に当たると、日に「焼ける」という言葉が実感される。

ただ、ビシュケクが東京なんかと違うのは、とにかく樹木が多いことである。そのおかげで、影ができて、その中に入ればだいぶ暑さをしのげる。よく言われるように、日本は湿度が高いので、影に入ってもジメジメ感があるが、ビシュケクではそれがないから助かる。

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(とにかく木が多い。緑の威力を思い知る)

気温がこれだけ高いので、村ではついぞ見なかった蚊もビシュケクにはいる。夜の闇にあの羽音が聞こえたときの不快感といったらない。まあ、前に行っていたマレーシアに比べれば、断然、数は少ないのだけれど。

комар
(かわいそうだが、我が安眠のためつぶした。アーミン)

ちなみに、蚊はロシア語で「комар /カマール/」。蚊に刺されることを、ロシア語では「噛む」と同じ単語を使う。日本語でも「蚊に刺される」の他に、「蚊に噛まれる」「蚊に喰われる」という言い方がある。英語もbite(噛む)だったかな? 本当は「刺して吸う」のが正しいのだと思うけど、「蚊に吸われた」という言い方は聞いたことがない。

(今日の記事にはダジャレが2つ入った。)

2012/07/08

温度差十度

テレビの天気予報でキルギスの州ごとの予想最低・最高気温が出ていた。その日の予報では、キルギスで隊員が派遣されているのは3州あるが、私が以前いたイシククル州の最高気温が24℃、もう一つ別のナリン州というところは最高気温22℃であった。

首都ビシュケクはチュイ州にあるが、ここは34℃と出ていた。他の州と比べると約10℃も違う。

これは、標高の違い、山に囲まれていたり平野が多かったりという地形の違いなんかが関係しているのだろうけど、10℃ってかなりの違いである。

昨年の夏はバコンバエバ村にいて、日によっては30℃はいっていたと思われる日もあったが、それでも日が落ちれば肌寒くなるような感じであった。今年はビシュケクで過ごしているので、日本にいるようなジリジリとした陽射しを受けている。

首都以外の隊員(地方隊員と呼ばれる)が所用で首都に来た時に、10℃の気温差を経験するので、体調管理が大変である。実際、それぞれの地方を出発する時は、薄い長袖を羽織ってちょうどよいくらいであっても、チュイ州に入る峠を越えた途端に気温が急上昇するから、半袖にならなければならない。熱中症になりかけた、と言っていた人もいたくらいである。

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(この峠が気候の境目)

そういえば、ビシュケクの人たちは、夏休みになるとイシククル湖(イシククル州にある)へ行くのが当然みたいのようであるが、35℃の猛暑で暮らすビシュケク住人にしてみれば、イシククルに出かけるのは文字通り「避暑」であるのだね、今気づいたけど…。

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(イシククル湖のビーチ。避暑客でにぎわう)

2012/07/07

最後の一粒

日本から書籍類を送ってもらった時に、家族が日本食もいくつか入れてくれていたのだが、その中に梅干があった。

日本にいる時には毎日梅干を食べていたわけではないが、海外生活の身にとって梅干は「ザ・日本食」の代表格みたいなものであり、あるとホッとする存在である(かなり思い込みで書いているが…)。

昔、協力隊OBの先輩が、「梅干って、別にいつも食べたいわけじゃないんだけど、『梅干がまだ残っている』ということがいざという時に心の支えになるんだよねぇ」みたいなことを言っていて、まあ、それは梅干以外にも人それぞれそういう物があるんだろうけど、その話にはどこかうなずけるものがあった。

日本から送られた梅干も、自炊の時なんかに白米と一緒に食べたりしていたが、上の話が心のどこかにあったこともあり、最後の一粒は「いざという時」のために食べずに残していた。まだ、それは残っている。

では「いざという時」はいつなのか、どんなことがあるのか、と訊かれれば、おそらくそんな時は来ないのである。いや、「いざという時」が来たとしても、梅干一粒で対処できる・できないの話にはならないことはほぼ間違いない。

でも、「いざという時」のために梅干が一粒残っている、ということが大事である。たとえば体調を崩した時、「梅干を舐めればよくなるかも」という状況であっても、最後の一粒だから「いや、待て。もっと大変な体調不良が来るかもしれないから、今はまだ梅干の出番ではない」と思いとどまる耐力(?)が生まれるのである。

ということは、「いざという時」に備えるということは、「いざという時」の到来を延期させていることにもなるのかもしれない。「いざという時」のために用意した道具・手段を封印すれば、それ以外の道具・手段を考案しなければならなくなる。そして、意外にそれはそれで何とかなるのである。

このように、最後の一粒となった梅干の効用を書いてみたのだが、読まれた方には意味が伝わっただろうか。問題なのは、こんな風にして残っている日本食が他にもいくつかあることなのである。日本のインスタントラーメンの最後の一袋、塩昆布の最後の一袋、七味唐辛子の最後の一缶、生しょうがの一チューブ…。

これらの中には、先輩隊員から引き継いだ物もある。そして、私も残っている物は後輩隊員に引き継ぐのである。それらが活用されるような「いざという時」が彼らに来ないことを祈りつつ。

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(残された最後の一粒の梅干。これを食す時は来るのか?
というよりも、これ、まだ食べられるのか?)

