2011/06/02

生活是肉体鍛錬《セイカツコレキントレ》

キルギスのように、「発展途上国」と呼ばれる国の生活では、日本での生活ではないような手間が色々とある。

例えば、水汲み。上水道が各家庭まで行き届いている訳ではないから、辻にあるポンプまで行って水を汲む家が多い。水は生命活動には欠かせないから、「面倒くさいから要らない」と言っていられない作業である。

一度にできるだけ多く運んだほうが、往復の手間が減らせるから、子供でもバケツを両手に持って水を運んでいる。さらに小さい子なら、ペットボトルとかを抱えて、自分の持てるだけの手伝いをしている。その子らもいずれはバケツで運ぶ日が来る。

例えば、洗濯。洗濯機は高級品だから、どの家にもある訳ではない。当然、手洗いになる。私のホームステイ先には二槽式洗濯機があるので、月に一度くらい、洗濯槽を回して機械で洗濯する。しかし、すすぎは手でやっている。それは手間だが、洗いからすべて手でやることに比べたらかなり楽である。洗濯機がない家ならば、洗濯の手間はいかほどか。

例えば、野菜の栽培。村では、面積の大小はあるが、ほぼすべての家庭がじゃがいも、にんじんなどを自分たちで栽培している。土を耕し、苗・種を植え付けていく過程も手作業が多い。一度、“手伝い”と称して、作業に参加させてもらったが、しんどかった。こういう作業にも、一家総出であり、子供も5~6歳ともなれば、それなりの戦力として数えられている。

私の観察眼が及ばぬだけで、日本人の生活と比べたら、ほかにもまだまだ手間がかかることがあるのは間違いない。上に見たように、それらの手間は肉体労働そのものである。

キルギス人たちを見ると、がっちりした体格の人が、男も女も多い印象である。酒と油の摂取過剰でぶくぶくの体型の持ち主も多いが、そういう人でも骨格はがっちりしているように見える(あくまでも主観的な観察に過ぎないが)。元々の、遺伝的にがっちりした骨格ということはあるかも知れないが、子供の頃から、水汲みなどの家事手伝いで作り上げられた面も大きいのではないか。思うに、彼らの生活は、生活そのものが筋トレみたいなことになっているのである。

翻って、どこかの国では、スポーツジムに金を払ってベルトコンベアの上を足踏みして、体力維持・増進だと言うのである。それなら、いっそ自宅で洗濯物を手洗いしたら、節電にもなるし、よほど合理的なような気がしないでもない。

今から、日本で、洗濯板で洗濯をする生活はできるかなぁ…

・生活そのものが筋トレになっている。
それを幼少の頃から積み重ねている

・日本…スポーツジムに金を払って行く

2011/06/01

停電の影響

東日本大震災で、東北・関東の多くの地域で停電になったという。最近の状況はわからないのだが、今も送電復旧していない・計画停電している地域があるのかも知れない。

今回の大震災の停電は別にして、日本で停電に遭うことはほとんどなかった。今、数日に一度は停電が起こる場所にいると、電気が24時間365日供給されている環境では思いもしなかった停電の影響があることに気付く。

前に書いたことだが、自分の日常生活が電気製品に囲まれていることが、停電になるとよく分かる。パソコン、携帯電話、テレビの類は、まあ我慢するとなれば我慢できるものである。

が、冷蔵庫となるとそうはいかない。特に冷凍庫にとっては、長時間の停電は大問題である。村の家々にも冷蔵庫は見かけるが、冷凍庫を利用している家庭はあまり見かけない気がしていた。これは、どうも、停電が関係あるのかも知れない(冷凍・解凍を繰り返すと、食品の傷みが速いのではなかったか?)。

冷凍庫問題は家庭よりも商店のほうが深刻である。多くの店は冷凍庫があって、肉・魚などを売っている。長時間の停電はこうした食品も傷めることになる。そして、何よりも影響が大きいのはアイスクリームである。もう言わなくてもお分かりいただいていると思う(書きながら、あるカタカナ単語が頭に浮かんだが、時局柄、洒落になりそうにないので控える…)。

商店でアイスクリームを買って、袋を開けてみると変形してしまっているのがよくある。当初、冷凍庫の冷凍温度が高いために、あるいは客が扉・蓋をちゃんと閉めないために、アイスクリームが溶けてしまうのだろうと予想していたが、そんなことよりも停電の影響のほうが大きいはず。

そんなふうに変形してしまったアイスクリーム。日本なら売らない(売ったら客が文句を言うに決まっているから)だろうが、こちらではそのままである。これもまたカルチャーギャップである。

新月。暗闇の恐怖。

これを書いている今は、日が替わって6月1日深夜。今日あたりが新月にあたっているようである。

村には街灯が少ないから、月明かりがないと外はほんとうに真っ暗である。夜、何も見えないというのを、日本の町で暮らしている者には分からないかも知れないが、本当に真っ暗である。

こういう時に一番嫌なのが、夜のトイレである。こちらではトイレは外にあるのが普通だから、用を足すためには暗闇の中を行かなければならない。もちろんライトはあてながら行くが、ライトで照らす所以外は何も見えず、うっすらと見える木の枝などが、かえって不気味さを増す。

こういう暗闇に身を置くと、「その木の陰に、不審者が斧でも持って潜んでいるんではないか」などと余計な想像をしてしまう。ホラー映画のせいで、そういう想像をしてしまうのか…。

用を足している時も、後ろから襲ってくる奴がいるかもと心配で、背後を気にして、半身になりながらである。書いていると笑えるが、その際中はハラハラしているのであるから、笑わずにいただきたい。

さて、便所への往復の間、家の近く・遠くから犬たちの吠える声が絶え間なく聞こえてくる。これは新月の夜に限ったことではなく、どんな時でも犬の吠え声が聞こえぬ夜はない。日本の都会では、犬は室内飼いするのが一般的になっているように思うから、夜中に犬が吠えるのも昔ほど耳にしなくなった。しかし、ここでは室内飼いなどする家はないから、犬たちは外で「番犬」としての務めを果たして吠えるのである。

ま、犬ならば正体も分かっているから、そう怯えることもないが、もしこれが他の動物の鳴き声であったら、さぞ不気味であろう。その時、私は、かつて火の利用方法も知らなかった我らのご先祖の人類を思う。彼らにとって、夜は恐怖以外の何ものでもなかったはずだ。

牙も爪も、際だって武器といえるほどではなく人類にとって、暗闇に響く他の肉食獣たちのうなり声・吠え声は、ホラー映画の恐怖どころではなかったと思うのだ。

たかが便所への用便であるが、こんな深い(?)思索に到る、新月の闇夜である。