2012/07/06

…しておけばよかった

任期残りわずかにして今さらなのだが、というか、残りわずかになったからゆえに、この2年間で「ああ、やっておけばよかった」ということが頭に浮かんでくる。

落語のファイルを持って来ればよかった…

いくつかの落語を音声ファイルに変換して持ってきていたが、もっとたくさん持って来ればよかった。桂枝雀の全集とか、金を惜しまずに買っておけばよかったなぁ、つくづく思う。落語とか漫才のCD・DVDは、外国では入手できない物だから、日本でゲットしおくべきであった。それでも、今は動画サイトで過去の寄席番組なんかがアップロードされている(あれって違法じゃないのかな?)から、たまにそういうのを見たりもしていた。

もっと読書すればよかった…

2年間、時間がたくさんあると思って、日本で読めていなかった本、読むのに時間がかかりそうな本をキルギスに持って来たり、あるいは郵便で送ってもらったりしてあった。でも、結局読めなかった本もたくさんある。郵送の手間と料金だけがかかったというわけである。

前の任地(地方の村)にいた時は、仕事は少なく、勤務後も娯楽場所はなかったので、ちょこちょこと本を読み進めていた時期もあったが、首都に移ってからは仕事が忙しくなったのと、部屋にテレビが付いていたので、本よりもテレビになってしまった。日本でもだいたいそんな感じだったんだけどね。

もっと語学勉強すればよかった…

これも読書と同じような感じ。村にいた時は、現地ではキルギス語のほうが多く使われていたので、キルギス語を独習していたが、首都に来て、職場が変わってからはロシア語中心となり、キルギス語の勉強は遠ざかってしまった。

ロシア語の勉強はしていたが、日によってむらがあったのがよろしくなかった。語学は、①基本的な文法事項を短期間で総ざらいして、②その後は、一定量の学習(単語、文法)を継続的に取り込むのがよい、という感じがする(これって、協力隊の語学訓練のやり方なんだけどね)。

もっとウクレレ、ギターの練習をすればよかった…

こんな反省ばっかり。楽器の練習も毎日コツコツとやる以外に上手くなる道はないからねぇ。2年前の予定では、キルギス滞在中にもうちょっと上手くなっているはずだったのだけれど…

もっとキルギス国内旅行しておけばよかった…

まだ行っていない場所が結構ある。もちろん、限られた時間であそこもここも旅行できるわけはないのだが、もうちょっといろんな場所を訪れる機会はあったような気がする。と言っても、もともと出不精の気もあるから、無理に出かけるのも不自然なんだが。

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これらの「…しておけばよかった」をまとめると、「2年間、時間がたっぷりあるから、いろんなことができるぞ~」と思っていたけれど、結局、たっぷりある時間を大して有効利用せずに終わった、ということになろう。

2012/07/05

床屋がうれしがる

髪を切りに散髪屋に行った。どのように切るかと理容師に尋ねられたが、私にとっては髪形の注文を言葉で説明するのは、日本において日本語でするのですら難しく感じる場合があることである。

別にアイドルでもファッションモデルでもないので、「見た目が変でなければなんでもいい」というのが、私の注文なのであるが、当然、それでは向こう(理容師)もやりづらい。正直なところ、「プロのあなた(理容師)がいいと思うようにやってください」とおまかせにしたいのだが、その結果、不満を言う客もいるだろうから、理容師側も客の望みを訊かずにはおれないということだろう。

そんなふうに難しいと感じる散髪の注文である。いわんや、ロシア語で、となればなおさらである。

今回、入った散髪屋は3人の理容師がいて、うち2人が男、1人が女。私の担当になったのは男であり、その人の髪の長さもだいたい私が切ってもらいたい程度の短さだったので、「どうするの?」と訊かれた時、「あなたと同じような感じで」と答えた。キルギスでも日本でも「フツー」という印象の髪形である。

で、しばらく散髪作業が進んだところで、理容師が「『オレとおんなじように』って注文した人は初めてだ」と言ってきた。実際、そうなのだろう。推察するに、キルギスの男性でそういう注文するのは一般的ではないのだろう。

いや、日本でだって、「床屋さんとおんなじ感じで」と頼む人は聞いたことがない。私も日本語ではそういう注文をしたことがない。面倒とはいいながら、「横、ちょっと刈り上げ気味で…」みたいに説明する。

「そんなふうに注文されるのは初めてだ」と言いながら、理容師の男はちょっと照れるというか、満足気というか、小さな笑いを顔に浮かべていた。間接的には自分の髪形を褒められたと受け取れなくもないから、それでうれしくなったのかもしれない。

10分強で散髪は終わった。値段は100ソム(バコンバエバ村では50ソムだったと記憶しているから、倍である)。ちなみに、こちらでは洗髪はないのが普通である(「美容室」であればあるかも。私は入ったことがないのでわからないが)。

この話にオチをつけるとしたら、その理容師の髪形が、モヒカンとかでなくてよかった、ということである。

2012/07/04

封筒が売ってない

封筒が売っていなくて、自分で封筒を作ったわけ(というより子供たちの課題として作らせた)だが、本当にキルギスでは封筒は売っていないのだろうか?

手製の封筒(あくまでも教室内の課題に使うための物。これで郵便を出すことはたぶんできない…)を作った後だったが、キルギス人に「キルギスでは封筒は売っていないのか?」と質問してみた。

その相手によれば、「封筒は郵便局で売っている」のだという。なるほど、私が文房具店を探し回っても見つからなかったわけだ。日本で封筒を購入するとなれば、まずたいていは文房具店、もしくは今なら百均ショップへ行くだろう。日本の郵便局で封筒を買ったことなんか私はないから、そもそも郵便局で封筒が売っているのかどうかさえ知らない(文を書き込んで、それを折って封筒にするような郵便物があるのは見たことがある。配達料が普通の封筒で送るよりも安いはず)。

面白いもので、ここ(キルギス)は日本ではないのに、封筒を買おうとするとついつい日本と同じように文房具店を探してしまうのである。自分の中に「封筒=文房具店」という図式があるから、他の国でもそんなものだろうと疑わずにいるのだ。現地の人にしてみれば、「そんな所を探しても、あるわけないじゃん」ってなものに違いないのだ。

同じようなことが、別の物でもあった。

料理をするのに片栗粉がほしかったので、スーパーマーケットに行って小麦粉を売っている棚の近辺を探してみた。まあ、粉類はだいたいそのあたりで売られているはずである。簡単に見つかると思っていたので、「片栗粉」をロシア語でなんというか調べずに行ったのだが、これがなかなか見つからないのだった。

私の頭には「片栗粉=紙袋に入って販売」というイメージがあって、しかもその紙袋というのは細長い形状なのである。これは日本で売っている片栗粉の商品パッケージのイメージなのであるが、それと同じように売っているとは限らないとは思い至らずに、キルギスでも同じような紙袋で売られているに違いないと思い込んでいた。

しばらくは「キルギスでは片栗粉売ってないねぇ。コーンスターチとかで代用してるんだろう」と解釈していたのだが、片栗粉を使う料理をすることになり、あらためてロシア語でチェック(крахмал /クラフマール/ と言う)し、近くの小さな商店で尋ねてみたら、すぐそこにいくつも並んでいたのであった。

パッケージはプラスチック袋で、日本で言うならばお好み焼き粉なんかがそんな感じで売っていた気がする。さらに、その袋の中に別のビニール袋に入れてあった(二重の袋)。ハハハ、紙袋パッケージで探しても見つかるわけがない(ちなみに、кра.малは澱粉《でんぷん》の意味で、パッケージに「じゃがいもの~」とあるのが片栗粉、「とうもろこしの~」とあるのがコーンスターチになる)。

間違っていると気づくまでは、思い込み自体が自分にとっては正解だから、やっかいなものだ。

2012/07/03

楽して課題作り ~「援助」と「手抜き」~

封筒がほしいと思って、文房具店を探したのだが見つからない。どうも、キルギスでは封筒はあまり一般に使われていないようである。

封筒がほしかったのは、別に誰かに郵便を送りたかったわけではなく、自閉症児の指導教室で課題として使いたかったのだ。日本で障害者の作業所で勤めていたとき、ダイレクトメールの発送の下請けみたいな仕事で、封筒に広告チラシなんかを入れる作業があった。そういうのの練習と思って、今教えている子供たちにもやらせてみようと思った次第。

ところが封筒が手に入らないということがわかったので、さてどうしようかと思案し、手製の封筒を作ってしまおうと考えた。製図して、切り取り線、折り線、糊付け部分を示して、封筒を作ること自体を子供の課題にした。結構、手順・工程が多い作業だし、線に沿って切る・折るとかは連合した運動機能が身についてないとできないので、すべての子供にさせられはしなかったが、何人かの子供には工作課題になった。

こうして、私は封筒を自分で作る手間を省くことができて、子供たちも新しい課題を経験することができた(かつ、それは次の課題の材料として使われている)。

対象者が子供、障害児・者だという思いがまずあるので、こちらでお膳立てしておいて何かをやらせるという発想になりやすいのだが、過度にお膳立てをすることは、相手のできる(はずの)ことをこちらが奪ってしまっている危険もある。

福祉サービスの従事者は「援助者」という立場だから、「他者を援助する者」として自己規定するわけだが、「私」が他者を助けるばかりが援助とは限らない。時には「私」はあまり手伝わずに本人にやらせることも、その本人にとっては自立度・自律度を高めるための援助になる。

いわば、援助者が意図的に「手抜き」をすることになる。「手抜き」という日本語はイメージがよろしくないが、とにかくあんまり手を出さないということである。援助者である「私」なんていなくても、その子供、障害児・者はなんとかやっていけるようになるのであれば、それこそ援助者としては目的達成である。対象者がいつまでも「私」なくしては生活できないような援助は、相手に依存されるという点では、相対的な「私」の自己存在感を感じることはできるが、援助者としてはいかがなものか、と思う。

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(本文とは直接関係はないかも。いや、やっぱ、ある。)

2012/07/02

日本のカレー粉

カレールーではなく、カレー粉でカレーを作ったという話を書いたが、その後、日本にもカレー粉が売っていたのを思い出した。

カレールーのトップメーカーがそれぞれカレー粉も発売している。

sb
赤缶カレー

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カレーパウダー

どちらも赤基調のデザインなのは、たぶんS●Bのほうが古くて一般的で、そのイメージをハ●スも追随しているからであろう。「パクリ」と言ってしまえば元も子もないが、このサイズの赤い缶はカレー粉だというイメージが流布していれば、陳列棚やキッチンで見つけやすいのだから便利だ。

それぞれメーカーサイトにカレー粉を使ったレシピがたくさん掲載されていた。カレーだけでなく、使い方にはいろんなアイデアがある。こういうのを見ていると、日本に帰ったら試してみたいと思わずにはいられない。

完成度の高いカレールーが幾種類も販売されているのに、いまだに古典的なカレー粉が売られているのは、単にカレーだけでなく、他の料理にもカレー風味をつけるなどの使い方で活用している人が多いからだと推測する。というか、そういう使い方はかなり広くでされていて、私が世間知らずというか、アイデア貧困でやっていなかっただけという気もする。

う~ん、ますます早く日本でもカレー粉でカレーを作ってみたくなってきたぞ。

2012/07/01

ええもん、みっけ!

テレビのチャンネルをテキトーに回して、たまたま音楽専門チャンネル(ロシアの番組)のところで、私にとってはすごく感覚を刺激されるコーラスが流れていた。ロシアのどこかの地方の民謡を現代風に歌うグループのようで、グループ名を知りたいと思って、番組に出てくる字幕や、司会者が言っている言葉に注意をして見て・聴いていた。

ПОВЕРЬЕ1
(音楽番組のテレビ画面をデジカメで撮影)

で、このグループは「ПОВЕРЬЕ」というフォークロア・アンサンブル(民謡合唱団)だということがわかった。

「ПОВЕРЬЕ」の発音は/パヴェーリェ/で、「言い伝え」という意味のロシア語である。なんか、その名前もいい雰囲気ではないか。

日本では知っている人はほぼいないグループに違いないから、このブログで紹介してしまう。いくつかの曲がMP3ファイルで落とせるサイトがあった。

http://www.realmusic.ru/poverie/

この中の「скачать」(ロシア語で「ダウンロード」の意)と書かれているところをクリックすると、MP3ファイルがダウンロードされる、もしくは再生されるはずなので、ぜひ試しに聴いてみていただきたい。民謡独特の周波数というか、合唱のピッチのずれが心地よいのだ。北欧の民族音楽なんかに近いのではないか。

YouTubeでも動画を見つけることができた。自分のパソコンからはロシア語を入力できないという人もいるだろうから、上のグループ名のところをコピーして、YouTube内で検索をすれば簡単である。

動画を見た人からは、「ウクレレちゃんがこのグループを気に入ったのは、歌声がどうのこうのと言っているが、本当は、歌っている女の人たちがべっぴんだからに違いない」という声も聞こえてきそうだが、それもなくはないかも…。

ПОВЕРЬЕ2
(リーダー(?)の女性。インタビューにはほとんどこの人が応えていた)

ビシュケクで天体写真

ビシュケクはキルギスの首都で、途上国とは言え首都はやはり電気・街灯も整っていて夜でも明るい。バコンバエバ村で見ていたような星空は望むべくもないのだが、「ものは試し」で天体写真を撮ってみた。

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手前の建物に一部が隠れてしまったが、北斗七星がきれいに撮れた。